ホテル・パラディーゾへようこそ!

ミヤマキ リシマ

第1話 「三丁目の桂木さんが言ってたのよ。あの人が言うんだから間違いないでしょ」

「うっそぉ。じゃあ巽ちゃん、このホテルに住んでるの?」

 長い付けまつげにびっしりと彩られた瞳を更に大きくさせ、常連客のアケミは驚いた声を上げた。

 シャンデリアの飾られた高い天井に、声が響く。しかしそれを気にする客は誰も居ない。客など他に誰もいないのだから当然である。

 こちらをじっと見つめるその瞳から、巽はさりげなく視線を逸らして苦笑する。

「はい。まだ、この辺にいいアパートが見つからなくて」

「この辺、畑ばっかりでアパートなんてないしねぇ」

 正確には、駅前にひとつだけ見つかったのだ。

 しかしそれは戦後間もない頃に出来たもののようで、外見を見たとき、巽はそこに住むことを諦めた。

 その二階建ての木造アパートは、部屋の数こそ六部屋のようだったが、今はその半分以上が空き部屋になっているらしい。壁には隙間無く蔦が絡みつき、外付けの階段は、端の方にうっすらと苔が生えていて、なんと三段目は抜け落ちていた。

 そんな中でも生きられる苔の生命力は侮れないなと思いつつ、巽にはそんなに強く生きる力などない。

「でも幽霊が出るんじゃないの、このホテル」

「幽霊、ですか」

「三丁目の桂木さんが言ってたのよ。あの人が言うんだから間違いないでしょ」

 誰だ三丁目のカツラギサンって。余計な噂を流してくれちゃって。

 巽は内心げんなりしながらも、困ったような笑みを浮かべ、「残念ながら幽霊には会ったことありませんよ、ただの噂話ですよ」とやんわり返す。

 アケミは決して悪い人ではないと解っているが、巽はこの常連客がどうにも苦手だ。

 それは彼女、もとい、彼がオカマだからだ、と思う。

 アケミは一見して、すらりと背の高い女性モデルにも見える。彫りが深く目鼻立ちもハッキリしているせいか、顔は実に化粧栄えして美しい。身長もともすればアケミに負け、平々凡々な平たい顔に一重瞼、特徴と言えは右目下の泣きぼくろのみの巽には、そういった派手な顔というのがうらやましくも思えるのだった。

 しかしよくよく見ると、やはりどこか違うと解ってしまう。

 たとえば大輪の向日葵が咲き乱れる白いワンピース。ウェストをきゅっと絞ったおしゃれな着こなしは女性らしいが、そこから伸びる二の腕や太ももは、やはり女性のものに比べると太くしっかりしていて、彼が彼女でないことを知らせている。勿論声も低い。

 同性婚が法律で認められ、早五年経とうとする。

 この辺りではアケミぐらいだが、都会の方ではもう、沢山の同性カップルが生まれているらしい。中学生時代の友人も会社で出会った同性の恋人と早速結婚したらしく、この間巽の元にも写真が届いた。男性同士だったはずだが、写真の中の二人は何故かウェディングドレスを着ていた。添えられた文章いわく「子供の頃からの夢だった」とか。

 何にせよ、悪いことではないのは解っている。ただ、慣れないのだ。こんな田舎じゃ、そういう人に触れる機会もほとんどないのだから仕方ない。

「ちょっと聴いてる?」

「えっ、あっ、はい」

「聴いてなかったでしょ」

 くすりと笑うアケミは、綺麗だ。

 彼が女性だったら「いいな」と思っていたかもしれない。

 それでも巽は、生理的に受け入れることが出来ずにいた。

「その幽霊の噂ってのはね、部屋には彼と自分以外誰も居ないはずなのに、ふとした瞬間、誰かに見られてるような気がするんだって噂なの。巽ちゃんも気をつけてねん」

「はぁ。……ところでアケミさん、本日は何号室でご休憩なされますか」

「あのかわいいドレッサーとテディベアがあるところ」

「二○二号室ですね」

 ハート型のキーホルダーがついた鍵を差し出す。

 このまま話に付き合っていたら、いくら暇とはいえ巽の仕事が捗らないし、何よりロビーで待たされている彼氏が不憫すぎてならない。お預けを食らった犬のような目で、先ほどからこちらをちらちら見ていることに、巽だけは気付いていた。


