第八話「大切」

「いーーーっやっほーい!響ー!速く速くー!もっと速くーーーーーっ!!」

「よしきた!しっかり掴まってて!マッハで飛ばすから!」

「よしきた、じゃないだろ!飛ばすなバカ!」

 注意したのはもちろん優だ。というか、この状況を見て彼が口を挟まないなどという事態になれば、それはまさしく天変地異の前触れである。ちなみにこの状況というのは―

「もう!いいでしょ別に!優のケチ!」

「ケ…っ!?お、俺はお前らのことを心配して…!」

「あはは、心配してくれてるんだ?」

 ケチと言われたことはどうやら心外であったらしいが、心配したというのは満更でもないようで、優の顔が若干赤くなった。ここでせめて「悪いかよ」くらい言えれば可愛いものだが、生憎彼の性格上、それはあまり期待出来ないだろう。

「だ…誰が心配なんてするか!なんで俺が、二人乗り且つスピード違反のお前ら二人を心配しなきゃならないんだ!」

 そう、この状況というのは、白金ツインズもとい響と琴乃が、二人乗りをしつつ猛スピードで坂道を駆け下りている状況のことである。運良く歩行者の姿は見えないが、これを注意しない優ではない。もっとも、響達を追いかける優の自転車もまた、同じくらい猛スピードで走っているわけであるが。

 そして勿論、二人乗りの自転車を漕いでいるのは、兄である響の方だ。

「ぶーぶー優の薄情者ー!そこは心配してるって言ってよねー!」

 そして後ろに乗っているのが琴乃だが、座っているわけではなく立ち乗りをしているので、今彼女を支えているのは後輪についている心許ない小さな金具と、細い腕一本だけである。優としては、若干癇に障る琴乃の物言いよりも、そっちの方が大いに気にかかっていた。

 正直言って危ない。正直言わなくても危ない。

「お、おい!危ないからちゃんと…」

 言いかけて優は目を見開く。わっと琴乃が声を上げた。か細いなりに彼女を支えていたはずの左腕が、自転車が石を蹴った衝撃で響の肩から外れたのだ。

 まあそうすると、必然的にというかなんというか、残った右腕もその拍子に風圧に押し負けてしまい、彼女を支えるのは後輪の金具にかけてある両足だけになった。なんとか響の肩に手を伸ばす琴乃であったが、生憎風圧が強すぎてそれは叶わない。アウトである。

 この風圧の中、腕も使わずに立ち乗りの姿勢を保つなど、男でも無理がある。案の定自転車の駆ける速度に押し負け、彼女の体は大きく仰け反った。

「バ…っ」

 咄嗟に優は、自転車から落ちそうになる琴乃の体を押し返そうとした―のだが。

「大丈夫、ちゃんと心配してくれてるよ。なんだかんだ言って優は、僕らのこと大好きだからさ」

 聞き捨てならない台詞が耳に入ったと思ったら、自転車を漕いでいる響が振り返り、意地悪く笑って琴乃の右手を掴んだ。一体どんな教育を受ければ、こんな暴挙に出る子供に育つのだろうと、優は自分の目を疑った。

 ぎゅうっとお互いが強く手を握り、響が片手で自転車を操作しながら、ぐいっと仰け反った彼女を引っ張り上げる。可愛い顔をして、実はかなりの力持ちなのだ。

「よ…っと。大丈夫?琴乃」

「大丈夫大丈夫!信じてたから!」

 響好きー!と言わんばかり(満更でもないが)の笑みを浮かべ、琴乃は思い切り響に抱きついた。お前ら何自転車乗りながらバカップルやっているんだ、とつっこみたくなる。実際、外見があまり似ていないので、恋人同士だと言ってもおそらく誰も疑わないだろう。

 だが、言わずもがな、この二人が双子の兄妹であることに違いはない。

 二人は清々しいほどの笑顔を優に向けた。嬉しそうに琴乃が言う。

「なーんだ。優、やっぱり心配してくれてるんだ。やっぱり私達のこと、大好きだったんだね!」

「な…っひ、響の言うことをいちいち真に受けるな…!」

「あれ?違ってる?」

 優の抗議に、響がにやにやと嫌な笑みを浮かべながらそう言った。響のこういうところは、本気で性格が悪いと優は思っている。

 自分の顔が赤くなっていることが容易くわかった。

 優は元々、そういう風に自分の感情や気持ちをオーバーに表現することをあまり得意としない。気恥ずかしさ故か、自ら進んでそういった感情を表に出すことはしないのだ。だからそんな風にストレートに訊ねられると、どうしていいかわからなくなる。

