第十話「それぞれの選択Ⅳ」
「高校生活最後の夏休みだ。宿題やりつつも、思う存分羽目外して楽しめよ!それじゃあ以上!解散!」
「起立。気をつけ、さようなら」
クラス全体のまとめ役として、緑間が最後をしめる。彼の声にしたがって椅子から腰を上げた生徒たちが、約一ヶ月顔を合わせることがなくなるであろう担任に、頭を下げた。
明日から夏休み。依然として赤崎はこちらに留まり続けているし、教室の赤崎の席も空白のままだ。
「ああ、言い忘れていたが、期末考査の結果はもう廊下に貼り出されているからな。今回ダメだった奴はもう後がないことを自覚して、挽回できるよう有効に夏休みを使うように。いいな」
今しがた高校生活最後の夏休みを謳歌しろと言ったアンタがそれを言うのか、とクラス全員がそう思った。
いち早くSHRが終わった青子は、人だかりの原因である期末考査の結果に目を留め、自分の名前を探していた。
言い訳になるかもしれないが、彼女は今回ほとんどテスト勉強をしていなかった。
元々今の成績をキープしなければならないほど、内心点が悪いわけではないし、彼女自身、そこまで成績に固執しているわけでもない。
ただ、近しい存在である赤崎と緑間の成績が過分に良かったので、青子もそれに負けじと、今まで勉学に勤しんでいた―わけだが、今回だけは違ったのだ。
どうしても、自分の勉強に回す時間を取ることが出来なかった。
だから今回テストの点数はあまり褒められたものではなかったし、順位が今までより落ちていても仕方がないと青子は思っていた。
(う、わ)
しばらくして自分の名前を見つけると、青子はがくっと肩を落とした。これは、思った以上に。
「お前にしちゃあ、えらく順位が低いじゃねえか。どうしたんだよ」
「ひっ…て、なんだ…祭か。もう、びっくりさせないでよ」
息がかかる距離で背後から急に声をかけられ、青子は思わず飛び上がってしまいそうになる。この男は一体自分をどうしたいのだろうと、本気で思った。
「悪い悪い。あんまり無防備だったから、ついな」
そして、悪びれるわけでもなくこんなことを言うのだから、青子としては白旗を挙げる他ない。本当に、この幼なじみは良い性格をしていると青子は思った。
「で、なんでお前は今回そんなに順位低いんだよ。そこまで難しくなかっただろうが」
「う…」
基本的に、基本的に学年で十位以内には青子の名前が必ず入っていた。そしてそのほとんどが、学年で三位という好成績であった。つまるところ、赤崎・緑間・青子の三人が、ほとんどの割合で一位から三位までを占めていたのである。
その彼女が三位はおろか十位内にも入らないというのは、普通に考えればまずありえる話ではなかった。
今回青子の順位は、三年生百八十人中二十九位。贔屓目に見なくとも、普通ならば喜ぶべき順位なのだろうが、如何せん彼女の普通は三位なので、肩を落とすのも無理はない。
出来ることなら、青子は言い訳をしたかった。
『今回のテスト、どうしても赤点を取るわけにはいかないんです。だから助けてください、お願いします。青子さん』
それでも、最終的に判断を下したのは紛れもなく彼女自身であり、それを今更言い訳にして、自分の失態に対する責任を彼らに追及することは間違っているし、押し付けるなど尚更だ。
それに、彼らからは決して言わないでほしいと口止めもされていた。だから彼女は、結局何も言えずにいる。
「…色々あったから、勉強とかそういうの、うまく手が付けられなかっただけよ」
「お前、」
「それよりも祭は自分の名前、見つけたの?」
「いや」
「あ、じゃあ私も探すの手伝お―」
「一位だよ」
話題を変えようと話を振ったが、若干方向性を間違ってしまったかもしれない。もういっそテストから離れてしまえばよかった、と青子は思う。
貼りだされた期末考査の結果を、彼はまだ見ていないと言った。だから青子は探すのを手伝おうと思ったのだが、よくよく考えれば、改めて
間髪入れずに一位だと答えた緑間は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「…見なくても、わかんだろ。一位以外、ありえねえ」