 そう。ここはラブホテルである。




 ホテル『パラディーゾ』。

 地方都市から電車で二時間。そんな田舎にある無人駅、から更にバスで十分の、町のはずれにあるラブホテルだ。

 五階建ての建物はまだ築十年も経っておらず古びた感じはしない。

 水色の三角帽子を被った白い円筒が左右に建ち、その間を締め切った窓が三つ並ぶ外見は、いわゆる「お城風」で否が応でも目立つ。

 受付は無人というラブホテルが多くなった中、『パラディーゾ』はフロント制で、一階はフロントと事務室、従業員の休憩室になっている。

 二階から上は全て客室で、部屋数は各階四部屋の計十六部屋だ。それぞれの部屋にはお姫様風だとか和風だとか、はたまた病室風といったようなテーマがあり、繁華街に建っていたならばちょっとした話題になりそうなラブホテルだった。

 しかしながら、このあたりに住んでいるのはラブホテルとは無縁のお年寄りばかりで、需要があるとは到底思えない。

 普通のホテル業を営む父が、どうしてこんなところにラブホテルを建てたのかは解らないが、きっと道楽のひとつだったろう。

 「そのラブホテルをやるから経営してみろ」と言われたのが半年前、巽の二十八の誕生日のことで、こちらに引っ越し、巽が経営を引き継いだのは三ヶ月前だ。

 営業時間は二十四時間であるものの、平日は客数ゼロの日も多いため、火水木は店も開けていない。それでも困った様子がないのが困りものだ。


 今日も今日とてお客は少なく、フロントで閑古鳥と仲良くしていると、事務室の方から声を掛けられた。

「一之瀬支配人」

「新木くん。……巽でいいのに」

「そんな、ダメですよ。僕は、お世話になってる身なんですもん」

 新木伸也は、他の従業員とは少し立場が違う。

 新木の家もまたホテル業を営んでいて、巽とは父親同士の仲が良い。

 実家を継ぐ前の修行先としてここに派遣されたようだが、果たしてこの場所で修行になるのかどうかは謎である。新木ホテルといえば、世界でも名高い高級ホテルだというのに。

 伸長は巽と同じぐらいなものの、ほっそりとしたラインと、すらりとした姿勢が彼を長身に見せる。このホテルの制服である、白いシャツに黒いベストスーツという出で立ちが良く似合っていた。

 ただ顔はどちらかというと丸顔で幼く、緩く天然パーマのかかる明るい茶髪がより一層彼の年齢を若く見せている。確か二十五を過ぎていたと記憶しているが、遠目だと大学生にも見えた。

「一之瀬支配人、こちらへ」

 促され、巽も事務室へ入る。田の字にくっつけられた席のひとつに座ると、新木も向かいの席に座った。そうして机に置いてあった帳簿に手を伸ばし、売り上げの日計が示されたページを捲る。

「先月の結果がまとまりましたので、報告します」

 新木が来店客数、売上高、光熱費、人件費諸々を読み上げていく。最終結果は先々月比で九掛け、つまり一割減という厳しい結果だ。

「主な原因は、やはり売り上げ自体が減っていることでしょうか」

 純売上高を伸ばすためには、単純に収入、つまり総売上高を増やすか、あるいは支出、つまり経費を減らすかが必要である。

 てっとり早いのは人件費を削ることだ、とよく言われるが、そこはすでに削るところがない。

 従業員は巽と新木、それから深夜勤務に対応できる地元の人間がひとり。あとは清掃会社からメイク係が派遣されてくるが、そのメイク係も仕事がなく、日長一日休憩室でテレビを見ている有様である。