 響の言っていることは間違いではない。優は彼らのことが好きだし、心配も、本当はしている。

言葉にすることを億劫だと思ってしまうのは、おそらく彼が口下手で、今までこんな感情を誰かに対して抱いたことがないからだ。

「…別に、違ってない」

「おやおや?優殿~お顔が真っ赤ですぞ~?」

「真っ赤じゃない!」

 琴乃がこれ見よがしにからかってくるものだから、優は思わず怒鳴った。怒鳴ったことをあとから後悔したりはしない。そんなものを二人が気にしないということは、わかりきっている。

 響が苦笑いをして優を宥める。そして琴乃に対しても、「あまりからかっちゃダメだよ」と注意をした。お前も共犯だ、と優は心の中で毒づいておく。

「優は物事を難しく考えすぎかな。あ、僕らは勿論優のことが大好きだから。安心していいよ」

「…恥ずかしいことを言うな」

「言わないとわかってくれないくせに、よく言うよ」

 響がにっこりと笑う。その笑顔を、優は眩しいと感じた。そして、ここまで自分の感情を表に出せる響のことを、羨ましいとも思う。

 優は、ある意味六人の中で一番普通だ。ほんの少し腕っ節が強い―というか、幼少期に拳法を齧っていただけで、それを除けばどこにでもいる普通の高校生だった。おそらくあの一件・・・・がなければ、中学時代の響と琴乃と関わることはなかっただろう。だから、いつも不思議に思っていた。

 何故、こんなにも二人は自分に心を開いてくれているのか、と。

 それが自惚れなどではなく、確実に信頼されているということを、優は毎日のように感じていた。それが自分にだけ向けられている好意だということもわかっていた。

 優自身も、二人にはそれなりに信頼も好意も寄せている。それが他の誰かに寄せている好意と違っていることもわかっていた。

 優にとって二人は特別だ。中学からの付き合いで、それこそ赤崎達と違って幼なじみというわけではなかったが、それでも同じくらい強い絆で繋がっていると思っている。それが、一方通行の想いではないこともわかっている。

 だが、他人を信用しないとずっと心に決めて生きてきた二人に信頼や好意を寄せられるほど、自分はそこまで器が大きいわけではないし、大それた人間でもないのだ。あくまで普通の高校生、それが黒銀優のポジションである。

 それなのに何故、二人はこんなにも自分に心を開き、笑顔を見せてくれるのか。優にはそれが、いまいちよくわからなかった。

「気にしなくていい」

 響が言った。優はその言葉に一瞬びくりと体を震わせる。非現実的な発想かもしれないが、本気で心の中を読まれたのかと思ってしまった。

「そうだよ優!なんてったって私達がいるし!絶対成功するって!」

「あ…ああ。そっちか…」

 どうやら響の“気にするな”というのは、これから実行に移す計画・・のことであったらしい。

(当たり前か。心の中を読まれただなんて、馬鹿みたいだ)

そう、余計なことを考えている暇はない。自分達のこれからは、これから考えていけばいいのだ。

そして今優先するべきは、赤崎と緑間のこれからである。その為にも、一分一秒、時間は無駄にできない。

「とりあえず、一旦家に帰ろう。それで荷物をまとめて…そうだな、十七時に静さんの家で落ち合おうか」

「わかった。十七時だな」

 ちょうど分かれ道に差し掛かる。ここでいつも、響達は右に、優は左に曲がってそれぞれの家へと帰るのだ。

 彼らはハンドルを切って自転車の向きを変え、そしてハイタッチをする。ちなみに今は、十五時半を少し過ぎた頃だ。

 パチン、と手と手が合わさる音と共に、響と優は口を開いた。

「「また後で」」

 そうして彼らは、互いに背を向けて自分の家へと帰っていく。

 もっとも、双方どちらにも、「おかえり」と言って出迎えてくれる“家族”はいないのだけれど。




***




 本当のことを言うと、準備は昨日の内にしてあった。

 優と分かれて家に着いたのが十六時近かったので、待ち合わせの時間まであと残り約一時間、二人は大いに時間を持て余すことになった。

「琴乃ー忘れ物はないかー」

 暇そうにテーブルに突っ伏していた琴乃は、響のそれにぷくーっと頬を膨らませた。別段怒っているわけではなく、彼女はゆっくりと息を吐き出して膨らませた頬をしぼませる。響が思うに、これはおそらく何の意味も持たない行為の一つだ。無意味は彼女の長所とも言える。