愚問だった。何故なら彼は、今までずっと学年二位だったのだから。そして学年首位にはいつも、僅差の点数で負けていた。
だが今、学年首位に居座っていたその人はもういない。緑間と競い、そして常に白星をあげていた彼は、もういない。だから、必然的に緑間の順位は繰り上がる。考えればすぐにわかることであった。
昔も今も、緑間と互角に競い合える存在は、今はもういない赤崎だけだったのだから。
「ご…ごめん」
「なんで謝んだよ、バーカ。そこは普通、おめでとうだろ」
なんて、そんな風におちゃらけて彼は言ったけれど。
「言えるわけないじゃない…こんなのただ、空しいだけでしょ」
(だってこれは、アンタが望んだ結果じゃ、ない)
「…ああ、そうだな。確かに空しいだけだった。でもこれが、俺が自分で選んだ“結果”だったんだよ」
緑間がどこか遠い目をした。青子は首を傾げる。一体何を選んだというのか、と。
そんな青子の心情を察したのか、緑間が予想だにしていなかったことをケロっと言ってのけた。
「今回のテストな、本当は全部白紙で出すつもりだったんだぜ、これでも」
その言葉に、えっと青子は目を丸くする。目前の男は、学年首位にあるまじきことを言ってのけた。
なんの冗談かと笑い飛ばそうと思ったが、苦笑をしている緑間を見て、青子は喉から出かかったそれを飲み込んだ。嘘か冗談か本当か、長い付き合いなのだから、それくらいわかる。
だから、聞き方を変えた。
「…なんで?」
「俺がもしも学年首位になっちまったら、静がいないから一位になれたんだって、嫌が応でも認めざるをえなくなるだろ」
だから一位だけはなりたくなかった。でも、手を抜くのは性分じゃない。だから手をつけないことにしようって、何日か前までそう思ってた。と、緑間は言った。確かにこの男は、何事においても手を抜ける性分ではない。
「でもよ、当の本人である静が言いやがったんだ。“祭は、僕以外の人に負けるんだね”って。そう言われて思ったよ。それだけは絶対ごめんだって」
赤崎と緑間は確かに良き親友であったわけだが、それと同時に他とは少しばかり違った、好敵手という関係も兼ねていた。それは、互いに競い合い、高め合い、勝っては負け、負けては勝ち、そうして積み重ねてきたもう一つの絆だった。そう、青子の入り込む余地のない繋がりだ。
「俺は…こう言っちゃあなんだけどよ、俺が負けることを許容できる相手っつうのは、後にも先にも静ただ一人だけだったんだよ。もちろん負けたっていいと思ってたわけじゃないし、あいつにはいつだって真正面から全力でぶつかってたつもりだ。でも、やっぱりどっか心の奥の方で、静になら負けてもいい、なんて思ってる自分も確かにいた。俺にそう思わせることが出来る奴ってのは、あいつ以外にはいないんだよ」
だから思った。静以外の奴に負けるだなんて、死んでも御免だってな。そう言った緑間は、困ったように笑っていた。少しだけ、青子には嬉しそうにも見えた。
おそらく今緑間のすぐ傍には、話の中心人物である赤崎がいるのだろう。もしかすると今、この二人の間ではなんらかの意志の疎通が行われているのかもしれない。それはやはり、青子には確かめようのないことであった。
「俺は結局、プライドとプライドの板ばさみの中で、ここ数日ずっと考えてた。俺はどっちを許容できるのかって。ま、今となっちゃあ考えるまでもなかったって思うけどな」
で、結果があれだ、と緑間が貼りだされている期末考査の結果を指差した。そこには確かに、“一位 緑間祭”と書かれている。得点は十教科中九百七十八点。赤崎が生きていた頃でも、緑間がここまでの高得点を出したのは、初めてのことであった。
「皮肉なもんだ。あいつがいなくなってからの方が点数良いってどういうことだよ。ったく」
けらけらと緑間が笑った。どこか痛いような笑みだった。
そんな笑顔を見ているのが辛くて、青子の手が無意識の内に緑間へと伸びる。背伸びをした青子は、両手で緑間の口を塞いだ。いきなりのことに動揺したのか、緑間が目をぎょっと見開く。
「笑わないで」
緑間は、赤崎が死んでからというもの、いつもどこか無理に笑っているように青子には見えていた。響達はおそらくそれに気づいてはいなかっただろうが、青子にもそれがわからないかと言われると、勿論そんなことはない。