 これでも一応給料が出るのだから、従業員にとってはある意味理想郷であるかもしれない。退屈は人を殺せるけれども。

「オープンしてから三ヶ月目ですが、順調に来客数は減っていますね」

「……」

 言われなくても解っていることを満面の笑みで言われると、余計にグサリと来るものがある。そろそろ心が出血多量で潰えそうだ。

「でも減ってる、ってことは、最初はそこそこ居たってことなんだよね」

 最初からゼロならば、いくらマイナスしたところでゼロのままだ。

 しかし減っている、ということは、最初はゼロではなかったということであろう。

 この三ヶ月の間で飽きられたか。あるいは……

「新木くんは、このホテルに幽霊が出るって噂知ってる?」

「一之瀬支配人もその噂、聴いたんですか?」

 帳簿から顔を上げて、新木がこちらを見た。ゆるく微笑むその表情は、まるで「幽霊の噂、信じてるんですか?」と笑っているようで、巽は目を逸らす。

「常連客のアケミさんが言ってた。別に信じているわけじゃないけど」

「僕も、町の人から聞いたことがありますよ」

 たしか彼は、町の外から電車とバスを乗り継いで通ってきていたはずだ。つまり町は通過点にしか過ぎない。

 それなのに町の人々から噂話を聞けるとは、なんというコミュニケーション能力だろう。確かにこの人当たりのよさがあれば、打ち解けるのもあっという間かもしれない。

 そんな新木を羨ましく思うのと同時に、不憫にも思うのだった。

「新木くんは、もっと他に似合う職場があるだろうになぁ」

 父親からの命令だとはいえ、辺鄙な町の、寂れたラブホに勤務では、浮かばれないではないか。

「こんなところに勤務させられて、大変だろ」

「そんなことありませんよ。勉強させてもらうことは沢山あります。……一之瀬支配人こそ、大変じゃないですか? ほとんど一日フロントか事務室に居て」

 基本は休憩を一時間含む、九時間交代の勤務体制だ。だが、今の巽はこのホテルに住んでいる都合、特に出かける用事がなければ一日中ホテルに居ることになる。

 おまけに仮眠するためのソファは事務室の中にあり、その間にはカーテン一枚しかない。そうするとどうしても様子が気になり、ついつい手や口を出してしまうのだ。

「支配人はがんばりすぎだって思いますよ。もうちょっと気を抜いて、僕たちを頼ってもいいんですからね」

 これから昼食なのだろうか。正面の席で、新木がビニール袋から惣菜の包みを取り出す。駅前の商店街で買ってきたらしい、コロッケの良い香りがふわりと広がった。そういえば今日はまだ昼食を食べてないことに気付く。腹の虫もそのことを思い出したのか、急に鳴き声を上げて主張しだした。

 その音を聞いたのか、新木がクスリと笑う。

「食べますか。コロッケサンド」

「でも、新木くんの分がなくなるんじゃ」

「ふたつ買ってあります」

 支配人はご飯食べるのも忘れちゃうんだから、と巽の前に紙包みを置いた。

 両手のひらの上に乗せられるぐらいの包みはすっかり冷えていたけれど、それでも新木の気遣いが嬉しかった。彼の思いやり精神は、このホテルには勿体無いなといつも思う。

「ありがとう」

 渡された紙包みを解き、その端にかぶりつく。冷めても柔らかなパンに、さくさくとした衣のコロッケ。市販のものとは違う、ケチャップの風味が効いたソースがこれまた絶妙に絡まり美味い。空腹は最高の調味料だとは言うものの、それだけではないだろう。