「それ、もう何十回って聞かれてるよ…完璧だって言ったー」

 琴乃は、響が作ったホットミルクに手を伸ばし、一口飲んでからそう言った。もう何度目のやり取りになるだろう、確かに彼女の言うとおり、十回はゆうに超えている。

 というか、そもそも忘れ物をしてはならないというわけでもない。旅行に行くわけではないのだ。多少距離はあるかもしれないが、取りに戻れない程距離が離れているわけでもない。それに、

「元々、そこまで荷物多くないし。それに、忘れていいもの・・・・・・・しか忘れない・・・・・・でしょ、私達は」

「それもそうだ」

 スクールバッグよりも一回り大きい横長の鞄が二つ、リビングに置かれている。それで二人分の荷物だ。正直この大きさなら、これから学校に登校すると言っても十分通用するだろう。荷物というにはおこがましいかもしれない。優はおそらく、もう少し大きな鞄を携えて来るだろう。

 彼らにとって必要なものは、他と比べると随分少ない。忘れてもいいものは必要がないというのが、二人の考え方でもあった。

 そして、二人が忘れていいと思うものは此処―つまり、彼らの家には存在していない。

 冷蔵庫や洗濯機は元々響達の所有物ではなく、このアパートの大家の人がこの家に置いてくれているものだ。新しいものを買ったからと、家具や生活用品をまるで所持していなかった響達に恵んでくれたのである。だから、これらの家具は全て響達のものではない。こういった家具については、響達の考え方から除外される。

 この家にあがったことがあるのは今まで優ただ一人だけだが、おおよそのことについて動揺を表さない彼も、初めてこの家にあがった時はそれなりに驚いていた。生活感がなさすぎると。そしておそらく、誰が見てもそう思うのだろう。

 だが、実際それが普通なのだ。高校生の一人(正確には二人)暮らしなんてそんなものだろうし、生活感など求めるだけ無駄だ。

 ―そう、言い忘れていたかもしれないが、響と琴乃は安い家賃のアパートに二人で住んでいる。と言っても、家賃は出世払いということになっているので、今のところは免除してもらっているのだが。

 それでも響の方は、アルバイトをして少しでも家賃を払えるように善処している。それに優が乗っかって、そうしたら「絶対にバイトなんてしたくない!」と言っていた琴乃も、響と同じところでバイトをするようになって。

 以前まで大家さんに面倒見てもらっていたことを、少しずつ自分たちで負担できるようになった。それもおそらく、優のおかげなのだろう。

(本当に、救われてる)

 響は、小さく笑った。

 二人に両親はいない。父と母は二人が幼い頃に離婚をしていて、響と琴乃は母親の方に引き取られた。だが、彼らの母親だったもの・・・・・・・は、ちょうど三年ほど前にお金だけを置いて家を出て行った。簡単に言うと捨てたのである、自分の子供を。今思えば、それは仕方のないことだったのだろうと、響も琴乃も自負してはいるのだけれど。

 そんな二人に救いの手を差し伸べたのが、このアパートの大家だった。初めて出会ったのは、路頭に迷っていた響達が偶然立ち寄ったラーメン屋の屋台である。頑固な老人の第一声は、「子供がこんな時間に出歩いてんじゃねえ!」だった。何故だか泣きそうになってしまった自分を、響は今でも覚えている。

 中学生という、何かと情緒が不安定になりやすい時期に親を失くすというのは、おそらく主観的に見ても客観的に見ても辛く苦しいことであるが、二人はすぐに現実を受け止め、その現実に悲観することは決してなかった。あんなことが・・・・・・あったのだから・・・・・・・、こうなってしまっても仕方がないと―そう、思っていたから。

 そして、ちょうどその頃から彼ら双子は荒れ始め、その存在をあっという間に世間に知らしめた。

 二人はいつしか、凛々垣中最凶の双子―「壊す双子ツインズブレイカー」と呼ばれるようになったわけだが、それについてはまた今度。

「響ー」

「ん?」

「今何考えてたの?」

 琴乃はテーブルから離れ、小走りで響の座るソファに座った。このソファも忘れてもいいものではあるが、これも大家さんが良かれと思って置いてくれているものなので、ありがたく使わせてもらっている。

