第五話「答えは静が知ってるぜ」

 屋上までの道のりといったらなかった。おそらく、ここまで青子の隣りを歩くことに居心地の悪さを感じたことは、今までなかっただろう。

 たった数時間であっという間に今朝の出来事は広まったらしく、とにかく周囲の視線が痛かった。嫌でも周りのひそひそ話は耳に入るし、いつの間にか付き合っている設定にもなっているようで、本格的に頭が痛くなってくる。青子の方はといえば、特に気にしていない―どころか、上機嫌で腕を組んでくるものだから、最早溜息すら出てこない状態である。いつもいつも振り回されてばかりだと緑間は思った。

「ったく…お前があんなことするから、すっかり注目の的じゃねえか…居心地悪い」

「気にするから悪いのよ。それに注目されるの好きでしょう、祭」

「人を目立ちたがりみたいに言うな。場所を考えろって言ってんだよ場所を。なんでよりによって学校なんか…」

「あら、じゃあ学校でなかったらいいのかしら」

 そういう問題じゃねえ、と緑間は彼女の頭をはたいた。というか、今の発言にも大いに問題がある。いよいよ弁解が難しくなってきたのではないだろうか。

 第一、好きでもない相手にキスをすること自体がそもそも間違っているのだ。当然、お前もしただろ、というつっこみは受け付けない。俺がしたのはおでこだ、あれはキスには入らん、というのが緑間の主張である。

「少なくとも青子は、そうは思っていないみたいだけど」

 緑間は、悪霊の言うことを徹底的に無視することにした。

「ねえ、祭」

 悶々としている緑間に、青子が声のトーンを下げて切り出した。彼女の表情に陰りが生まれ、緑間は先ほどまでと一転し、神妙な顔で「なんだ」と返事をする。

「あのね、私…」

 先ほどまでの明るさが消え、わなわなと青子の体が震え始める。一体何事かと思ったが、すぐに緑間は赤崎のことだろうと思い至った。よくよく考えれば、昨日の今日で赤崎のことに関して色々思うところがあるのは当然である。

 それに、確かに昨日事情は説明したものの、時間的にも精神的にも青子には余裕がないと判断し、適当に流した部分もある。彼女自身、赤崎のことに関して聞きたいことが、多かれ少なかれあるはずだ。おそらくそれを切り出されるのだろうと緑間は思っていた…のだが。

「実は今日お昼持ってきてないのよ。それ、静の分のお弁当でしょ?私がもらってもいい?」

 思わずずっこけそうになった。




 ぱんぱかぱーん。

 屋上へ入るなり三連続でクラッカーを鳴らされ、一瞬思考回路が停止する。隣りの青子もそれには驚いたようで、目をぱちくりとさせていた。

 クラッカーから飛び出してきた折り紙や装飾品の数々が制服にまとわりつく。犯人は勿論、クソ可愛い後輩共だ。つーかお前らどっからクラッカー持ってきやがった。

「聞きましたよー!お二人、とうとう付き合い始めたんですね!リア充…もといまつり先輩爆発して下さい!」

「お似合いだと思いますよ。美男美女、すっかり学校公認のカップルですね。というわけで祭さん爆発しろ」

「お前らなんなの一体!?」

 やっとのことであの居心地の悪い視線から逃げ出せたと思ったのに、ここもかよ…と、緑間はうな垂れた。しかも爆発するのが自分だけというのは、一体どういう了見なのだろう。響にいたっては、最早先輩への敬意も尊敬もあったものではない。棒読みな上に無表情で、最終的には命令形になっている有様だ。

「すみません祭先輩、俺も実は結構爆発してほしいです。爆発してもらえませんか」

「いや、丁寧に言えばいいって問題じゃねえから。てかお前らどんだけひがんでんだよ!?」

 後輩陣唯一の常識人であるはずの優まで、どうやら頭のネジが数本緩んでしまったらしい。しかもこれまた割りと本気っぽい。どうやら緑間がリア充になると、ここまで周りが狂ってしまうようだ。

(って、待て待て待て待て。そうじゃねえだろ)

