第六話「それぞれの選択Ⅰ」
結局その日、彼らは六時間目の授業が終わる十五分ほど前に解散した。当事者である赤崎が、心ここにあらずの状況であったからだ。
もちろん、残り十五分で終わる授業に出る気などあるわけもなく、五人は学校を早退することにした。
緑間が教室に鞄を取りに戻ると、クラスメイト達がこぞって訝しげな表情を浮かべていて、よほどひどい顔をしていたのか、授業中にも関わらずわざわざ席を立って「大丈夫か」と問いかけてきた。それに対し緑間は、「大丈夫大丈夫」と笑って、化学の先生に一言断ってから教室を出た。
教室を出た緑間は、廊下で待っていた青子と一緒に玄関へと向かう。
先ほどとは別の意味で、この空気は居心地が悪いと緑間は思った。
「…静、そこにいるんでしょ?」
青子が呟くように言った。彼女の指す“そこ”とは、緑間の右隣りのことである。
そう、赤崎は昔から、大抵いつも緑間の右隣りを歩いていた。それは赤崎に何か意味やこだわりがあったからではなく、おそらく彼は無意識の内に、一種の“在るべき場所”を見出していたのだ。緑間の右側は自分の居場所なのだ、と。
だから緑間も、そのことについて何かを言ったことはなかった。彼の中でも、右側は常に赤崎のために空けてある場所であったから。
その場所が空白になって、もうどれくらい経っただろう。
そして、その場所が再び埋まるようになって、一体、どれほどの。
緑間は、悪い方向に向かっていきそうな思考を取っ払い、「ああ」と短く返す。
「成仏したくないって本当なの?」
それは赤崎への問いかけでもあり、また緑間への確認という意味も含んでいた。当の本人である赤崎は答えるつもりがないのか、俯いてだんまりを決め込んでいる。
「さあな。少なくとも俺は、そうなんじゃないかって思ってる。ついさっき、そう思った。まあ静の方がどう思ってるかは知んねえけど」
「理由は?根拠とかあるんでしょ?」
緑間は階段を下りる足を止めた。それにつられて、一段先を降りていた青子も立ち止まり、そして一つ上の緑間を見上げる。
授業中なので廊下や階段には、もちろん生徒の姿はない。
静かだった。
「死にたくなかったからだよ」
そして、緑間のその言葉は、静まり返ったこの空間の中ではっきりと反響した。
「え…」
青子が呆けたような表情を浮かべる。緑間としては、そんな顔をする彼女の方が、よっぽど理解できなかった。
死にたくない。誰だって、生きていれば一度くらいは思ったことがあるはずだ。死んだ人だってそうだろう。それは、赤崎だけが例外ということにはならない。
「で、でも、静、未練はないって」
「それは嘘じゃないだろうな。あいつは多分、未練も後悔も何も持ってない」
そう―赤崎が持っているのは、未練でもなければ後悔でもない。
「願いだよ、静が持ってるのは。生きて、みんなと一緒にいたかったっていう、すっげえありふれた望みだけだ。その願いの強さが、あいつをこっちに留まらせてる」
「嘘…」
青子が目を見開いて口元を押さえた。どうやら彼女にとって、赤崎のそれは大いに予想外のことであったらしい。
一方赤崎は何も言わない。緑間の言葉に対して、肯定もしなければ否定もしなかった。返事がないことを緑間は肯定と解釈する。
「だからあいつは成仏したくない。今までみたいに…そんで、今みたいに一緒にはいられなくなるからな」
ま、実際のところどうなのかはわかんねえけど。そんな風に緑間は付け加えたが、それでもやはり、それが答えなのではないかと思うのだ。
(お前は、俺に罪なんてないって言ったけどな)
お前を、こんな風に幽霊っていう一つの手段に縛ったのは、紛れもなく緑間祭なんだろう。あの時お前に俺を庇わせた、お前を庇えなかった俺のせいだ。これが罪じゃなかったら、一体なんだっつうんだよ、アホ静。
「じゃあ」