 隣りに座った琴乃が、真っ直ぐに響を見た。確かに二人は双子であるが、混じりけのない綺麗な黒色の瞳は、響には無いもののように思えた。

 別に何も、と返すと、嘘つきと言わんばかりのじと目を返される。

 双子は以心伝心やらお互いの考えていることがわかるやらと言われているが、それは多分周りが思っている以上に満更でもない。実際琴乃は響のそういったものがわかるらしいし、響も琴乃のそういったものが、いつでもとは言わないまでもなんとなく感じ取ることが出来る。一種のテレパシーとでも言えばいいのだろうか。

「嘘をつく悪い響には…こうしてやるー!」

「わっちょ、琴乃…!くっあはは、くす、くすぐったいって、やめ、あはははははは」

 悪い笑みを浮かべた琴乃が、がばっと飛び上がって響のわき腹をくすぐり始める。

 響はかなり弱い。ほんの少しわき腹をつつかれたり、つーっと指で足を撫でたりするだけで過剰に反応する。大笑いする。高校一年生の頃、ひょんなことからそれが緑間達にバレて以来、ことあるごとにネタにされていたりする。

「こしょこしょこしょー!」

「待っ、ちょ、ほんとにくすぐった…あ、あはははは、ははは」

「はっはっは!どうだー!」

 琴乃が満面の笑みを浮かべる。そんな彼女を見て、響は少し意識を隔絶させて思った。琴乃は変わったな、と。

 昔は、こんな風に笑っていなかった。いつも冷たい目で周りを威嚇して、敵視していたように思う。

 それでも、唯一自分といる時だけは笑顔を見せてくれていたけれど―見せてくれていたように見えていただけで、おそらく心から笑えてはいなかったのだろうと、響は今はそう思っている。

 それでも、喧嘩をしている間はどこか楽しそうに見えていたのだ―あの頃の響は、それが彼女の空元気だと気づけなかったのだけれど。

 優と出会って、琴乃はあれから・・・・初めて響以外の人間を信頼した。

 信頼して、信頼される。そういった他人との相互関係の心地よさを思い出したのも、おそらく優と出会ってからだ。

 優と会って、琴乃は変われた。変わったのだ、おそらくは良い方向に。

 だから彼女は今、こんな風に笑えているのだろう。太陽みたいに眩しくて明るい、あの頃のような笑顔で。

(…僕には多分、無理だけど)

 こんな風には、笑えない。

「…響さ」

 ぴたり、と急に彼女の手の動きが止まる。意識を元に戻し、やっと解放されたことに響はほっと息をついた。見上げた彼女は、どこか困ったような笑顔を浮かべている。

「うん?」

「変わったね」

「え?」

(変わったって、一体何が?)

「前よりずっと笑ってる。作った仮面は、外れたみたいだから」

 琴乃が目を細め、ぎゅうっと響に抱きつく。彼女は体温が高いので、密着するととてもあたたかい。

 響は抱き返そうと思って腕を上げたが、思いとどまってその腕を下ろした。

 前よりずっと笑ってる。響は琴乃の言葉を心の中で反復した。それは、真っ直ぐに響へと向けられたものだ。どうやら彼女には、響が笑っているように見えているようだ。

 どうだろう、と響は考えてみる。自分で自分の顔は確認できないからよくわからなかった。だが、他の誰でもなく琴乃にそう見えていたということは、少なからず自分は笑っていたと考えるべきなのだろう。

 ならばそれは、どんな笑い方だったのだろうか。今までと同じ、周りに敵を作らないための、嘘の笑顔だったのではないだろうか。きっとそうに違いない。本気で笑ったことなど、あの日以来数える程しか響にはなかった。心からの笑顔なんて、浮かべるに足りない日常ばかりである。

 前より笑うようになったことは認める。だが、周りと繋がる為に被っていた仮面が外れたとは思わない。その仮面は響を隠す為に、そして響の笑顔を補う為に作られたものなのだから。

「気づいてなかったと思うけどね。優と出会って、それからまつり先輩達に出会って、響は変わったんだよ。いつだって、心から笑ってた」

 それなのに、彼女はそれを否定する。心から笑ってなどいないのに。

「それは…琴乃の方だよ。昔よりずっと、楽に生きてる気がしてた。僕が変わったんじゃない。琴乃が変わったんだ」

「違うよ。響が変わったから、私も変わったの」

 お互いに少し体を離し、二人は見つめ合う形となった。

(本当に似ていない、僕の妹)

