第九話「それぞれの選択Ⅲ」
静さんの家の第一印象は、大きいな、だった。初めて来た時、素直にその壮大な建築物に驚いたくらいだ。勿論祭さんや青子さんの家も大きいと思ったし、僕らが住んでいる築五十年以上経っているだろうアパートに比べれば、どんな家だって大抵綺麗にも大きくも見えるけれど。それでもやっぱり、とりわけ静さんの家が大きく見えたのを、僕は覚えてる。
第二印象は、楽しい、だった。僕らが静さんの家に行く時、それは大体祭さんや青子さんも一緒の時だ。というか、僕ら三人だけで静さんの家に行ったことはなかった。
開き直るわけじゃないけど、今更だから弁解はしない。静さん達とみんなでいる時間は、時間を忘れてしまうくらい楽しかったし、みんなで一緒にいる時間が、僕は大好きだった。
静さんの家に行くと大体みんながいる。みんなといると楽しかったから、みんなが集まる静さんの家に行くのは楽しかった。
でも、
『大きい家ですね。ものすごく広々としているし…何やっても怒られないなんて、羨ましいです』
確かに響と琴乃は二人暮しだが、あまりうるさくすると大家さんが鬼の形相で怒るのだ。基本的にどんちゃん騒ぐことを好む二人としては、夜中にどれだけ騒いでも注意する人物がいない赤崎の家は、かなり羨ましいものであった。だからあの時、響はそんな風に言ってしまったのだ。
(でも、もしかしたら僕は、
響は今になって、そう思う。
「こんなところに…ずっと一人で住んでたの、しずか先輩は」
すとん、と琴乃がその場に座り込んだ。嫌だ嫌だと、ひっきりなしに彼女は首を横に振る。
ぽたりと、琴乃の涙が頬を伝って絨毯にしみを作った。
『祭さんって、いつも静さんの家に行ってますよね』
『んー?ああ、まあなー』
『なんでですか?そんなに自分の家に帰りたくないんです?』
『バーカ。そんなんじゃねえよ。間違っても静の前でそんなこと言えねえし…そんなんじゃないんだ』
その時は疑問にすら思わなかった。どうして静さんの前で家に帰りたくないって言えないんだろうと、その時の響はほんの少しそれが頭を過ぎったくらいだった。
響はあの時、笑顔の裏に巧妙に隠された緑間の悲しい感情に、気づくことができなかった。気づこうとすら、しなかったのだ。
『じゃあ、なんでですか?どうして祭さんは、毎日のように静さんの家に行くんです?』
気づけなかった響は、そんなどうしようもない疑問の答えを、緑間に求めてしまったのだ。
「こんなものが家であってたまるか…!こんな、こんなんじゃなかっただろう、静先輩の家は、こんなんじゃ…っ」
「…それが、そもそもの間違いだったってことだよ…優」
あの優ですら、表情に陰を作り、こめかみを押さえながら肩を震わせていた。
(―静さんの家は楽しいところだった。僕らには、上っ面の楽しいところしか見えていなかったんだ)
『あいつの家は、すっげえ寂しいんだ。俺は、一分一秒でもあそこに静を独りにしたくないんだよ…真っ白で何もないあのからっぽの家は、ある意味あいつの敵だから』
(そういう意味だったんですね…祭さん)
今ならその言葉の意味が、痛いくらいよくわかります。だからあなたは…毎日のように、
『…全然、羨ましがられるようなところじゃないよ、ここは。僕はあんまり、好きじゃない』
(僕は、なんてことを)
ここ数日、宣言通りここで寝泊りするようになってわかったことがある―否、わかってしまったことがある。
赤崎の家に泊まりに来てかれこれ三日。三人はひたすら掃除をし続けていた。この家は広い。そして広いが故に、掃除をする場所もかなり多い。家主である赤崎が全く掃除をしないせいか、家の中は色々とひどい有り様であった。
それでも、赤崎の部屋とリビングだけは割りと清潔が保たれていて、緑間が掃除をしていたんだな、と三人は思い至った。掃除嫌いな赤崎の代わりに、おそらく彼がちらかった家の中を掃除していたのだろう。