「あのなあ、勝手に勘違いしてるみてえだけど、俺らそもそも付き合ってないから。リア充じゃねえし。お前も、黙ってないで否定しろよアホ」

「…え?」

「いいじゃない別に。私は全然構わないもの。それにさっきも言ったけど、気にする祭も悪いのよ」

「アホか。勝手に変な噂流されて、気にすんなっつう方が無理だろ。なんでお前はそんなに冷静なんだ」

「さあ、なんででしょう?」

「…あの、えっと、ちょっと待ってください」

 緑間と青子の会話に響が割って入る。状況をいまいち飲み込めていないのか、渋い顔をしながら待ったのポーズを取った。琴乃と優も、うん?と首を傾げて腕を組んでいる。

「えっとー…あれ?お二人、付き合ってるんじゃないんですか?」

「だから、違げえっつってんだろ。色々尾ひれつきすぎだっつうの」

 琴乃の問いかけに、やれやれといった様子で緑間は答えた。普通に考えればわかるだろうに、何故そこまで驚いたような顔をされなければならないのかと、溜息をつく。

「え…でも、祭さんと青子さんがキスしたって噂が…」

 混乱している様子の響が、意義ありと手をあげる。あー…と緑間は生返事をして、がしがしと頭を掻いた。それに関しては、不本意だが事実なので弁解のしようがない。

「それはまあ、いつも通りこいつの気まぐれだよ。挨拶みたいなもんだ。お前らだってされてんだろ」

 たかがキスの一つや二つ如きで付き合ってるなんて、大袈裟すぎんだよ、と緑間は付け加えた。たかがキスと言える辺り、彼の恋愛感覚もそれなりに麻痺していることがよくわかる。こればっかりは、本人が無自覚なので救いようがない。

「じゃあ、お二人は本当に付き合ってないんですか…?」

「しつけえなあ。付き合ってないって言ってんだろ」

 いい加減このやり取りが鬱陶しくなってき緑間は、半ば投げやりにそう返した。事実を改めて再確認した三人の表情が、一気にクールダウンする。クラッカーと共に騒々しく出迎えた時とは打って変わり、肩を落として、期待はずれだと言うような、冷ややかな視線がぐさぐさと緑間に刺さった。

「そう…ですよね。祭さんがリア充とか…はは、ありえない」

「そもそもあおこ先輩と釣り合ってないし…ヘタレなまつり先輩がリア充とか…うん、ありえないですね」

「紛らわしい噂を流すのは今後控えていただきたい。マジ迷惑なんで」

「だからお前ら何なんだよ!?」

 リア充だと勘違いされては、爆発しろと言われ。誤解が解けたらと解けたで、釣り合ってないだのありえないだのと言われ。男としてのプライドはおろか、先輩としての威厳うんぬんもあったものではない。

 隣りの青子は何も言わないし、幼なじみの赤崎は心底おかしそうに笑っていて、緑間は結構本気で泣きそうになった。

「…と、まあ与太話はこの辺にして」

「与太話って、そもそもお前らが始めたんだからな」

「まあまあ、細かいことは気にしない気にしない」

 響が、先ほどまでの空気をぶち壊すかのようなきりっとした態度で、緑間のすぐ隣りを見据える。彼の視線の先にいるのは赤崎だ。

「お久しぶりです、青子さん。また会えてよかった。そしてこんにちは、祭さん…と、静さん」

 響の言葉を合図に、残りの二人も緑間と青子に目を留めた。

 青子には、先日響に霊感があることを説明済みだったので、別段驚いた様子を見せはしなかったが、「本当に静が視えるのね」と薄い笑みを浮かべていた。

 だが、決して羨ましいとは続けない。霊が視えるその体質が、必ずしもその人にとって喜ぶべき対象ではないことを、そして、望んで持ち得た力ではないことを知っているからだ。現に緑間がそうだった。