「今まで一度だって、私以外の誰かの為に泣いたこと、あった?」

 あの日から、響は自分の為にさえ泣くことはしなくなった。琴乃がこうなってしまったのは自分のせいだとわかっていたから、不幸面を引っさげて泣くことだけはしないようにと、二人で生きていくと決めたあの日から、思い出と一緒に涙も捨ててきた。

 泣けば誰もが同情する。可哀相だと哀れむ。そんなものはいらなかった。琴乃がいればそれでよかった。涙は弱さの象徴だった。

「しずか先輩のことを聞いて、悲しいって思ったでしょ」

「思って、ない」

「嘘」

 こつん、と二人の額がくっつく。

(違う、嘘なんかじゃない)

 意地を張った。

「もういいんだよ。自分に正直になったって。響の“大切”が私だけじゃなくなったってこと、わかっているでしょう」


 だってもう、響の周りにはたくさんの人がいるんだから。


『お友達になりましょ。私は水沢青子。青子でいいわ―ね、響』

 その人は、不敵な笑みを浮かべてそう言った。驚いたのは、「壊す双子ツインズブレイカー」の悪名を知った上で握手を求めてきた右手と、怖がられなかったという事実。向けられた笑顔には、自分達が「壊す双子ツインズブレイカー」であることなど少しも気にしていないことが一目瞭然で、初めて会った時、その凛とした声に戸惑ったことを響は今でも覚えている。

 なんだかんだ一緒にいる時間が増えて、彼女にからかわれることも少なくはなかった。そんなじゃれ合いを繰り返す中で、響にとって青子は、「姉」のような存在になっていった。居もしない姉のことを、青子を通して「こんな感じなんだろうな」と思ってしまうくらい。

『響は今、幸せなんだね。溜息をついたっていうことはそういうことだ。覚えておくといい、溜息と幸福は同じなんだよ』

 不幸だと思ったから溜息をついた。けれどそれは逆に、溜息をつくほんの少し前までは不幸ではなかったということで、それはつまり幸せだったということなのだとその人は言った。響からしてみれば、それは屁理屈にしか聞こえなかったし、その言葉の意味が、初めて聞いたときはいまいちよくわからなかった。

 思い返せばいつも、彼は道を示してくれていたような気がする。確かな足取りでしっかりと跡を残しながら、赤崎は常に前を歩いてくれていた。

 今でも響は、いまいち赤崎静というその人のことを理解しきれていない。掴みどころのない雲のようなその人を、本当の意味で理解することができるのは、おそらくこの世でただ一人だけだ。けれどその人は、おそらく誰よりも響のことを理解してくれていた。それはおそらく、妹である琴乃よりも。

 多くは語らず、常に一歩前を歩いてくれていた赤崎を、響は尊敬していた。響にとって赤崎は、良き理解者であり、先導者であり―そして、敬愛の対象であった。その生き方に憧れていた。

『いやーお前ら強えわ。楽しかったぜ。また今度、喧嘩しような』

 負けた響達にそう言って手を差し伸べたその人は、とても鮮やかな青空を背負って笑ったのだ。誰かの笑顔を綺麗だと思ったのは、初めての経験だった。

 あの圧倒的な強さの理由を知りたくて、その人達の強さに惹かれたから―だから響と琴乃は、緑間達と同じ高校に進学することを決めたのだ。“また今度”とその人が言った言葉が、何故だか響には涙が出そうになるくらい嬉しかったから。

 その人の傍はいつもあたたかかった。面倒見がよくて世話焼きで、後輩である自分達をいつも気にかけてくれた。ただの後輩である響のことを、大事だと言ってくれるような人だった。

 いつだって同じ目線で向き合ってくれた、最上級のお人よし。そんな彼のことが、響は大好きだった。

 響にとって緑間は、青子のように「きょうだい」を思わせるような存在ではなく、まして赤崎のような「理解者」や「先導者」からは程遠い―そう、そのまま、「先輩」だった。響にとってその人は、いつだって頼れる「大先輩」だったのだ。

 そして。

『俺はお前を信じる。だからお前も、俺を信じろ』

 あの日―確かに響は、その人を信じた。ざっと五十人はいたであろう不良達を相手に、たった二人で。拉致された琴乃を助ける為に―そう、まるで「友」のように、自然な背中合わせで彼らは戦い抜いた。これが、母親がいなくなって以来、初めて響が他人を信じた瞬間だった。

 本来背中合わせとは、背中を預ける相手を信頼していなければ成立しない。それでも確かにあの日、響と優は背中合わせで五十人の不良と殴り合い、そして見事琴乃の奪還に成功した。悔しいけれど、おそらくあの日、響は確かに優を信頼したのだろう。その、真っ直ぐな言葉に。