だが、綺麗に掃除がされているのはその二部屋だけで、他の部屋は全く手付かずの状態であり、最早開かずの間同然であった。長らく使われていなかったのか、部屋に入っただけで埃アレルギーである優はくしゃみが止まらなくなった。
そしてその部屋―合計で三部屋の内の、リビングから繋がっている部屋を掃除している時、ふとあるダンボールに目が留まったのだ。そのダンボールには、“絶対に開けるな!”と汚い字で書かれている。三人は顔を見合わせ、そのダンボールを開けたのだ。開けるなと書いてあったのに。
中に入っていたのは大量の写真と、アルバム。それと、日記帳だった。
写真は、見知らぬ男性と女性(おそらく赤崎の両親)と、幼い頃の赤崎と思われる子供が映っているものがほとんどだった。だが、その見知らぬ男性と女性ではない男性と女性が映っている写真も、枚数は断然少ないがちらほら見当たった。そして枚数が少ない上に、その二人が映っている写真は、かなり幼い赤崎と映っているものしか残ってはいないようだった。成長してからは、先にあげた二人の男女と映っている写真しか見当たらない。一体どちらが赤崎の両親なのだろう、と三人は首を傾げる。
一枚、おかしな写真を見かけた。おそらく赤崎が二歳くらいの頃に撮ったもので、一緒に映っていた女性(後者)が病院服を着て入院している写真だ。その人物のお腹は、まるで妊娠しているかのように膨らんでいた。
―まるで、ではなく、もしも本当に妊娠していたとしたら?
その女性が赤崎の母親であるかは定かでなかったのでなんとも言えないが、もしかしたら赤崎には、きょうだいが居たのではないだろうか?
次に三人が目を留めたのは日記である。もう随分ぼろぼろで、紙は日焼けしてしまっていた。よほど昔に書いたものなのだろう。代表して、響が日記帳を開いた。
字は本当に汚かった。一体いつ頃書いたものなのだろうと疑ってしまうくらい。だが、読めない字でもなかった。三人は無言で読み進めた。
『きょうはおにごっこをした。まつりはたっちしたらないて、どうしようってなった。つぎはかくれんぼにする』
『きょうはかくれんぼをした。おにのまつりが、みつからないってないた。どうしようってなった』
この辺は、微笑ましくて思わず笑ってしまった。ほとんど緑間が泣いたと書いてあって、これを使って今度からかってみようか、なんて三人で話したくらいだ。
だが、問題は―そんなことでは、なかったのだろう。
ページが進み、日記帳の半分ほどまで読んでいった頃、書いてある内容に変化が起きた。
『お父さんとお母さんがけんかした』
『今日もけんか』
『ぼくのことほっといて、けんか』
日付は書いていなかったが、漢字が徐々に混ざり始めているところを見ると、おそらく小学生の頃に書かれたものだと考えて間違いないだろう。初めの頃に比べると、随分字も上手くなっていた。
胸騒ぎを覚えたが、それでも三人は日記を読んだ。
『お父さんがいなくなった』
『お母さんがごはん作ってくれない。おなかすいた』
『お母さん。いたい。たたくのいやだ』
文章からその情景が痛いほど思い浮かんで、三人は何も言えなくなった。これは一体どういうことなのだろう。途中までは、とても中睦まじい家族描写も描かれていたというのに。
『お母さんがこわい』
『朝おきたらお母さんがいなくなってた。テーブルに、ごめんねって書きおき。なんであやまるの。早くかえってきて』
『祭のいえ。お母さんいつになったらかえってくるの。さびしい』
ごくり、と誰かの生唾を飲み込む音がやけに響いた。
『お母さん、ぼくのたんじょう日。生まれてこなければよかったのに、って。なんで?』