 だからその体質のせいで響が辛い思いをしてきただろうことは、青子にだってわかっている。

「挨拶はいい。お前ら五・六時間目の授業は?」

「五時間目は自習です。六時間目は古典ですが、小林先生はかなりボケているので、おそらく抜けていてもバレないかと思います」

 答えたのは優だ。自習とはまた、随分運が良い。六時間目の古典だが、これも優の言う通り度外視する問題ではない。あの先生のボケは既に末期状態である。

 それよりも―緑間が気にかかったのは優だ。抜けていてもバレないかと思います、とその一言を言ったのが優であったことに、緑間は若干驚いていた。何故なら彼は、ルールや規則を破ることを極端に嫌う、超真面目人間だからだ。その生き方を貫くことが、黒銀優の生き方であり、もう出会ってから二年経つが、彼がその信念に背くところを見たのは、これが初めてのことであった。

「…俺だって、規則を守るより大切なものがあることくらい、いい加減もうわかっているつもりですよ」

 そんな緑間の心情を察したのか、優がふいと目をそらしてそう言った。少しバツが悪そうに見えて、緑間は苦笑いを浮かべる。最近はこんな風に心の中を読まれてばかりだと思いつつ、初めて会った時には想像もしていなかった後輩の微かな変化を、緑間は少しだけ誇らしく思った。

 優は優なりに、赤崎のことを慕っていたようだ。それが、響や琴乃のように表面に現れることはほとんどなかったけれど。

「…よっし!俺の方は数学と化学が入っちゃいるが、まあその辺はクラスの奴らが上手く誤魔化してくれんだろ。青子は?」

「問題ないわ。どちらも男の先生だもの」

 緑間の問いかけに、若干投げやりな様子で青子が答えた。どちらも男の先生だもの。それが理由で授業をサボれる生徒など、おそらく日本中どこを探しても青子くらいのものだろう。

 何故なら彼女は、驚異的なほど男の先生方に気に入られているからだ。青子の美貌は老若男女、年齢や年の差も関係なく虜にしてしまうのである。今まで三~四人ほどの先生から告白されているらしい。全く、末恐ろしい女だ。

「お前ら、今日はもう授業に出れるだなんて思うなよ。議論の進行状況によっては、時間の延長も十分有りうる。なんせ前代未聞の議題だからな。案が出るまで帰れると思うなよ」

 その場にいた(赤崎を除く)全員が頷き、その視線が一斉に緑間へと向く。全員の視線を受け止め、緑間も静かに頷いた。

「それではこれより、生徒会執行部生徒会長の名の下に、議題“赤崎静の成仏”についての論議を始める」

 議事の進行は議長、書記は議会の進行状況と現状のまとめ、論議の結果をメモしておくこと。会計は書記のサポートに回れ。

 緑間の、的確で無駄のないその指示に応えるよう、全員が動き始める。この状態を生徒会モードと言い、この時ばかりは緑間も含め、全員が執行部の一員としての役割を真っ当するのだ。まあ、今回の議題が執行部としての役割うんぬんに関係しているかと言われると、それはまた微妙なものであるが。

 青子が制服の胸ポケットからメモ帳とペンを取り出したのを確認し、緑間は続ける。

「そして副会長は、議会の進行をスムーズに進めることだけを考えろ」

 緑間はそう言って、その場に腰を下ろす。会長らしい、堂々とした振舞いであった。

「「それでは、議題に対する討議ディスカッションを、議長団の宣言により開始します」」

 ここまで本格的に話し合う必要はないのではないだろうかと思う赤崎であった。




 議題その一、赤崎は何故こちら側に留まっているのか。

「まあ…普通に考えれば、現世になんらかの未練や執着があるから…ですよね」

 響が言った。確かにその通りで、霊があの世にいけず、浮遊霊もしくは地縛霊になってしまう理由というのは、大体がそれに該当する。

 それはファンタジーの世界だけの話だろうと、世の中の大半はそう思っているだろうが、今までの人生経験において、常に霊を見続けてきた響と緑間にとっては、それは紛れもない事実である。現に二人は、今までそういう霊を嫌というほど視てきた。

