第4話 「俺はあんたとも仲良くしたいんだけど」

 平坦な道を暫く歩いたところで、ようやく高次の家に到着した。その道のり、お互いずっと無言だったせいもあり、巽には一時間にも二時間にも感じられたが、実際は二十分だった。

 高次の家は、木造の平屋だった。竹を編んだ垣根ごしに見える屋根は瓦で出来ており、巽の目には今日日珍しいように感じたが、この辺りではよく見かけるらしい。高さはそこまで無いものの横に広く、二世帯の家族が住むには丁度よい広さに見える。

 ただ明かりがひとつもついていないせいか、夏の夜に訪れるには、少々不気味にも感じる佇まいだ。

「結構、立派な家に住んでるんだね」

「中身はオンボロだよ」 

 半分錆びた門を開いて、玄関まで続く白い飛石を歩いていく。右手には紫陽花が植えてあり、花の時期が過ぎたそれは、暗闇の下ではうっそうとして見えた。

 玄関の引き戸を開け、ただいまも言わずに上がっていく高次の後を、巽も慌てて追いかける。高次に続いて部屋へ入ると、ふと線香の香りが鼻をくすぐり、子供の頃に訪れた祖父母の家を思い出した。

「えっと、お邪魔、します」

「そこ座ってて。結局ロクに食えなかったし、何か適当に作るから」

 案内された場所は八畳ぐらいの居間だった。昔ながらの丸い卓袱台と、座布団がふたつ敷かれている。

 柱には三ヶ月捲られていないカレンダーが残り、どことなく時が止まっている印象だったものの、角に置かれた二十四型の薄いテレビは比較的新しく、それだけが異様に浮いて見えた。

 居間の先にはもうひとつ和室があり、ふたつの部屋は襖で仕切れるようになっている。今はその襖は解放されていた。

 隣の和室を軽く覗いてみると、奥の方に仏壇が見えた。

 飾られた花や果物は新しく、左の端に、穏やかな笑みを浮かべた老婆の写真が置いてある。皺は多く髪も白くなっていたものの、温かな眼差しの残るその姿は、生前はさぞかし人気があったに違いない。なんとなく、先ほどのトギツネ氏やワタヌキ氏も、彼女に恋をしていたのではと思える。

「これ、おばあさん?」

「そう」

 仏壇に写真がある、ということは、もう亡くなっているのだろう。何と声を掛けていいのか解らず、巽はただ、野菜が切れる音を聞いていた。料理をするのにも慣れているのか、トントンと包丁がまな板を叩く音は規則正しく、迷いもない。

 沈黙が徐々に重苦しく感じる。

 何か手伝うべきかと思うものの、自慢ではないが、巽は自分で料理をしたことがない。家では母やお手伝いさんが作ってくれた料理を食べ、こちらに来てからは惣菜やカップラーメンで過ごすことが多かった。改めて振り返ると、我ながら今までよく生きていたものだ。きちんとした住まいが見つかったら、料理道具を一から揃えて、自炊をしよう。

 そういえば、高次の他の家族はどうしているのだろう。

 仏壇に他の写真は飾られていない。しかし家の明かりが真暗だったところから推測するに、この家には高次ひとりが住んでいるのものと思われる。

 疑問に思う巽の心を読み取ったわけではないだろうが、高次がフライパンに油を敷きながら言った。

「高校卒業してからは、ばあさんと暮らしてたんだ。じいさんは俺が生まれる前に死んでるし、両親は仕事の関係で東京に住んでる」

「ふぅん」

 何故、高次は両親と一緒に東京へ行かなかったのか。

 それは訊いてはいけない気がして、老婆の写真へ目を逸らした。

「おばあさん、どんな人だったの」

「口やかましいばあさんだったよ。あれは残すな、これはきちんと食べろ、とか」

「乾くん、好き嫌いが多いんだ」

「うるせ。今はほとんどねぇっての」

 以前は好き嫌いが多かったことは否定しないらしい。ピーマンやにんじんを皿の上に残し、「食べないと大きくなれませんよ」と叱られる少年高次を想像すれば、自然と笑みがこぼれる。どこで間違ってひん曲がってしまったのか知らないが、高次にも純粋な目をした少年時代もあったようだ。

「直前まで煩いぐらい元気だったくせに、人間死ぬときはぽっくり逝くもんなんだなと思った」

「寂しくないの」

「あんまり。もう年だったし、覚悟出来てたのかも。……ほれ」

 漆で塗られた丸い盆に箸と小鉢を乗せ、高次がやってくる。ごま油の優しい香りについ腹が鳴り、巽は顔を赤らめた。高次にも聴こえなかったわけではないだろうが、触れずに居てくれるのは彼の優しさか。

 卓袱台へ置かれた小鉢に盛り付けられているのは、ごぼうとれんこんのきんぴらだ。まさか毒が入っているのでは、と警戒する巽だったが、今日もろくに食事を摂っていない。こみ上げる抗い難い食欲へあっさり降伏するまでには、そう時間は掛からなかった。

 礼を言って箸を受け取り、両手を合わせる。

 ひとくち口へと運ぶと、舌の上に柔らかな味が広がった。

 おふくろの味、とも言えるそれは、巽を懐かしい気分にさせる。

「美味しい」

「田沼さんに教わったんだ」

「町の人とは、仲いいんだね」

 巽はふと、『居酒屋たぬま』での出来事を思い出す。

 親しげに町の住人と話し、笑みを浮かべる、高次の顔。あの表情を向けるのは町の人にだけで、自分には決して向けられることはないのだろう。

 巽の言葉を考えていたのか、彼は黙っていたが、程なくして呟きをぽつりと落とした。

「俺はあんたとも仲良くしたいんだけど」

 その言葉に思わず巽は手を止め、高次を見た。

 その顔にはいつものように笑みはなく、どこかつまらなさそうにも見える表情だった。

 他の誰にも興味がなく、ただぼんやりを生きているだけ。

 話しかけるのすら躊躇われるような、そんな表情でこちらを見られると、巽の背からは汗がどっと吹き出た。

 半分閉じた瞼の奥で、ぎょろりとした目がこちらを見ている。

 瞳はいつも視線の矢をそこから放ち、そしていつも巽を刺し殺す。

 胸が苦しい。

 なんとかしてこの場を収めなければ。

 ぽたりと汗をひとつ垂らしながら、おずおずと訊く。

「でも、俺のこと、嫌いなんじゃないの」

「なんで」

「なんでって」

 そんなのこっちが訊きたいぐらいだ。

 徐々に空気が重くなるのが、巽にも解る。

 まるで足のつかないプールに入ったみたいだ。溺れないよう必死にもがいても息が苦しくなるばかりで少しずつ沈んでいく。

 見えない底から、脚を引っ張る手が伸びてくる。

「いや、なんでそう思うのって意味」

 会話に行き違いに気付いた高次が、棘を含んだような声で訊きなおす。

 あぁこの声だ。

 触れるだけで皮膚が裂け、そこから血が一筋流れ出る。ひとつひとつは些細な傷でも、無数に開けば致命傷となるだろう。

「だって、いつも俺と居るときは、不機嫌そうな顔、してるし……」

 吐き出す言葉の語尾が、震える。

「一之瀬さんは、俺のこと、怖いわけ」

「……」

 とうとう何も答えなくなった巽に、高次は舌打ちをひとつして立ち上がった。

「シャワー浴びてくるわ」


 取り付く島もなく、居間にぽつりと残された巽は、とりあえず出されたきんぴらを残らず食べることにした。高次が立ち去ったあとはきんぴらの味もよく解らず、口に詰めては咀嚼し、飲み込むだけという事務的な食べ方になったが。

 風呂から上がり、何事もなかったかのようにシャワーを勧める高次を見て、あれは冗談か何かだったのだろう、と巽は思う。

 先ほどのことだけじゃない、今日見た高次の笑みだって、見間違いだったかのように感じる。折角一緒に仕事をするのだから、仲良くしていたい、もっと笑う顔も見てみたいと願うあまり、幻を見たのかもしれない。

 今からでもホテルへ帰るべきか迷いながらも、結局シャワーを借り、いつの間にやら脱衣所に用意されていた短パンと新しい下着を借り、ドライヤーまで借りてしまった。そうして洗面所から出てくると、居間の卓袱台は片付けられ、そこに布団が一組敷いてあった。

「客用の布団、長いこと干してねぇから」

 まさか二人でひとつの布団に眠るのだろうか。足元に敷かれたそれを見下ろし、その考えを打ち消すように巽は首を横に振った。

「俺、その辺で寝るよ」

「今日は布団で眠るために来たんだろ」

 両肩を捕まれ、半ば押し倒されるように敷き布団に横になる。部屋の明かりを落とせば、高次も巽の横に収まり、ふたりに薄い夏用布団を掛けた。

 昼間のうちに干していたのだろうか。身体を受け止める敷布団はふかふかと柔らかく、まだほんのりと温かさが残っている。布団は横たわっても背中が痛くならない、という、当たり前のことに感動を覚えた。

 これ以上暴れても仕方がないだろう。

 久しぶりに布団で眠れるのだ、それ以上の贅沢は言うまい。諦めて目を閉じ、高次に背を向けようとしたところで、ふと、間近に石鹸の匂いを感じた。

「ん……?」

 この匂いは誰のものだろうか。

 そう思った次の瞬間にはもう、高次の両腕に捕まっていた。

「ちょっ、ちょっと何っ」

「実力行使。あんたとも仲良くしたい、って言ったのに無視するから」

「あれ冗談じゃなかったの?」

 途端に跳ねた心臓がうるさい。

 その音に気付かれないうちに相手の腕を振りほどこうと身を捩るが、捕える両腕の力は思いのほか強く、まったく離れようとしない。それどころか両脚まで巽の身体に絡まり、完全に抱き枕とされた。

 自分のものでない体温が、呼吸が、心音が、五感で感じられるほど近くにある。

 ああ、こんなことは何十年ぶりだろう。

 小学生に上がる頃にはもう、両親とは離れて眠っていた。

 ふたりともホテルの仕事が忙しく、巽には構っていられなかった。昼夜問わずホテルへ借り出される両親を見て、我侭を言ってはいけないと幼い頭でも解っていたし、家でひとりぼっちになることも、しかたないことだと割り切っていた。

 でも、傍に居てほしくないわけでは、なかったのだ。

 高校生になり、大学生になっても勉強と家の手伝いばかりで、結局誰とも遊びもせず恋人も作らずに過ごしてきたから、人間の体温というものがこんなに暖かいことを、忘れていた。

 高次は、確かに顔は怖くて雰囲気も近寄りがたくて笑顔も滅多に見せないけれど、でも、作ってくれた食事は暖かく、そして己を抱きしめる両腕は今までの誰よりも優しい。

 急に大人しくなった巽の顔を、彼が覗き込む。

「泣いてんの」

「泣いてない」

「あっそ」

 明かりを消せば田舎の夜は真暗だ、こんなに近くても顔は見えないだろう。良かった、と巽は思い、目を閉じた。

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