そこで日記は終わっていた。見てはないらないものを見てしまったような気がした。涙が出て止まらなかった。だってまだ、小学生の子供なのに。
なんとなく全てわかってしまって、わかってしまったら、途端にこの家が怖くなった。
響達が赤崎の家に来た理由は、大きく分けて二つあった。その内の一つが、赤崎自身のことを知る為である。
何故こんな広い家に一人で住んでいるのか。両親はどうしたのか。そして何故去年の七月七日、赤崎の誕生日を祝うことをしなかったのか。何故七夕をメインとしたパーティを行ったのか。
知りたいと思いつつ、踏み込んではいけない領域であるような気がして、ずっと聞くことができなかったそれを、知ることができると思った。探せば出てくるだろうと。
だから三人は予定よりも早くここに来た。そしてそれらは、探すまでもなくすぐそこに在ったのだ。
『えー羨ましいですって。住み込みしたいくらいです』
『…じゃあ、いつでもおいで。歓迎するよ。そうすれば、僕が言った言葉の意味も、響なら理解できるかもしれないしね』
『はい!今度ぜひ!』
(確かにわかりましたよ…ええ、わかりましたとも)
羨ましいと思っていた。この、大きくて綺麗で広々とした家を所有し、住んでいる静さんのことを、羨ましいと思ってはいた。
でもそれは、違っていた。
静さんの言ったとおり、羨ましくなんてなかった。ここで過ごす時間の中で、羨ましいなんて思えなくなってしまった。
(こんなところに住むよりは、僕の古ぼけたアパートの方がよっぽどマシだ)
“大きい”や“広々としている”だなんて、そんな生易しいものじゃない。
洗濯機、冷蔵庫、テーブル、テレビ。家具はたくさん置いてあるし、電気もガスも水道も、まだ止まらないで通ったままだ。机、ベッド、タンス…静さんが使っていたものも、ここにはまだちゃんと在る。それこそ僕の家と比べると、生活感がありすぎて逆にびっくりするくらいだ。
でも、僕が言いたいのはそこじゃない。
いつか祭さんが言っていたように、本当に真っ白で何もないからっぽなところだった。それこそ、家と呼ぶにはおこがましいと思ってしまうくらい。
ただ耐え難い虚無と寂寥感があるだけで、ここには楽しいも嬉しいも存在していなかった。静さんの家に来て「楽しい」と感じていたものは全て、それは祭さんや青子さんが
元々
おはようも。
おやすみも。
いってきますも。
いってらっしゃいも。
おかえりも。
ただいまも。
此処には何もない。
何も、なかった。
静さんは、こんな何も“無い”ところに、今までずっと住んでたっていうのか。
今まで、ずっと。
響はぎゅうっと、手に持った日記帳を胸に抱え込んだ。痛いくらい気持ちがわかる、なんてとても言えない。
響と琴乃も、確かに母親に捨てられた。けれどその時、響にはまだ己の半身とも言える琴乃が残っていたし、中学時代は荒れていたものの、大家さんがまるで本当の子供―あるいは孫のように、たくさんの愛情を持って接してくれたから、両親がいないことを寂しいと思ったことは一度もなかった。
だが、赤崎は。
小学生なんて、まだ右も左もわからないような子供で。まだまだ親に甘えたい年頃であったはずだった―そんな時期に突然、どこともわからないところにひとり放り出されて。
その時の赤崎の気持ちが、その気持ちを抱えて今まで生きてきた赤崎の気持ちが、響にわかるはずがなかった。
「僕達は結局、今まで静さんのことを知っているような気がしていただけで…本質的なところは何も、何も知らなかったんだ」
響の口から、無意識の嗚咽が漏れる。最近は泣いてばかりだと、他人事のようにそう思った。
何も知らなかった。何も知らされていなかった。
「僕はそれが、すごく悔しい…っ」
(知りたいと思った僕の気持は、やっぱりもう、今更でしたか。静さん)