 だから響の意見が正当なものであることは確かなのだが…それで済まないから困っているのだ。

「でも、静の野郎は、そういう未練やら執着やらが無いって言ってんだよ。一つくらいあってもいいだろうに、全くないって言い張りやがるし」

「静さん曰く、無いものは無いんだからしょうがないだろ、だそうです」

 視えない青子達のパイプ役として、響が霊である赤崎の言葉を伝達する。緑間と響の言葉に、青子が納得したようにメモを取りながら頷いた。

「私もそう思うわ。静のことはよく知っているつもりよ。未練を残すほど、自分の生に執着しているようには見えなかった」

「私もあおこ先輩の意見に同感です。しずか先輩って、なんていうか…炭酸?みたいにスカっとしてて、そんなねちっこさはもち合わせてないと思います」

「俺もです。それこそついこの間まで、静先輩は竹を割るようにすっぱりといってしまう人だと思っていました。間違っても未練を残して成仏できなくなるなんて、思ってもみなかったです」

 青子、琴乃、優の順で、全員が赤崎に未練があるとは思えないと言った。その件に関しては同感だと緑間と響も頷く。

(そう、きっと、)

 こいつは未練だなんて、そんな小難しくて小綺麗なもんは持ち合わせていない。

「僕は随分さばさばしていて冷たい奴だったんだね」

 赤崎が薄く笑った。響はそれを、三人に伝えなかった。

 青子が器用にペン回しをする。

「仮に、静に未練+aがなかったとしましょう。じゃあ、静が成仏できずにいる理由って、一体なんなのかしら」



 議題その二、赤崎がこちら側に留まってしまっている理由とは、一体何か。

「…ていうか、これがわかったら初めから苦労してないですよね」

「言うな、琴乃。仕方ねえだろ、結局のところ、ここの答えを導き出さなきゃなんにも解決しねえんだから」

 琴乃の言い分はもっともだったが、だからといってそこを横に置いても何も始まらないし、解決策も浮かびようがない。赤崎が成仏できない理由がわかれば、何かしらの手を打つこともできるだろう。つまるところ、そこを放置したままでは、話は進まないということだ。

「それじゃあまずは、僕らで当てはめて考えてみます?」

 響の提案に、青子が賛同した。確かに、当の本人である赤崎がわからないというのだから、まずは自分達に当てはめて考えてみるのもいいかもしれない。

「じゃあ、例えば不慮の事故で自分が死んでしまったと仮定して、その時成仏できずに幽霊になってしまうと思う人は手を挙げてください」

 優の言葉に手を挙げたのは、響と優と青子の三人だった。とりあえず青子が、その結果をメモに書き残す。

「あれ、意外です。まつり先輩、未練とかないんですか?」

「あー…多分、ないなあ。割と人生楽しんできたし。つうか俺としては、お前が手挙げなかったことに驚いてるよ」

 それには緑間だけでなく、その場にいた全員が同意見であった。特に双子の兄妹である響は、てっきり琴乃は手を挙げるんだとばかり思っていたようで、大きく目を見開いている。

 琴乃は、苦笑いをした。

「昔の私なら…多分、成仏できなかったと思いますけど。でも、今は違いますよ。だってもう、響の周りには、たくさんの人がいるから」

 私は多分、安心していけると思うんですよね。そう言った彼女は、普段とは打って変わった、大人びた表情をしていた。対する響は、妹のその言葉に複雑そうな顔をしている。

 緑間は静かに目を細め、それからくしゃっと琴乃の頭を撫でた。「わわっ」と、琴乃が慌てたような声を上げる。不思議と、純粋に今は彼女の頭を撫でたいと、緑間はそう思った。

「じゃあ…そうだな、響はなんで成仏できないと思うんだ?」

 そして、相変わらず複雑そうな顔をしている響に訊ねると、返ってきた返事は随分歯切れが悪かった。

「いや…えっと、その……あれ?」

「いや、あれ?ってなんだよ」

 素っ頓狂なことを言う響に、緑間が眉をひそめる。

「あの、ちょっとパスで。なんだかわからなくなってきました」

 次行って下さい、次。と半ば強引に響のターンは終了した。

 それじゃあ意味ないだろ、と思う緑間であったが、そんな兄の様子をじっと見つめ、「今はそっとしておいてあげて下さい」と琴乃が言うものだから、仕方なく次に順番を回すことになった。