青子は、緑間のその笑い方が嫌いだった。笑いたくもないのに無理して笑顔を浮かべる彼が嫌だったし、それを気づかれてないだろうと高を括られていることも嫌だった。
だが、それよりも。何よりも。
自分に対しても、そういう笑顔を向けてくるという事実が―本当に嫌だった。
「私の前では、そんな風に無理して笑おうとしないで。お願いだから」
「青子…」
緑間の口から手を離し、青子はそっと彼の頬を両手で包み込む。すると、ぎこちなく持ち上がった緑間の手が、おそるおそる青子の手に添えられた。
「悪い、俺…」
と、そこまで言って緑間がぱたりと口をつぐんだ。妙に表情を強張らせていることを不思議に思い、彼女は首を傾げたが、その理由はすぐにわかった。
いつの間にかたくさんの人に囲まれていて、全員の視線が一点に集中していたからだ。もちろん一点というのは緑間と青子のことを指し、決して期末考査の結果のことなどではない。
一度それに気がついてしまうと、何故今までこの居心地の悪い視線に気づかなかったのだろうと、不思議に思ってしまうくらいだ。良い見せ物状態である。青子は、ぱっと緑間の頬から手を離した。
周囲に見られていたという事実が羞恥へと変わり、自分の顔の熱が一気に上がったように青子は感じた。緑間の方も大概顔が赤くなっていて、それが少しだけ青子には嬉しかった。
だが、当面の問題はそこではない。この場をどう乗り切るか、である。
このままこの場に長居すれば、色々と厄介なことになりかねないだろう。青子は、どうするかと緑間に訊ねようとした。
(――え)
だが、青子はそれを訊ねる前に、緑間に手を掴まれたのだ。
あたたかいと思ったのも束の間、次の瞬間ぐいっと力強く引っ張られ、足がもつれそうになる。
「逃げんぞ、青子!」
人の波を掻き分けて、走る緑間がそう言った。なんとなく、幼少期にタイムスリップしたかのような感覚に陥ってしまって、青子は返事をすることを忘れてしまう。
だが、そんな悠長なことを考えている暇はなかった。
先ほどまで青子達を囲んでいた人だかりが、逃げるように駆け出した二人を追いかけたのだ。これにはもう驚くしかない。まさか追いかけてくるとは思っていなかった。
「な…!なんであいつら追いかけてくんだよ!」
「私が聞きたいわよ!」
「てめえ祭、この学校のマドンナに手え出そうなんざ、一億光年速えんだよちくしょうが。ちょっと面貸せやああん?」
「光年は距離だけどな。でも、面白そうだから俺にも一発殴らせろ」
「そんな…っ青子ちゃんがたった一人を選ぶなんて、嘘だ…!嘘だと言ってくれえええええ」
「お前まさか俺達を裏切って、リア充満喫しようとか思ってるわけじゃあねえよなあ?俺達友達だもんなあ?」
「お前達は完全に包囲されているぞー無駄な抵抗は止め、速やかに戻りなさーい」
「青子ちゃん、初めて見た時からずっと君のことが好きだったんだ!緑間なんてやめて俺にしときなよ!」
「てめえ何どさくさに紛れて告白してんだよ」
「祭殴る」
「いや、祭殺ス」
「リア充爆発しろ」
「お前ら一体俺になんの恨みがあるんだああああああああああああああ」
***
「あー…疲れた」
「はあ、はあ…七割は、アンタのせいだからね、祭。どんだけ僻まれてるのよ…」
「知るか…ったく、俺を僻む暇があるなら、彼女でも作れっつうの…」
追っ手から逃げて逃げてひたすら逃げて、見知った公園を通りかかったところで二人は足を止めた。そして、後ろに誰もいないことを確認して、彼らはその見知った公園へと入っていく。
滑り台とブランコとベンチが一つ、あとは申し訳程度の砂場だけの、こじんまりとした質素な公園だ。二人はブランコに座り、青子の方が先に勢い良く地面を蹴った。
風が気持ち良い。
「でもまあ、久しぶりに走れて気持ちよかったから、今回のことは多めに見てあげるわよ」
「そりゃどーも」
緑間も青子に次いでブランコをこぎ始める。先にこぎ始めたのは青子の方であったが、すぐに高さを越されてしまった。
青子はブランコをこぎながら緑間の方を見やる。
「懐かしいね、ここに来るの。最後に来たのはいつだっけ?」
