第2話 「お知り合い?」 「俺の職場の上司だよ」 「あぁラブホテルの」 「……」

 

「とは言うものの……」

 何の特殊能力も持たない巽に出来ることと言えば、駅前で地道に聞き込みをすることぐらいだろう。新木も町の人から噂を聞いたと言っていた。道行く人々に声を掛けてみれば、噂の発生源が掴めるかも知れない。

 しかし。

 火曜日の午後五時。夏の日差しは長く、屋外は十分に明るい。田舎と言えども、この時間の駅前は夕飯の準備に追われた奥様方が多く、あちこちで買い物籠を持つ人々が見受けられた。聞き込みをするには絶好だとも言える場所だが、彼女たちに話しかけるには、勇気が要る。元々人に声を掛けるのは得意ではないが、そのせいだけではない。

 彼女たちが、ちらちらと巽の方を見ては、何かひそひそ話しているからだ。

 見慣れない男が、平日の夕方にひとりで突っ立っていたらそれは怪しいだろう。整髪料をつけ、髭もきちんと剃っているとはいえ、こちらに着てからだいぶ着まわしたせいでよれたワイシャツとスラックス姿では、よくよく見るとみすぼらしく見えるかもしれない。

 急遽こちらに引っ越すことになったとき、同じ日本だ、必需品は引越し先で購入すればよいだろうと考え、スーツ一着や下着類といった必要最低限の荷物だけ持ってやってきた。なるべく身軽で来たいという思いと、折角新生活を始めるのだから新しく揃えたいという気持ちが、当時はまだあったのだ。

 しかし現実は厳しく、生活品が揃う場所といえば市街地まで電車で片道二時間かけて行くしかしかなかったし、その市街地でも巽の心を動かすような衣類はほとんど無かった。それ以前の問題としては、まずは部屋を決めねば荷物の置き場が無いので、物を増やすのも考え物だ。暫くは最低限の装備で回すしかないだろう。

 ともあれ調査を開始してから、いや、開始しようとしてから既に十分は経つ。周りの視線が熱すぎて、そろそろ服が溶けそうだ。巽にもそれは理解できているが、かといって彼女たちに話しかければそのまま交番へ連れて行かれそうで、どうすることも出来ずにいる。

「……」

 ちらりとそちらを見るたびに、さっと目を逸らされる。また別のところから視線がやってきては、追いかけっこになる。


 巽は徐々に、息苦しさを感じ始めた。

 白い強膜の中にぽっかり浮かぶ焦げ茶色の虹彩。

 無数の瞳が遠慮なくこちらを見つめ、突き刺してくる。

 いつからだろう。人にじっと見られるのが苦手になったのは。

 親しい人であれば話は別だが、あまり話したことのない人間や、全く知らない他人にじっと見つめられると、巽は動悸が激しくなり、まるで金縛りにあったかのように身動きが取れなくなる。

 そうして呼吸をすることすら難しくなり、倒れたことも一度や二度ではなかった。


 じわりと、暑さ由来ではない汗が滲む。何か別の作戦を考えなくては。ひとまずは戦略的撤退だ、と踵を返そうとして、後ろからワイシャツの裾を引っ張られているのに気付いた。

「おじさん、迷子?」

 振り返れば、小学三年生ぐらいの男の子が居た。

 家にも帰らずそのまま遊びに行ったのか黒いランドセルは背負ったままで、坊主頭に白いタンクトップ、紺色の短パンという出で立ちは、典型的な腕白小僧のそれだ。実際やんちゃなのか、頬には絆創膏が一枚貼ってあった。

「迷子、というか、」

 何と説明していいのか解らずに言いよどむ巽に、少年はニヤリと口元を吊り上げる。

 背伸びをし、くりくりの黒目で巽を覗き込む様はどこか憎めない悪戯っこのようだったが、巽は思わず視線を逸らした。

「ははぁん、おじさん。オレが子供だからって甘く見てるんだ。駅前商店街一の情報屋、居酒屋の田沼ヨシヒコとはオレのことだぜ」

「情報屋?」

「そ。帰り道でも美味い飯屋でもさ、知りたいことがあったら何でも訊いて」

「何でも」と、巽は思わず鸚鵡返しに言った。

 たとえソースが小学生であったとしても、何の情報も得られないよりはマシだろうか。藁にも縋る思いで、巽は訊ねる。

「町のはずれにあるホテルのこと、知ってる?」

「廃れたラブホのこと?」

「……」

「オバケが出るって噂があるみたいだけど、オレに言わせれば、そんな噂はただの子供だましだね」

 巽の目には、ヨシヒコもまだまだ子供に見えるのだが。そんな彼の口から、ラブホ、という単語が出てきたのにも、乾いた笑みを浮かべるしかない。その単語の意味を、そしてそこで何が行われているのか知っているのかと訊きたくなるが、そこは大人としてぐっと堪える。いずれにしても、オバケが出る、という噂があるのは嘘ではないらしい。