「響はとりあえずパスっつうことで、じゃあ次行くな。優は?なんで成仏できねえの?」

「…家族との仲を復縁できていないから、というのも理由ですが…一番は、おそらく」

 そこで区切り、優は混乱している響の方をちらりと見やった。考え事に夢中の響は、もちろん優の視線に気がついていない。

「…まだ、何も伝えていないからだと思います。俺が、一番向き合いたいと思っている奴に、自分の気持ちを伝えることができていないから」

 それが誰のことを言っているのか、緑間と響だけがわかっていないようだった。まあ響に関しては、そもそも優のその言葉すら聞いているかどうか怪しいが。

 青子が、忘れない内にとメモを取る。

「そんじゃラストな。お前は?」

「私は…」

 考えているようだった。というよりはまあ、どう答えるべきか考えをまとめているという表現の方が正しいかもしれない。

 緑間は、青子が成仏できない方に手を挙げるだろうと、なんとなく予想がついていた。おそらく彼女はまだ、あの日の約束を引き摺っているだろうから。

「約束したから…って、多分昨日までの私なら言っていたと思うわ。でも、今は違う。優と同じよ…大事な人に、言い残したことがあるから」

 青子は、とても優しい顔をしていた。予想外の言葉に、緑間は目を見張る。あの日の約束を引き摺っているんだとばかり思っていたのに―否、引き摺っていた時期もあったようだが、どうやら今は違うらしい。大事な人に言い残したことがるから。それは一体、誰に、何を。

 そこを追求すると、本筋から大分逸れてしまうことがわかっていたので、緑間は結局聞かなかった。

「…でも、未練があるとかないとか関係なしにね、やっぱり“一緒にいたかった”って、そんな風に思うんじゃないかって、最近思ったわ」

 ―一緒にいたかった?

 緑間は、青子が言ったその言葉に妙な引っかかりを感じた。

 響を除く四人の意見が出揃ったところで、再び話を元に戻す。何故赤崎は現世に留まっているのか。優と青子の言い分はほとんど同じだったので、緑間はとりあえず赤崎にそれを振ってみる。そもそも、緑間と琴乃の意見は参考にはならない。

 赤崎は、腕を組んでうーんと唸っていた。

「確かに…言われてみれば、なんかそんな感じのありそう」

 心当たりがないわけでもないようだった。

 ここまでくると、あとはもう当事者である赤崎本人に思い出してもらうしかない。

 あの世にいけない理由を。

 やり忘れた夏休みの宿題の在り処を。

「うー…あー…ダメだ。思い浮かばない。もう少し時間かかりそう」

「しずか先輩、なんて?」

「思い浮かびそうだけど、まだなんか足りないって」

 赤崎が、うんうん唸ってまた考える。響が、そんな赤崎の言葉を代弁した。

 時間がかかりそうとのことで、執行部一行は時間が許す限り赤崎の言葉を待った。

 そして待つこと二十分。もう既に五時間目の授業は終わっている。

 赤崎が切り出したのは、とても予想外の言葉だった。

「考えてみたけど、なんか途中で面倒くさくなった」

「俺らの二十分を返せこの野郎!」

 赤崎の面倒くさい発言に、緑間の中でプツンと何かが切れる。

「お前なあ!面倒くさくなったってなんだよ!人が必死こいてなんとかしてやろうとしてるっつうのに…思い出す努力くらいしやがれ!」

「ちょ…!ス、ストップ!ストップです!落ち着いて下さい、祭さん!」

 赤崎に掴みかかろうとした緑間を真っ先に止めに入ったのは、この展開を予想していたらしい響だ。他の三人は「えっ?」と戸惑いの声を上げている。どうやら状況を理解できていないようだった。当たり前である、三人には姿どころか赤崎の声すらも聞こえないのだから。傍から見れば緑間は、突然誰かに向かって叫んだようにしか見えない。まあ、それが誰に向けられたものであるかくらいは、流石の三人にもわかっているようだが。

「これが落ち着けるか!こいつは、面倒くさいって言ったんだぞ!?まるで他人事みてえに!てめえ事だろうが!誰の為にこうして集まったと思ってんだよ!」

(……?)

 誰の為に。

 ―――――――誰の、為に?