 思えばあの日から、響の日常は変わり始めていたのかもしれない。

 誰かを信頼し、誰かに信頼される。それがとても心地良いことだと思い出した。これっきりの関係で終わりたくないと思って、琴乃の二人で優の中学校に乗り込んだ。そうしたら彼は驚いたような顔をして、それから「馬鹿」と困ったように笑った。

 いつしか優は、響の中で琴乃と同じくらい大きな存在になっていた。それが弱さだと、思わなくなっていた。

 守るものは少なくていい。たくさんあればあるほど、それは確かな足枷となって己を縛る。いつか手が届かなくなって、守るもの―守りたいものは、徐々に手のひらから零れ落ちていくだろう。

 だから、守るものは少なくていい。たくさんあればあるほど、それは確かな弱さとなってしまうから。守りたいものを、守れなくなってしまうから。

 響にとって守りたいものは、琴乃ただ一人だけだった。それでいいと思っていた。

(それなのに、)


 いつからかそれは、増えていく一方で。


 それが自分を縛る足枷になっていることにも、それが自分の弱さになっていることにも、響は気づかないふりをしていた。もしかしたら、気づいてすらいなかったのかもしれない。

 何故なら彼は、守りたいものが―自分にとっての“大切”が琴乃だけではなくなっていたことにさえ、気づいていなかったのだから。

「しずか先輩のこと、悲しいと思ったでしょ?」

 涙がぽろりと、響の頬を伝った。

「…当たり前じゃないか…っ」

 ぽろぽろと涙が流れてくる。あの日から泣かないと決めて、これで泣くのは二回目だ。一回目は、赤崎が死んだと聞いた時。

 響は唇を噛み締めた。

(何が「思ってない」だ)

 悲しくないわけがないだろう。悲しくないわけが、ないのに。

 大切な人だった。僕を一番、根っこの深いところでわかってくれていた人だった。僕だってわかりたいと思っていた。僕が生涯でただ二人、憧れを抱いた人だった。

「悲しかった…悲しかったよ、だって、だって僕は」

(まだ何も伝えていない)

 失って気づいた。それは多分、失わなければ気づけないほど奥底に眠っていた感情で。失って気づかされたこの感情を、僕は失う前に言葉にするべきだったんだ。

 言葉にして、伝えたかったのに。

 それができなかったのは、気づかなかった僕のせいじゃなくて、多分きっと、気づきたくないと目を背けていた安っぽいプライドのせいだ。

(後悔先に立たず、なんて)

 まさにその通りだよ、本当に。

「僕は…ぼく、は」

「響」

 ぎゅうっと、もう一度琴乃が響を抱きしめる。先ほどの抱きつくような勢いはなく、とても優しい、柔らかく包み込むような抱擁だった。

 おそらく彼女は、初めから全てわかっていたのだろう。響が優を信じたあの日からずっと―“誰も信用しない。僕らは二人で生きていくんだ”―この言葉が、いつか何の意味も成さなくなることを。響にとって、赤崎達がただ横を通り過ぎていくだけの他人では、なくなってしまうことを。

 ―響にとっての“大切”が、いつからか琴乃だけではなくなっていたことを。

 彼女は全てわかっていたのだ。

「私も同じだから。だからわかるよ…ちゃんと、わかってるから」

 響が変わり始めていることに、彼女だけが気づいていた。

 だから彼女は変わることを決めたのだろう。それが響にとって、一番良いことであると思ったから。

 

 泣いているのかな、と響は思った。双子は時に感情までシンクロしてしまうことがあるのだ。実際そういった経験をしたことが、何度かある。

 抱きしめられているので琴乃の顔は見えないが、小刻みに震える彼女の肩を見て、響はなんとなくそう思った。

 響が赤崎達を“大切”だと思う気持ちは、おそらく琴乃とシンクロしているだろうから。


「…僕さ」

「うん?」

「いつ間にかこんなにたくさん、抱え込んじゃってたみたいだ」

「…うん」

 響はそっと、琴乃の背に腕を回した。

(本当は、怖かったのかもしれない)

 いつか失う日が来ることを、心のどこかで悟っていて。僕はそれを、ただ怖がっていただけなのかもしれない。

(あのね、琴乃)