知りたかった。少しでも近づきたいと思った。今更かもしれないけれど、それでも。
大切だったのだとわかった今だからこそ、 “
でも、そうしたら、静さんのことだけじゃなく、祭さんのことも青子さんのことも、知っていると言えるだけのことを知っているとは言い切れないくらい、僕達は何も知らなかったことに、今更気がついた。
「僕達は初めから、輪の中に入れてもらえていなかったって、そういうことですか…静さん」
「響…」
(ああ、でも。仕方ないのか)
僕らだって同じように、何も知らせてなどいなかったのだから。
―それでも、僕らは。
「だからこそ、僕はやっぱり、この場所をきっかけに、あの人の道をつくりたい」
これは、恩返しと罪滅ぼしだ。
僕らに手を差し伸べ、導いてくれた。心からの笑顔を思い出させてくれた、恩返しを。
そして、土足で静さんの領域に踏み込み、その足跡を残してしまう結果となってしまったことに対する、罪滅ぼしを。
(だから僕達は、今日から八月七日までを、あなたへの恩返しと罪滅ぼしに使おうって決めたんです)
「僕達には、泣いている時間も迷っている時間もないんだ。全ては八月七日、なんとしてもそれまでに」
響は涙を拭い、「ね、」と座り込んでいる琴乃に手を差し出した。彼女はやはり未だにぐずっていたが、 それでもごしごしと目元をこすって響の手を取る。
「それって…しずか先輩からしたら、やっぱりお節介でしかないのかもしれないね」
「…そうだな。お節介にしか、ならないかもしれない」
(これは多分、僕の自己満足でしかないんだろうけれど)
「でも、それでも僕は」
「―やると決めたらやる。お前は、そういう奴だったな」
優が小さく微笑んで、ぽんと響の頭に手を置いた。
(うわ、不意打ち)
響は、目を見開いて口元を押さえる。そうでもしないと、にやけているのがバレてしまいそうだった。普段の優からは想像もできないような、とても優しい手に、不覚にも涙を誘われる。
本人には言わないが、響は優のこの手がとても好きだった。
これには結構、救われている。
「そうそう、僕ってそういう奴だからさ…って、元々これは優が提案したんでしょうに」
「それもそうだ」
「…でもきっと、優が言わなくったって、多分誰かが言ってたと思うな、私は」
琴乃の言葉に三人は顔を見合わせて、改めて覚悟と意思を確認するように頷き合い、手を重ねる。一番下に琴乃が、真ん中に優が、そして一番上に響の手が置かれる。触れたぬくもりはあたたかく、生きていることを実感した。
そして彼らはこの時、この真っ白で何もないからっぽの家を、少しでも赤崎があたたかいと思えるよう、少しでも楽しいや嬉しいという感情で満たされるよう、頑張るんだと決めた。
「一日でも早く静さんが成仏できるように、絶対に成功させよう」
この家はとても息苦しくて、生苦しい。漠然とした「無」に押し潰されて、ぺしゃんこになってしまいそうになるくらい。本来なら、こんなところでやるべきではないのかもしれないと、響は今でもそう思う。
(でも、決めたんだ)
どうして静さんの誕生日を祝おうとしなかったのか、その意味も理由も、なんとなくだけれど理解した。わかりたくなどなかったけれど、それと同時に、やっぱり僕はそんなの間違ってるって、そう思うんです。 だからこの場所でやることを、今改めて決めました。
「もちろん」
「やるっきゃないでしょ!」
―これは僕らの恩返しと、罪滅ぼし。
「ああ、やろう!僕たちで!」
「「「静さん(先輩)の誕生日パーティを!」」」
こうして彼らは、来たる八月七日に向けて動き始める。
予告通り彼らが青子にSOSサインを出したのは、ちょうど前期期末考査まで残り一週間を有に切った頃であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます