第3話 「四ツ井不動産、都市開発営業部に所属しております、二階堂彰と申します」
店には既に二人の男性が酔っ払っていた。
いずれも六十代後半の男性だが、ひとりは腹のぽっこりと出たタヌキのような垂れ目の親父で、もう片方はひょろりとしたキツネのような細い目の男だった。
こうも対照的な二人が仲良く並んでいると、まるで本物のタヌキとキツネに化かされているような気分になる。
「おお高次くんじゃ」
「今日は休みかい。ほらこっちきて飲みな」
『居酒屋たぬま』はカウンター席が五つ、テーブル席がふたつあるだけの小さな店だった。店の中は木材を主に使用しているようで、橙色の照明とあいまって温かな雰囲気を醸し出している。
壁には綺麗な行書体で書かれた手製のお品書きが並んでいるが、あれは田沼夫人の字だろうか。
カウンター席の二人に呼ばれるまま巽と高次もその隣に座ると、田沼夫人がおしぼりとお通しの小鉢を置いてくれた。中身はナスときゅうりの白和えだ。
箸を手に取り、その小鉢へ手を付けようとしたとき、巽はふと視線を感じ、身を強張らせた。
キツネ男が高次越しに、巽のことを興味津々な表情で覗いている。額や目元にも深い皺が刻まれた顔だが、目はまるで宝物を見つけた少年のように、キラキラと輝いていた。
「お連れの人はもしかしてアレか、ウワサの支配人さんか」
「……ラブホで働いていること、隠してないの?」
キツネ男の質問に答えるでもなく、つい高次に訊いてしまう。
無意識のうちに眉根が寄ってしまっていたのか、それを見た高次は自分の眉間を箸頭で示しながら言う。
「別に隠すようなことじゃないし」
呆れてため息を吐く巽に、タヌキ親父が福々しい顔をしながら言った。
「そうそう。何の仕事だって、立派に働いてるんだから偉いもんです」
「高次もちょっと前まで、髪は金色に染めてるわピアスはずらっと開いてるわで不良そのものだったのによぅ、今じゃこんなに堅気になって」
「ピアスはまだ開いてるけど」と高次が自己申告しながら白和えをつっつき始める。
髪に隠れて解りにくかったが、こうやってよくよく見ると、右耳だけでも三つのピアスが開いているようだった。金色のリングピアスがふたつと、ルビーだろうか、小さな深い赤色の石が嵌ったピアスがひとつ、隙間から覗いている。
「仕事も勿論でしょうけど、私のお手伝いをしてくれたり、とっても真面目にやってくれてるんですよ」
田沼夫人が、カウンター席から穏やかな笑みを浮かべて言う。先ほどまでの鬼のような形相が、まるで嘘のようだ。その表情があまりに爽やかで、逆にヨシヒコの安否が心配になるぐらいだった。
「そうするとタダで飲ませてくれたり、飯奢ってくれたりするからやってるだけだっての」
「はいはい。今日もビール一杯はサービスしてあげますよ」
巽と高次の前に、ビールのジョッキがふたつ置かれる。慌てる巽に、「お近づきのしるしです」と田沼夫人は微笑んだ。
なんだか思っていた町と違うな、と巽は思う。
引越しの日、駅を降りたときに感じたこの町の第一印象は、寂れた町、だった。シャッターこそ開いていたものの、古い看板や中が暗い店も多く、人の気配が感じられないまま、巽は商店街の通りを歩いていた。
その後もろくに外に出ていなかったせいか、そのイメージは変わることなく今日までやってきたけれど、こうやって少し町を歩いてみただけで、そこには確かに人が住んでいると解る。
「仕事の方では高次はどうなんだ?」
キツネ男が身を乗り出し巽に訊いてくる。思わず近づいたその分だけ、巽は身を退いてしまう。
間に挟まれた形となった高次が、邪魔くさそうにしっしと手を払った。
「そういうの訊かなくていいから。……田沼さん、出汁巻き卵とから揚げひとつ。一之瀬さんは何か食べます?」
「えぇっと……」
壁に掛けられた手書きのメニューに目を走らせる。そこに書かれた文字ははっきり見えるものの意味が頭に入ってこず、巽は首を横に振った。
思えば飲み会などというものに参加したことはなかったし、こうやって人と食事をするのは、家族以外では初めてかもしれない。