「おーいつだっけなあ…まあ、ここ二、三年は来てなかったかもなあ」
二、三年。言葉にするのは容易いが、その年月の長さは計り知れない。こんなちっぽけな公園でも、あの頃の彼らからしてみれば、とても大きな自分達だけの城だった。
幼い頃というのは、今現在どんなに大人しい人であっても、大抵は家の中より外で遊ぶことを選ぶ元気な少年少女であるものだ。それは彼らとて例外ではない。もっとも、赤崎だけは幼い頃からずっと、今と大して変わらない感じだったのだが。
それでもおそらく、昔の方が笑っていたと―青子は時々思うことがある。
「ブランコの取り合いとか、結構凄まじかったよね…祭、じゃんけんで負ける度に泣いてたから、静がよくブランコ譲ってたっけ」
「俺の黒歴史を掘り起こすな」
そう、昔はよくこの公園で、三人仲良く遊んでいた。朝から夕方頃までずっと。こんな、ブランコと滑り台しかないようなところで、一体何を毎日飽きもせず楽しんでいたのだろう。幼い頃というのは本当に、何をしていても楽しいものであったらしい。
今はもうあの頃のように無邪気には笑えないし、遊ぶことも出来ないんだろうと青子は思う。大人になるというのはそういうことで、子供の頃の無邪気さを代償とすることと、おそらく等しい。
子供のまま大人になることは不可能だ。それに今は、赤崎がいない。
「そういえば聞いたんだけど、静の後任は要らないって言ったんですって?」
「あ?…あーそのことか」
おう、言ったぜ。特に悪びれる風でもなく、緑間がそう言った。まあ青子自身も、空席となった副会長の席に新しい人を据えようなどという話を、彼が容認するとは毛ほども思ってはいなかったのだけれど。
「俺が会長である限り、副会長はあいつ以外認めねえよ。静の後釜なんて、そんなもんは必要ない。これ以上…あいつの居場所が無くなるようなこと、俺が嫌なんだ。だから断った。どっちにしろ、もうすぐ生徒会は一掃するしな。お前は新しい副会長、欲しかったか」
「…まさか。要らないわよ、そんなもの。それに、元々祭が作った執行部だもの、祭の好きにすればいい」
「そっか」
緑間の返事は短かったが、その表情は心なしか嬉しそうに見えて青子は内心でほっと息をつく。
「そういやお前だけだよな、生徒会の一員になったことに対して反発しなかったの。響達も確か…」
と、そこで彼は口をつぐんだ。青子はやれやれと深く溜息をつく。
あの一件以来緑間と響達との仲はどことなくぎくしゃくしていて、あまり良好ではなかった。特に響とは最近ほとんど連絡を取っていないし、弁当も今は緑間と青子の二人でとっている。
もちろんそれには理由があって、赤崎の誕生日パーティの準備や話し合いを、お昼の時間も利用して進めようとしているからであり、決して一緒にお昼を取ることを嫌がっているからではないのだが、それを緑間に伝えると、パーティのことまで説明することになりかねないので、青子は何も言えずにいる。
緑間が響達のことをとりわけ気に入っていることは青子も知っていたし、それと同じくらい響達が緑間のことを慕っていたこともわかっている。だからこんな風にすれ違われてしまうと、第三者から見るに非常に辛い。
青子自身、ここで響達を裏切ることは容易かった。青子の優先順位上、緑間か響たちならば、彼女は迷わず緑間を取る。だが―それができていれば、青子は話を持ち出された時点で、響達の言う
だが、最終的に協力すると頷いてしまった以上、響達を裏切ることは青子にはできなかった。
「…あいつら、テスト大丈夫だったんかな」
優はともかく、響と琴乃は他に類を見ないほど頭が悪い。特に琴乃にいたっては、放っておくと平気で全教科赤点を取りかねないくらいだ。
だからいつも、テストが近くなると昼休みや放課後の時間を使って、緑間と青子が三人に勉強を教えていた。頭は良いが人に教える能力が皆無であった赤崎は、それをただ遠目に見ているだけであったが。
そして今回―彼らは緑間ではなく、青子にだけ勉強を教えてほしいと頼んだ。
仲がぎくしゃくしていたのも理由の一つだろうが、一番の理由はやはり、計画が露見してしまうおそれがあったからだろう。だから青子に頼んだのだ、期末考査まで一週間を切った頃、その計画の概要と共に。