 君のことを抱きしめる、たったそれだけのことで僕の両手は塞がれてしまって。

 それなのに二本しかないこの両腕で、どうしてかこの両手には収まりきらないほどたくさんのものを、いつしか僕は抱え込んでしまっていて。

 認めることができないまま、それを手離すことがだんだん難しくなっていて。

「でも今更、抱え込んでいたもの全部、手離すなんて無理だから」

「うん」

「守ることに決めたよ。それがきっと、僕が強くなった本当の意味なんだと思うから」

 そう言うと、琴乃は笑った。笑ったというより、微笑んだという方が合っているかもしれない。

「私は、そういう響が好きなんだよ」

 ぎゅうっと、琴乃の抱きしめる腕に力がこもる。響も負けじと、抱き返す腕に力を込めた。 


 そしてその後、そのままの体勢でいつの間にか眠ってしまった響と琴乃は、約束の時間になっても起きることはなく、それが待ちぼうけをくらった優の逆鱗に触れたことは言うまでもない。




***




「そういやあいつら、お前の家で一体何するつもりなんだろうな」

 緑間は、ふと頭に思い浮かんだ―というか、今の今までなるべく考えないようにしていたことを口にする。もちろんあいつらというのは響達のことだ。

 一体あの三人は、もぬけの殻となった赤崎の家に、何の用事があって家の鍵を渡してくれと言ったのだろう。泊まることになるとも言っていたが、それでは一体、何日あの家に居座るつもりなのだろうか。一体何を、するつもりなのだろう。

「俺、お前は絶対ダメだって言うと思ってた」

「なんで?」

「だってお前、あの家嫌いだろ」

 緑間は赤崎がどれほどあの家を嫌っているか、よく知っている。自分の家だと認識していないことも知っている。それを響達に気取られたくないと思っていたことも、知っていた。愛すべき後輩達は、良くも悪くも赤崎の家の外側しか見えていなかったから。

 あの三人だけで赤崎の家に入るということは、赤崎の家がいかにからっぽで空虚なものであるかということを、知られてしまうこととほぼ等しい。なんだかんだいって響達は、もうすっかり自分たちの内側まで入り込んでいて、以前なら気づかなかったあの家のからっぽさ・・・・・にも、今なら気づいてしまうだろう。それを赤崎は嫌がっているのだろうと、緑間は思っていたのだ。

「それは確かにその通りなんだけどね…前に言われたんだ、響に。僕の家が羨ましいって。その時、じゃあいつでもおいでって言って、結局その場限りのやり取りになったんだけどさ」

(―そうか、あいつは)

 羨ましいと言ったのか。

 あの家の本質を知ってしまえば、羨ましいなどとは口が裂けても言えないだろうに。

「響って、多分僕に似ていると思うんだよね。響を見ていると、なんだか自分を見てるような気持ちになるんだ。だからかな…響はちゃんと僕のことを知って、僕みたいにはならないようにしてほしいって思って」

 それに、なんだかとても大切なことみたいだったから。何も教えてはくれなかったけど、響達のことは信頼してるし。そんな風に赤崎が言う。

「そ…っか」

 どうやら赤崎の方も赤崎の方で、思うところがあったらしい。特に響が赤崎に似ているというのは、なんとなくだが緑間にもわかった。

 だが、赤崎のように“信頼している”の一言で片付けることが、緑間にはどうしてもできなかった。

 ―教えることはできない、と三人は言った。

 ケンカ腰で別れることになってしまったけれど、本当はそれが寂しかったのだ。誰にだって、他には言えないことや内緒事があるというのは緑間もわかっている。それでもやはり、隠し事はしないでほしかったのだ。

 赤崎の家を使うとなると、必然的に家主である赤崎自身も、少なからず関わっていると見て間違いないはずである。そうなると、彼に近しい存在である緑間や青子に関係がある可能性も、なくはないだろう。時期が来れば話すと言ったのだから、尚更だ。

 響達と出会って、一緒に関わるようになってもう二年が経つ。二年は、言葉にするのは簡単だが、正直感覚的にも早いものであったような気がする。緑間の感覚では、響達と出会ってから、まだそう時間は経っていないような気がしていた。

 だがそれでも緑間は、とりわけ彼らのことを気に入っていたし、好かれているだろうとも思っていた。

(信頼…されていると思ってたんだけどな)

 自惚れだったのかもしれない、と緑間は思った。

(そういえば俺は、あいつらのことを知らなすぎる)