小刻みに肩を揺らし、青子は俯いたまま絞り出すような声で言った。彼女の表情は窺えなかったが、おそらく泣いてはいないだろう。学校で青子と会った時、なんとなく以前よりも“泣かない”という意識が強くなっているように緑間は感じたからだ。
「じゃあ、もしも祭の言うとおり、静が本当は成仏したくないって言ったら、どうするの」
青子の問いかけに、緑間は情けなく笑った。止めていた足を再び動かし、たんたんと階段を下りていく。対する彼女は、その場から動けずにいた。
見上げていたはずの緑間を、今度は青子が見下ろすような形で、二人の視線が交錯した。
「それでも俺は、静を成仏させるぜ」
そう言った緑間の顔はやけに儚げで、捕まえておかないとふらっとどこかへいってしまいそうだと青子は本能的にそう思った。嫌な予感がしたのだ。つい先日の自分を思い出す。
「もう、とっくの昔に覚悟はできてたんだ」
そんな顔で言わないで、と青子は心の内でそう呟く。
今の緑間が、青子には数日前の自分と同じに見えていた。
「世界が壊れたのに俺だけ生きてるなんて、そんなの…おかしいもんな」
青子は、動くことを拒む自分の体を無理矢理動かし、引き止めるようにその手を掴んだ。
「お願い、祭までいかないで。お願いだから…」
彼女がそう言うと、掴んだ緑間の手がぴくりと揺れた。如実に迷いが伝わってきたような気がして、引き止めるなら今しかないと青子はそう思った。
ここでこの手を離したら、きっと後悔するだろうともこの時思った。
「なーに情けない顔してんだよ」
緑間は、いつものような陽気な笑顔を浮かべた。そして彼の手が、するりと青子の手から離れていく。そう、まるで、掴みどころのない赤色のように。
青子にはわかっていた。本当は、緑間が何も振り切れてなどいないことを。
誰よりも赤崎のことを大切に思っていたのは、青子ではなく、彼の方であったのだから。
「バーカ。冗談に決まってんだろ、冗談。本気にすんなよ」
緑間の笑顔は、どこか乾いていた。何かを決めたような、そしてそれと同時に何かを諦めたような、そんな笑い方だった。
「あ、まつり先輩!あおこ先輩!」
玄関に着くと、同じく六時間目を早退した後輩達がぶんぶんと手を振ってきた。どうやら待っていたらしい。
「なんだ、先に帰っててもよかったんだぜ?」
「あ、いえ…少しお話があったので…あれ、青子さん?どうかしたんですか?」
様子のおかしい青子に気づいた響が首を傾げる。だが、彼女はふるふると首を振るだけで口を開こうとはしなかった。響は、おそらく事情を知っているであろう緑間の方に目を向けたが、こちらは「あー…」と言いにくそうに頭をかくだけである。
「ま、気にすんな。で、話ってのはなんだ?」
「どっちかって言うと、祭さんより静さんに話しがあったりするんですけどね…」
響は緑間のすぐ隣りにいる赤崎に目を向けた。どこかやるせない表情を浮かべている赤崎に向かって、響は心の中で二、三度深呼吸を繰り返し、話を切り出す。
「しばらく静さんの家を使わせてほしいんです」
「…は?」
間抜けな声を上げたのは緑間だった。だが、彼だけではなく青子も、そして赤崎本人も少なからず驚いてはいるようで、目を見開いている。まさかそんな話を持ち出されるとは、思っていなかったようだ。
「な…なんでだよ。使うって、何を」
「理由は言えません。使うのは静さんの家全部です。それと、多分色々…準備が終わるまでは、僕ら三人、静さんの家に泊まることになると思います」
響は、言いにくそうに口ごもりながらそう言った。緑間の方は依然として話が理解できていないのか、目を点にしている。
だが、今ここで響達が理解を求めるべきは緑間ではなく、家主である赤崎だけである。
響は、緑間に気取られぬよう注意しつつ、赤崎に向かって語りかけた。
『…ダメですか?』
『ダメっていうか…少し、驚いているだけかな。一つ聞きたいんだけど、それは僕の家じゃなきゃできないこと?』