 どこで買ったのだろうか。包装紙を広げてみてみるも、特別店のロゴなどは入っておらず、無地のシンプルな茶色い紙だった。

「しかも支配人、ここに住んでるって言いますし。家、見つかるまで、僕の部屋に来ます?」

「有難いけど、新木くんには迷惑掛けられないよ」

「幽霊、怖くないんですか?」

 包み紙から顔を上げ、思わず巽は新木を見た。彼があまりに真面目な顔をしているものだから、「幽霊の噂、信じてたんじゃないか」と笑い飛ばすことが出来ない。

「……まぁ、大人だしね」

「危なくなったら、いつでも呼んでくださいね、駆けつけますから」

 まるでご主人に尻尾を振る犬のような屈託のない笑顔で言われると、すさんだ心が洗われるようだった。

 売り上げが下がり、なんとかしなくてはいけないのは解っている。それでも実際何をしていいのか皆目検討がつかないまま、先月も終わり、また今月も過ぎ去ろうとしていた。

「こんな田舎でなく、もっと繁華街に店を構えるべきでは」と思ったこともある。

 ホテルで仕事をするのが実家を継ぐための修行だとするならば、たとえば新木ホテルのような、もっと忙しいところで働いて、「仕事とは何か」を教えてもらう方が手っ取り早いのではないか。

 そんな愚痴を考えていても、何も進展しないのは解っている。どうにかしなくては。

「幽霊、か……」

 巽はそうひとりごちると、中身の食べ終わった紙包みをクシャリと丸め、ゴミ箱へと放り込んだ。




「幽霊なんて、居るわけねぇじゃん」

「乾くん、支配人には敬語を使いなさい」

 夜の十一時。出勤してきたもうひとりの従業員、乾高次は、どうにも上司に対しての礼儀がなっておらず、言葉遣いは何度注意しようと直さない。

 しかし五センチメートル上から切れ長の目でじろりと睨まれると、巽もそれ以上は何もいえなかった。襟足の長いアシメウルフは、今でこそ黒髪に染め直しているが、確か入社当時は光の透けるような淡い金髪だった。

 そんな不良を何故雇ったかと言われれば、応募が彼しかなかったからである。

 募集していた主な勤務時間は深夜帯の時間、つまり夜の十一時から次の日の朝八時までだ。最寄の駅の電車が土日だと九時台には終わるため、どうしても地元の人間を採用せねばならなかった。

 しかし募集のチラシを駅前の掲示板に貼りだしたものの反応が全くなく、諦めかけていたとき、高次から「募集ってまだやってますか」と電話があったのだ。

 外見こそ問題はあれど、受け答えはまだしっかりしていたし、年齢的には二十二と問題もなかった。

 いつもどこか不機嫌そうで、明日いきなり退職するのではないかという雰囲気があるものの、三ヶ月経った今でも仕事はきちんとこなすので働いてもらっている。

 そんな彼に勇気を出して、「夜中に変わったことはないか」と訊いてみたものの、特に不審な点はないようだ。椅子の背もたれを軋ませ、巽は大きく伸びをする。

「幽霊って言うからには夜中に出ると思ったんだけどなぁ」

「幽霊どころか生身の人間も居ねぇしな」

 生身の人間が居ないから幽霊が出るのでは、と思わないでもなかったが、客が居ないのは確かである。

 今日が日曜日というのもあるだろうが、今は県外からはるばる車でやってきた若い男女のカップルが一組、一番安い部屋で行為に及ぶ、もとい、ごゆっくりとくつろいでいるだけだった。きっと道に迷ったのだろう、運転してきた彼は鍵を受け取りエレベーターに乗るまで終始イライラした顔だったし、彼女の方も疲れきった表情でヒールの折れたサンダルを手に提げていた。

 ふたりが無事にストレス発散でき、ぐっすりと眠れることを巽はそっと祈る。

「ラブホだってのに静かなモンだよ。喘ぎ声のひとつも聴こえやしない」

 それは防音がしっかりしてるからだろ、と巽は思うも、曖昧に笑って受け流す。あまり彼とはいざこざを起こしたくない。

 高次はその様子をちらりと横目で見て、「これからどうすんの」と訊いた。

「最近客足が遠のいているのには、その噂も少なからず関係していると思うんだ。いや関係ないかもしれないけど、これ以上変な噂が広がるのは避けたいし、ちょっと調べてみようと思ってる」

「何か手伝う?」

「ありがとう、でもいいよ。こういうことをなんとかするのは、支配人の仕事だし」

 その言葉を聴いて、高次が何か言いたげに唇を開く。

 しかし「あっそ」と言ったきり、他には何も言ってこなかった。

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