おまけに、家族との食事はどんなときでも必ず正面に両親がすわり、巽の隣の席はいつも空いていた。テーブルと並べられた皿がまるで境界線のように自分たちの間に横たわり、そこを飛び越えることは、箸先ひとつ出来なかった。
こういう場所では、どんなことを話せばいいのだろうか。
ジョッキの水面を見つめるしかない巽の様子に気付いたのか、タヌキ親父がにこにこと話しかけてきた。
「高次は、仕事を真面目にやっていますかね」
内容はキツネ男のものと全く同じだったが、タヌキ親父に訊かれると不思議と安心する。
早口で、ともすれば何を言っているのか聞き取りにくいキツネ男に比べ、タヌキ親父は、まったりとした口調と心地の良い低い声をしているせいだろうか。
重ねられる質問に高次は顔をしかめるも、それ以上は何も言わずにビールを煽る。
答えても良いという本人からの許可は貰ったものの、まさか「真面目ですけどいつも不機嫌な顔をしていて怖いです」なんて本音を言うわけにも行くまい。
とはいえお世辞を言うのは得意ではない。
何と答えていいやら考えあぐねたあと、巽はおずおずと言葉を吐き出す。
「仕事も、真面目にやってくれてます」
その答えを聞けば、まるで孫を褒められたかのように、タヌキもキツネもくしゃりと皺を寄せて微笑んだ。
「そうかそうか。俺もあと十年若けりゃ、遊びにいったんだけどなぁ」
「わしはまだまだ現役じゃが、アンタは二十年の間違いでしょうに」
「俺とあんたは同い年だろうが」
「それもそうだった」とお互い顔を合わせ、まるで少年のように笑いあう。幼馴染なのだろう、数々の苦楽を越えてきた信頼が、ふたりの間に出来ているように見え、巽は少し羨ましく思った。
そうしてふと高次の方を見ると、彼もまた、笑っていた。
「……」
巽は、その笑顔から目が離せなくなった。
仕事は真面目に不満ひとつ漏らさずやっている。だけれど、笑顔だってひとつも零さなかった。
その高次が、笑っていた。
彼もこんなに無邪気な顔をするとは知らなかった。しかしタヌキ親父とキツネ男はそれを指摘するでもなく、さも当たり前のことのように談笑し続けている。もしかしたら、ホテルの外ではこれが普通の高次なのだろうか。
ふと、巽の胸のうちに暗澹とした雲が掛かる。
もしそうならば、巽は彼に、嫌われているのだろう。
笑顔なんて欠片も見せたくないほどに。
三ヶ月間、上手く、とはいかずとも、何も気に障るようなことはしてこなかった、と思う。無理な残業を押し付けたり、小さなミスを執拗に責めたこともなかったし、高次に対して横柄な態度をとったこともなかったはずだ。
何がいけなかったのだろう。
「あの、」
ホテルの中ではない、町での高次はどんな人間なのだろうか。
これがいつもの高次であるのか。
二人に訊いてみようと声を掛けたところで、引き戸の開く音がした。
「こんばんは」
新たな来客の声に、全員が後ろを振り返る。
その瞬間、和気藹々としていた空気が途端に冷え込んだ。空調の設定温度を変えられたのかと思うほどの急激な冷えに、巽は思わず背筋を震わせる。
店の入り口に立っていたのは、見るからに良い生地の使われた紺色のスーツを着こなす、若い男だった。その男を見たキツネ男が、地を這うような声で言う。
「何しにきた」
「飲みに来ただけですよ。……お隣、失礼しても?」
巽は返事も出来ず、隣に座る男を見上げた。
髪は後ろに撫で付けられ、細い銀縁の眼鏡をかけた、いかにも「出来る」といった成り立ちである。彫りの深いはっきりとした顔立ちが凛々しく、切れ長の目は冷徹な印象を見る人に与えた。夏だというのにジャケットをしっかり着込み、ネクタイまできっちり締めているにもかかわらず、暑苦しさは全く無い。
男に向けるタヌキ親父とキツネ男の視線が痛いほど鋭くて、間にいる巽は逃げ出したくなるぐらいなのに、男はそれをものともせずにビールを一杯注文する。
口を半開きにしたまま自分を見つめる巽に気付いたのか、男はスーツの内ポケットから名刺を取り出し差し出した。
「あぁ申し遅れました。私、四ツ井不動産、都市開発営業部に所属しております、二階堂彰と申します」
「都市開発、……」
この空気の理由が、ようやく巽にも理解できた。
彼がヨシヒコが言っていた「怪しい男」なのか。
一見して真面目な社会人風ではあるものの、インテリヤクザと言われれば頷くことも出来る怪しさを、確かに持っていた。薄ら笑みを浮かべ、タチノキに反対する人間の首を、じわじわ音も無く締めていく。二階堂のそんな姿が目に浮かぶ。
突然、キツネ男が持っていたジョッキをカウンターに置いた。
どん、と大きな音が立つのに、巽はびくりと肩を震わせる。
「けっ、こんなヤツと飲んでると酒がマズくならぁ」
「次の店行きましょ、ワタヌキさん」
「おうよ。トギツネ、いい店知っているかい」
タヌキ親父の方がキツネで、キツネ男の方がタヌキだったとは。
ピリピリとした空気に現実逃避をしたくなったのか、巽は場違いなことを思いながら、出て行く二人の背中をぼんやりと眺めることしか出来なかった。高次も高次で、「あのふたり、またツケにしてる」と調子の外れたことを呟いていた。
「私も、随分嫌われているようですね」
当人である二階堂はふたりの態度に気を悪くした様子もなく、涼しい顔でそんなことを言う。そうしてゆっくりと瞬きをひとつしてから、巽の方を見た。
何か声を掛けてくるわけでもなく、じっと見つめるその視線に寒気が走り、巽は怖々と訊く。
「えっと、何か」
「いいえ。何でもありません」
変な人だ、と視線をそらしたとき、二階堂の前にジョッキがどんと置かれた。二度目だというのに、巽は再びびくりと肩を震わせる。キツネ、もとい、ワタヌキのそれと違い中身がなみなみと注がれていたおかげで、カウンターにビールが飛び散った。
田沼夫人だ。
折角のお客を追い払われた当て付けか、あるいはやはり田沼夫人も駅前開発反対派なのか、二階堂を見る目は、浮気した夫を見る目のように冷たい。
「その一杯、飲んだら帰っておくれ。あんたたちが言うように、ここは田舎だからね。帰りの列車がなくなるよ」
勿論田沼夫人に悪気があったわけではないのだろう。
ただ、店が急遽本日の営業を終了してしまったせいで、部外者の巽も外に追い出されることになった。「まだ出汁巻き卵とから揚げ食べてないのに」と文句を言う高次を引っ張り、店を出る。
二階堂はというと、こういう対応も慣れっこなのか、巽たちに挨拶をして颯爽と去っていった。
神経が図太くないと出来ない仕事なのだろうな、と巽は思う。頭皮を大事にして欲しいものだ。
「一之瀬さんさ、今夜はうちに泊まっていけば」
目の前で降ろされるシャッターを見つめながら、高次が言う。彼の横顔は、職場の明かりの下で見るそれと、どこか違うように見えた。
「別に、いいよ。このままホテルに戻る。迷惑かけちゃうし」
迷惑を掛けしてしまうから、という言葉は、半分は真実だが、半分は嘘だ。
実際のところは、好きでもない人間を自宅に泊めるなんて、気が知れず不気味だと感じている。
もしかしたら眠っている間に刺されるかもしれないし、身包み剥がされて夜の町に追い出されるかもしれない。
ばかばかしいとは思うが、高次はやりかねない空気を孕んでいる。どんな危険で違法なことも淡々とこなしてしまいそうな、そういった空気だ。
おまけにそういうことをしても、次の日は平気で職場に現れ、何事も無かったかのように仕事に就くのだろう。
警戒心を露にする巽に、高次はやはり面倒くさそうに言った。
「布団で眠れるけど」
「……」
ホテルに住み着いてから三ヶ月。
いくら空いているとはいえ、流石に客室で眠る無神経さは持ち合わせていない。いつも寝床にしている仮眠用のソファはごわごわとしていて硬く、寝返りを打つのにも一苦労だ。おまけに上に掛ける物も毛布一枚と貧相なもので、そろそろまともな寝床が恋しくなっているのは事実である。
布団の魔力は冬だけのものではない。
たとえ夏だって、抗えないものには抗えないのだ。危ない橋を渡るべきではない、と知りつつも、悪魔の囁きについ頷いてしまった。
「それじゃ、今晩だけ」
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