勿論緑間はそのことを知らない。
「…大丈夫よ、きっと。今回はなんとしても赤点は免れないとって、言ってたから」
「そうなのか?」
「ええ。追試の補習期間が、ちょうど大事な予定と被ってるって言ってたし…それがなんなのかはわからないけど」
「……」
(ごめん、嘘。本当は全部知っているけど、そこに静がいるなら、私はそれを教えるわけにはいかないの)
それにこれは、
青子はきゅっと目を細め、先日の響との会話を思い出す。
『あの時言ったように、静さんの幼なじみである青子さんの力が必要なんです。力を…貸してもらえませんか』
本当は、協力するつもりなど青子はなかったのだ。彼らがやろうとしていたことを全て知った上で、手を貸すつもりは更々なかった。
当たり前だ―“静の誕生日は祝わない”―それが、
だから去年だって、赤崎の誕生日ではなく、七夕をメインとしたパーティを開いたのだ。響達と出会う前から、ずっとそうだった。そうしてきた。他の誰でもない、赤崎がそれを望んだから。
だが、それをよりにもよって今、彼らは崩そうと言ったのだ。赤崎の誕生日を祝えない理由を、赤崎がどんな想いで誕生日を祝わないことを望んだのかを知らないくせに、よくもまあそんなことが言えたものだと、それを聞いた瞬間はさすがの青子もキレそうになった。というか、実際キレた。感情を抑えることが出来なくなり、割りと思い切り響の頬に平手打ちをしてしまったのである。
それでも結局、こうして彼らに協力することになってしまったのだけれど。
もちろんそれは、自分の意思で。
『勝手なことを言わないで…!静の痛みも、悲しみも、何も知らないくせに…っ』
『“生まれてこなければよかったのに”ですか』
響のあの言葉が、青子を大きく揺さぶった。それがただ、彼女の脳裏を横切るだけの言葉ではなかったからだ。それは紛れもなく、赤崎の過去であった。
おかしいと青子は思った。赤崎の過去を、響達は知らないはずだからだ。
勿論それは青子の知る限りの話であったけれど、赤崎と緑間がそれを積極的に口にしようと思わないことは明白だったし、少なくとも、それをわざわざ伝える必要がないことは明らかだった。
だから青子は、響達が赤崎の過去を知っているはずがないと、高を括っていた。
(でも…)
このタイミングで“それ”が出たということは、響達は何かしら赤崎の過去に気づき始めていると、そういうことなのだろうか?
響をぶった右手が痛かった。
『なんで、それを』
『なんとなく、静さんの誕生日を祝わなかった理由は、わかっているつもりです。それでも僕は、このままじゃダメなんだって思ったから、琴乃と優と一緒に、この計画を実行することを決めました。誕生日を祝わないことが、あの人の為になるとはどうしても思えません。僕には、過去を腫れ物のように扱って、逃げているようにしか見えないんです。静さんも、祭さんも、青子さんも』
そのまっすぐな目が青子に赤崎を連想させ、ほんの一瞬彼女は動揺した。愚かにもこの時、響の後ろに赤崎の面影を青子は確かに感じたのだ。
『僕はちゃんと言いたい。“生まれてきてくれて、ありがとう”“誕生日おめでとう”って。ちゃんと祝って、静さんの周りにはたくさんの人がいるってことを、知ってほしい。青子さんだって、本当はずっとそうしたかったんじゃないんですか?』
目頭が熱くなるのを青子は感じた。響をぶった右手が痛かった。
まだ出会って間もない後輩に、こんなことを諭されるとは思わなかった。情けない。本当に、情けない。一体何年、自分は彼の幼なじみをやってきたのだろう。
誕生日を祝わないでほしいと赤崎は言った。けれど本当は、もしかしたらずっと、それとは反対のことを望まれていたのではないか。本当は毎年、誕生日を祝ってくれることを、彼は心のどこかで望んでいたのではないだろうか。そう思うと、涙が止まらなかった。
そしてその結果が今だ。
「…そんな顔するくらいなら、意地張ってないでさっさと仲直りしなさいよ、バカ」
「ケンカしたつもりはねえよ…それに、今はまだ、その時じゃないんだろうからな。気長に待つさ…待つのには慣れてる」
「…そう」