「祭の目って、しょうもないところで節穴だよね」

「ああ?」

「そんなに気になるなら行ってみれば?僕の家」

「来るなって言われて行かないって言ったんだから、下手に詮索するわけにはいかないだろ」

「そんでどうでもいいところばっかり律儀だよね」

「うっせえよ」


 夏は夜の訪れが遅い。だが、もう十七時半を回っていて、もうすぐ本格的に夜がやってくるだろう。そろそろ姉も帰ってくるに違いない。

 さて、と緑間は立ち上がり、ううーんと大きく伸びをした。深く息を吐き、よし、と眼鏡をかける。普段は裸眼だが視力は悪い方で、緑間は家では基本的に眼鏡を着用しているのだ。眼鏡をかけると、ほんの少しだけ大人びて見える。

「晩飯の仕度でもすっかな」

 そんな風に呟いて、緑間と赤崎はリビングへ向かった。




 そしてちょうど同時刻―白金ツインズ宅にて。

「大体、お前らはいつも時間にルーズすぎるんだ。自分で十七時に待ち合わせっつったんだろうが、違うのかああん?おい、そんなんで社会に出てから通用すると思ってんのか?寝坊しましたっつってクビ飛ばねえと思ってんのか?ほら、言ってみろよ。ほら、」

「だからごめんって。悪気はなかったんだよ…つい眠っちゃって、それで」

 響は痺れ始めてきた両足に叱咤しつつ、もう既に小一時間は経過しているであろう優の説教に、もう何度目かになるかもわからない謝罪と言い訳を口にする。同じく隣りで正座している琴乃は、呑気なものでこっくりこっくりと、夢への舟漕ぎを開始していた。

「ほう…人を三十分も待たせておいて“悪気はなかった”、“つい”が通用するとでも思ってんのかお前…は!」

 優が冷たく微笑みながら、「は!」と言ったのと同時に琴乃の頭をはたく。普段の彼ならばおそらく絶対にしないことだろう。

 優はキレると喋り方が粗暴になり、若干暴力的になる節がある。

「いたっ」

 叩かれて目を覚ました琴乃は、自分の身に何が起きたのかわかっていないようで、きょとんとした表情を浮かべている。

「人が話している最中に居眠りか…?琴乃」

 そして、優のその言葉にようやく状況を理解した(というか思い出した)琴乃が、「ひっ」とまるで幽霊でも見たかのような声を上げる。彼女の表情から、さーっと血の気が引いていった。

「あー…えっとー…その…」

 だらだらと冷や汗をかき始めた琴乃は、響にSOSサインを送ったが、さすがの響もこの状態の優には全く逆らえないので、ごめん無理という意味を込めて首を横に振る。

「いやーでも、ほら!早くしずか先輩の家行かないと!遅くなっちゃうし!」

「誰のせいで遅くなったと思ってんだ?ああ?」

「あう」

 彼女の抗議はなんなく一蹴され、優の怒りは上昇する一方であった。まあ、何を言ったところで今の優には全て一蹴されるだろうということは、初めからわかりきっている。

 涙目になった琴乃を、よしよしと響は慰めた。

「…まあ」

 だが、その琴乃の一言が、優の心をほんの少し動かしたのだろう。彼はやれやれといった風に溜息をついて、響と琴乃のことを交互に見やり、心底仕方なさそうに言った。

「あまり遅くなるわけにはいかないからな…今日はこの辺にしておいてやる」

「「優…!」」

 たちまち目を輝かせて生気を取り戻した二人が、「本当に!?」と優へ詰め寄る。彼の説教が二人にとって、相当な苦痛になっていたことがよくわかる図であった。

 優が、二人の気迫に押し負け、若干体を仰け反らせながら「ああ」と頷く。どうやらこの様子を見る限り、優の怒りはある程度しぼんできているようだった。

「…ほんと、優ってキレたら性格変わるよね…昔の響みたい」

「そ、そうか?俺は全く無意識なんだが」

 優が困ったように頬をかく。まさかあれが無意識だったとは。恐ろしいこともあるものだ。

「まあ、そんな優も愛してるけどね」

 琴乃がにっこりと笑った。過剰に反応した優の顔が、真っ赤になる。女子が苦手なせいでまともな恋愛ができていないこともあり、優はこういったものに免疫がない。

 ね?と琴乃が響に振った。そこで響に振るあたり、彼女は本当に響のことをよくわかっている。

「もちろん僕も愛してるよ」

「お…っお前ら馬鹿か…!」

 茹でダコのように真っ赤な顔をする優に、響と琴乃は顔を見合わせて笑った。

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