緑間は知らないようだが、響と赤崎もテレパシーで交信することができる。勿論このテレパシーを、緑間に聞かれないようにすることも。どうやらこの力は、ある程度霊感の強い者ならば誰でも使えるもののようだ。
確認するような、そして探りを入れるような赤崎の物言いに、響は小さく頷く。
『はい。静さんの家じゃないとできません』
『そっか…』
じゃあ、いいよ。と赤崎が言った。鍵は祭が持っているはずだからそれを借りて、とも。響は、思いの他あっさりと承諾されたことに拍子抜けした。
本当にいいのかと確認しようか迷ったが、それ以上話すことは何もないという赤崎の雰囲気を感じ取り、一言「ありがとうございます」と言うだけにしておいた。
その“ありがとう”に対し、優がほっと安堵の息を吐く。
「話の折はついたみたいだな」
「ああ、良いって言ってくれた。断られたらどうしようかと思ってたから、安心したよ」
響も胸を撫で下ろした。それと同時に、「よかったー」と琴乃が安心したように言う。
なんせ赤崎の家を借りる、ということを前提として立てられた
許可を得た以上、あとは行動に移るのみである。時間は無限ではないし、この計画には制限時間が設けられているのだから、もたもた時間を食いつぶしている暇はない。その為にも、早々に緑間から鍵を受け取らなくては。
響が、ずいっと緑間に向かって手を差し出す。
「静さんが、祭さんから鍵をもらえと言っていました。だから、ください」
「俺かよ。いや、ちょっと待て。お前ら何を企んでる?あいつの家を使って、何するつもりだ?」
こうなるだろうと予想はしていた。たとえ赤崎の説得に成功したとしても、おそらくもっと高い壁―つまりは緑間が、この計画の前に立ちはだかるだろうことを、響も、そして琴乃と優も覚悟していた。
だから、緑間の無意識の妨害も予想の範囲内であり、焦る必要も驚く必要もない。
ここを乗り切ってしまえば、あとは順当にことが進んでいくはずである。三人にとっては、ここが正念場だった。
「理由は、言えません」
「アホ、言えませんがまかり通るか。悪いが俺が納得できる理由じゃないなら、この鍵は渡せない。たとえ静がいいって言ったとしてもな」
ちなみに今静ん家の鍵を持ってんのは俺だけだからな、と緑間が付け加えた。これも予想の範疇だ。
「時期が来ればいずれわかります。だから今は、僕らを信じてください。どうしても理由は言えないんです」
「…祭、響に鍵を渡して」
そんな二人の間に割って入ったのは、意外にも赤崎であった。しかも彼は、幼なじみではなく後輩である響達の味方につくようだ。
納得いくかよ、と面白くなさそうな顔でそう吐き捨てる緑間に、静かな声で赤崎が続けた。
「僕がいいって言ったんだ。それを祭にとやかく言われる筋合いは、ない」
正論である赤崎の言葉に、ちっと緑間が舌打ちをする。そして、至極不機嫌極まりない表情で、響に向って鍵を投げ渡した。唐突なその行為に反応が遅れ、響は危うく鍵を取り損ねそうになったが、ぎりぎりのところでキャッチに成功する。
かなり剣呑な雰囲気になってしまったが、これもまた響にとっては予想範囲内である。できればこうはならないでほしいと思っていたが、とりあえず最低限無事に赤崎の家へ入る許可を得ることができたので、良しとしよう。
ぎゅっと、受け取った鍵を握り締める。
「これも身勝手なお願いですが…僕らが良いと言うまで、その時が来るまでは…静さんの家には極力近づかないで下さい」
「理由は」
「…すみません」
はー…、と緑間が深い溜息をついて、がしがしと明るい髪をかいた。怒りも呆れも通り越した、どうでもいいという表現がぴったりな表情を浮かべている。
「もう知らん。勝手にしてくれ。なんかどうでも良くなった。静の家に近づかなきゃいいんだろ、わかったよ。約束する」
それ以上話すつもりはないようで、一足先に下足箱からスニーカーを取り出した緑間が、「じゃあな」と一言残してその場を去る。いつもなら、一緒に帰っていたはずだった。