緑間がブランコをこぐのを一旦やめる。苦笑いをしたかと思えば、今度はどこか真剣そうな表情を浮かべていた。青子は首を傾げる。
しばらく何かを言いかけては、思い留まったように口を閉ざす、を繰り返した緑間であったが、やがて決心を固めたのか、ブランコに揺られている青子をまっすぐに見た。
「…本当は、言わないでおこうと思ったんだけどな。やっぱお前には伝えておくべきだろうって、今思った」
「?」
唐突な切り出しに「何を」と青子は訊ねる。徐々に失速させ、彼女もブランコをこぐのをやめた。
「静の母親の実家に行ってくる」
風がザーっと木の葉や枝を揺らした。緑間がなんと言ったのか、青子はいまいちよく理解できなかった。聞き間違いであればいいと、そう思った。
「今…なんて」
「夏休みに入ったら行こうと思ってたんだ。準備が終わり次第、俺はあいつの母方の祖父母の家に行く」
もう一度繰り返される言葉に、聞き間違いではなかったことだけ青子はわかった。
「な…なんで、そんなこと。必要ないわよ、そんな、今更…」
「静が望んだんだ」
そんな馬鹿な、と青子は思った。赤崎が、自ら進んであの忌々しい過去に踏み込もうなどと言うはずがない。言うはずが、ないのだ。
それでも、こういう局面で緑間が嘘や冗談を言うわけがないことを、
その告白はあまりに唐突で、怒りすら湧いてはこなかった。響達の時のように、彼女の右手は持ち上がらなかった。何故なら、
「あいつは、止まった時間を動かそうとしてる。だったら俺がしてやれんのは、静の道を作ることしかないだろ?」
(誰よりも辛いのは、きっと祭の方だから)
静が再びあの過去に足を踏み入れること、その為に傷つく静を一番近くで見ていなくてはならない祭が、私よりも、当の本人である静よりも辛いのだと、わかっているから。
「…だから、そんな顔で笑わないでって言ったでしょ」
「…ごめん」
緑間がへにゃりと情けなく笑った。情けない笑みではあったけれど、やはりどこか強い決意を秘めた目をしている彼を見て、ああ、止められないな、と青子は思った。
「私は…一緒には行けないのね」
返事はない。その沈黙は、青子にとって肯定を示すのに十分な間だった。
わかっている。ダメ元で聞いたとはいえ、それを拒まれることを青子は容易に想像することができた。それが意地悪などではなく、この幼なじみの精一杯の優しさなのだということも、青子には痛いほどわかっていた。
(あなたはいつだって、自分以外の誰かの為を一番に優先する人だから)
「青子には待っていてほしい。俺達が帰る場所を見誤らない為にも」
―こんな風に優しい拒絶しか出来ない人だと、わかっているから。
彼らが何故、どういった理由で赤崎の母親の実家に行こうとしているのかを、青子は知らない。だが、おそらく八年前の
藤黄の家は赤崎に良くしてくれていたので、行って早々に追い払われるなどということはいだろうが、そこまで物事が順調に進んでいくだろうか、と青子は思う。それにあの家には、“彼女”がいるのだ。
“俺達が帰る場所を見誤らない為にも”
その言葉にどのような意味が込められていたのか、青子にはわからない。わかることはただ一つで、青子には待つことしかできないということだ。
「必ず…っつうのは、まあ、当たり前のことなんだけどよ。帰ってくるから、だから」
「信じて待ってろ、でしょ」
「……、」
「大丈夫。何も聞かないし、止めたりもしない。私はここで二人を待ってる。だから」
青子は伏せていた顔を上げ、緑間と目を合わせる。
(私はここで、私のやるべきことをする)
静が先へ進むことを望むなら。
そして祭が、その道を作るというのなら。
私もその手助けがしたい。私が二人の、背中を押してあげたい。
そしてその為に何をするべきか、誰よりも私自身がそれを一番よくわかっている。
「必ず帰ってきて」
この時彼女は、本当の意味で、八年間守り続けてきたルールを壊すことを決心したのだった。
「おう」
そうして二人は指きりをした。お互いの小指同士を絡め、軽く揺する。指切りをするはいつ以来だろうと青子は思った。
「…飲ーます。指切った」
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