 考えて、緑間は脱力した。

「うん、そうだね。他人事なんかじゃない。悪かったよ、ごめん。でも…頼んでないよ。なんとかしてくれって、縋った覚えも僕にはない」

 ぐさりと、その言葉が胸に突き刺さる。どすんと、その言葉の重みに潰されてしまいそうだと緑間は思った。

 全くその通りすぎて、怒りを通り越して笑いがこみ上げてくる。

(馬鹿野郎、)

 自分で言ったんだろうが。助けて、とは縋ってこない奴だと。だから。

 誰の為か、だって?

 滑稽すぎて涙が出てくる。

「いくらなんでもそれは言いすぎでしょう、静さん。祭さんは…」

「いや、いいんだ、響。おかげで頭が冷えた。悪いな、もう大丈夫だ」

 流石の響もそれはあんまりだと赤崎に噛み付いたが、今度はそれを緑間が制する。止めに入っていた後輩を優しく押しのけ、何度も心の中で深呼吸を繰り返した。

(冷静になれ。流されるな。今更こいつのこういうところに苛立つなんて、らしくない)

「…悪かった。今のは取り消す。確かに俺はお前に頼まれてもいないし、まして縋られてもいない」

 むしろ俺が、お前に頼んだ。お前に縋った。この罪悪感から解放されたくて、お前に助けを求めたのは俺の方だ。

 誰の為、だなんて愚問だった。俺は静の為以上に、俺自身の為にやってるんだから。静の為と言いながら、ただ単に俺が、静を救うことで少しでも、自分の罪悪感を取り除きたかっただけなんだ。あの時の、俺の全てを清算できればどれだけ良いか。

 やっぱりあの日、一緒に帰っていればよかったんだ。あそこで強く静を引き止めなかったのもまた、俺の罪だ。

 だからこれは、俺が俺の為に俺の意思でやってることだった。ああ、そうだったんだ。

(それでもやっぱり、お前の為でもあったんだぜ、静)

 ふと、赤崎と目が合った。その表情は歪に歪んでいて、どうやらまた心の内を読まれてしまったらしい、と緑間は理解する。いつもの変化が乏しい幼なじみからは想像もできないような、くしゃくしゃで痛ましい表情を浮かべていた。怒っているようにも、見える。

 そこでようやくわかった。緑間は、初めて赤崎の気持ちがわかった気がした。これはおそらく、テレパシーではないだろう。

なんで、と問いかけられる。

「なんで祭は、いつも僕を正当化するんだ。自分ばっかり悪役になって、自分ばっかり否定して…お願いだから、僕みたいな生き方はしないでくれよ。罪も罰も、初めから存在なんてしていないんだ。だって僕は、」

「俺さ」

(なあ、静)

 残念だけど、俺はお前を正当化しようとしてるつもりはないんだよ。ただ、俺とお前が一対一で対峙した場合、どう頑張ってもお前の方が正当化されてしまうだけで。まあ、当たり前だよな。俺にとって、正当の模範はいつだってお前だったんだから。俺とお前が一致してなかったら、いつだって間違ってるのは俺の方だったんだよ。

「ずっと、お前は成仏したがってるんだと思ってた。成仏させるのが一番良い方法なんだって、思ってたよ」

 だからさ、俺がお前を正当化するのも、お前から見て俺が、悪役の貧乏くじを引いてるように見えるのも、俺が俺を否定するのだって全部、元を辿ればお前が原因、だったりするわけだ。

 赤崎が、今にも泣き出しそうな顔で「ごめん」と小さく呟く。

(バーカ。一体お前は、何に対して謝ってんだよ)

 俺は一度だってそれを不幸だと思ったことはないんだから、それくらいちゃんとわかっとけ。

「なあ、静」

 ―お前は俺の正義だった。お前は、俺の道だったよ。


「お前さ、成仏なんて本当はしたくないんじゃねえの?」


 え?と、その場にいた全員の声が重なった。赤崎の姿が視えない三人も、状況は理解できていないにせよ、緑間の言葉の意味はわかったのだろう。響ですら、虚をつかれたように目を見開いている。

「ちょっと、祭。それって一体…どういう意味よ」

「答えは静が知ってるぜ」

 もっとも、誰よりもその言葉に驚きを隠せなかったのは、当事者である赤崎本人であったわけだが。

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