「そんなオバケのことより、今日はもっといいネタがあるんだけど」

 ヨシヒコが短パンのポケットから小さいメモ帳を取り出し、中を開いた。ネタ帳なのだろう。カバーは黒い合皮で出来ていて、そこに細い鉛筆が一本差せる便利なものだ。

 中には何が書いてあるのだろうか。

 巽が反対側から覗こうとすると、ヨシヒコは意地の悪い笑みを浮かべて、さっとカバーを閉じる。

「聴きたい?」

「うん」

 どうせこのまま突っ立っていたところで何も進展しないだろう。今日のところは調査は諦めて、気分転換に子供の遊びに付き合うのも悪くはない。

 ヨシヒコが、そうこなくちゃ、と指を鳴らす。そうして小さな手のひらを青空へと向け、巽の方へと差し出してきた。

 その意図が解らず首をかしげる巽へ、とびきりの笑顔を向ける。

「情報料。ちょっと行ったところに駄菓子屋があるんだよね」

 なるほど、甘く見てはいけないようだ。


 駅前商店街の中に公園があったとは知らなかった。

 公園とはいえ、雨ざらしになって錆びたベンチと、塗装の剥げかけたブランコだけの小さな公園ではあるが。

 ふたつしかないブランコをふたりで占拠し、買ってきたばかりのアイスキャンディの封を切る。駄菓子屋はすぐそこだけれど、この気温のせいか、ソーダ味のそれは既にうっすらと溶け始めていた。

「最近、怪しい男が駅をうろついてんだよね」

 四角いアイスキャンディの端を齧り、ブランコを小さく揺らしながらヨシヒコが言う。

 先ほどの自分のことがもう噂になっているのか、と巽は思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。

「居酒屋のお客さんも話してるけどさ、エキマエカイハツっていうの? そういうのが始まるらしいよ。そんでスーツ着た怪しい男が、下見に来てるんだって噂。古い商店街は全部壊して、新しくて綺麗な街を作るんだって」

 確かにこの駅前商店街も、戦前からあるのではと思うような古い建物が多い。

 買い物客は皆近所の人ばかりのようだったし、おそらくお金は商店街の中をぐるぐる回っているだけなのだろう。

 新しい風を入れなければ、どんどん腐っていくだけなのは確かである。

 ただ、長年暮らした場所を簡単に離れられるかというと、それは難しい。

 いきなり新しいものを受け入れるには年を取りすぎていることだってある。そういう人を無理矢理退かし、町を潰すというのはいかがなものか。

「タチノキに逆らうやつは、嫌がらせをされたり、悪い噂を流されたりするんでしょ。今はまだそういう話を聞いたことはないけど、いつかそうなるんじゃないかって、かあちゃんたちが話してた」

 何も書いていない棒の先を見つめてヨシヒコが呟く。

 きっとヨシヒコの母も、駅前開発の反対派なのだろう。そして、反対し続ければ経営している店に悪影響が出ないかと心配しているに違いない。たとえば店の前に鶏の死体がバラバラになって置かれるだとか、店のものを飲み食いしたら食中毒になったと噂を流されるだとか。

 そう考えたところで、巽の頭にひらめくものがあった。思わずぽんと両手を打つ。

「そうか。もしかして、『パラディーゾ』の幽霊の噂も」

「んなわけあるかっての」

 聴きなれた声に、思わず後ろを振り返る。

 そこには高次と三十代ぐらいの女性が立っていた。

 高次はいかにも休みの日らしく、赤い無地のTシャツと紺色のジーンズ、足元はビーチサンダルという非常にラフな格好だ。食料品の買い物帰りなのだろう。二人が提げている両手のビニール袋からは長ネギや大根の青々とした葉がはみ出ていた。

「乾くん」と、巽が呼びかけるよりも早く、隣の女性がつかつかとこちらに歩いてくる。

「ヨシヒコ! あんたまた人様からアイスをたかったのね」

「げっ」

 白い割烹着と透き通るような白い肌は、お団子にした黒髪との対比が美しく、愛嬌たっぷりの若女将といった出で立ちだ。しかし今はアーモンド型の目を吊り上げ、ヨシヒコの耳を引っ張っている。「もうしないって」と反省の言葉を繰り返すヨシヒコだが、それも二回目なのか、女性は手を離そうとしなかった。

 そんな二人の様子をぽかんと見ていると、高次がそっと耳打ちしてくる。

「ヨシヒコのおふくろさんだよ。買い物の荷物持ちについていったんだ」

「へぇ……」

 彼女が一児の子持ちだということより、高次が荷物持ちについていったということに、巽は驚きを隠せない。

 高次はそういうことを面倒くさがるタイプだと思っていた。

 彼女に謀られて荷物持ちになってしまったのか、はたまた弱みでも握られているのか。

 田沼夫人がようやく、巽がいることに気付いた。人目があったことを知り、「あらやだ」とヨシヒコの背をぱしんと叩く。そのしぐさは、あんたもっと早く言いなさいよ、と言いたげだったが、ヨシヒコからすればとばっちりもいいところだ。

「高次くんのお知り合い?」

「俺の職場の上司だよ」

「あぁラブホテルの」

「……」

 先ほどのヨシヒコもそうだが、まるでコンビニか何かのように、ためらいもなく、ラブホテル、と言われると、逆に巽の方が恥ずかしくなる。

 こんなにも『ホテル・パラディーゾ』が町の人々に浸透しているとは思わなかった。

 そのうち「あのラブホテルですか、私もよく利用しますよ」などと言う人間にも会えるかもしれない。

 田沼夫人が照れたように一筋乱れた前髪を耳へと掛け、ゆっくりと頭を下げる。

「ヨシヒコがご迷惑をおかけしました。お詫びといってはなんですが、今夜はうちで一杯やりませんか? サービスしますよ」

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