追いかけるように青子も靴を履き替えたが、それを琴乃が引き止めた。彼女は引き止められたことに驚いて、一瞬目を見開く。
「琴乃?」
「…私達だけじゃ、きっと力不足です。だから、あおこ先輩の助けが必要になると思います…しずか先輩の幼なじみである、あおこ先輩の力が」
「え?」
青子の表情に、戸惑いの気色が濃くなる。おそらく“しずか”という単語に反応したのだろう。どうやら後輩がこれからやろうとしている事に、自分達が関わっているとは思っていなかったようだ。
「どういうこと?静が関係しているの…?」
響達三人は揃って頷いたものの、関係していないと言えば関係していないと言えなくもなかった。
この度の計画について、主役とも言える赤崎静本人は何も知らない。計画自体には彼は全く関係ないからだ。赤崎が最も深く関わってくるのは、計画の最終段階…というか、計画を実行したその時である。
「静さんに聞かれるわけにはいかなかったんです。だから、あの場ではどうしても言えなかった」
「それに今、静先輩は祭先輩から離れることができません…申し訳ないですが、祭先輩にも、その時が来るまでは何も伝えることができないんです」
響と優は、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
緑間が霊媒体質などではなく、響同様にただ視えるだけであったなら、この計画のことをきちんと説明し、できることなら手助けをしてもらいたかった。本当にそう思っている。緑間を怒らせるつもりなどなかった。怒らせたかったわけでも、なかったのだ。
「あなた達…一体何をしようとしているのよ」
三人は黙りこむ。
どうしても、今日計画について知られるわけにはいかないのだ。自分達なりに赤崎の家と、赤崎のことについて見極める時間が、三人には必要だった。
だが、今彼女に計画のことを伝えてしまえば、その時間が激減してしまうことは目に見えていた。最悪無くなってしまう可能性すらある。おそらく青子は、赤崎のことについて詮索しようとする後輩達を、快くは思わないだろうから。
「今はまだ言えません」
「私の助けが必要になるって言ったじゃない。私は、何も知らされないまま、わけのわからないことに力を貸さなきゃいけないの」
青子の声音が若干厳しいものへと変わる。そういう意味ではありません、と響は弁解を試みた。
「今週中には必ず、僕達がこれからやろうとしていることについて説明すると約束します。だからそれまで、待っていてもらえませんか」
彼女は何も言わなかった。琴乃の手を振り解いて、逃げるように緑間のあとを追って行った。
走り去っていった青子の背中を遠目で見つつ、響は深く息を吐く。
「…まあ、こうなるだろうとは思っていたけど」
「やっぱり怒ったかな、まつり先輩とあおこ先輩」
肩を落とす琴乃の頭を、宥めるようにぽんぽんと響は撫でた。
「大丈夫だよ。あれは多分、怒りとは少し違うから。まあ、不快な思いをさせたことに違いはないだろうけど」
依然として浮かない顔をする琴乃に、響は苦笑いをする。
あまり口には出さないものの、琴乃は本当にあの三人のことが大好きだった。凛々垣中最凶の双子と言われたあの頃の彼女からは想像もできないだろうが、心の底から尊敬していたし、慕ってもいた。過去形ではなく、現在進行形でだ。
琴乃がここまで他人に心を許し、好意を示すことはほとんどない。それは響もよく知っていたし、今まで唯一心を開いた人物がいるとすれば、それはおそらく優だけだ。
だから琴乃が肩を落として落ち込む気持ちが、響にはよくわかる。彼もまた、三人のことが大好きだから。できることなら怒らせたくはなかったし、穏便にことを済ませたかったという気持ちは強い。
結果的に、それは叶わぬ願いとなってしまったわけだが。
「…すまない。俺があんな提案をしたばっかりに…」
謝ったのは、今回この計画を立案した優である。申し訳なさそうに眉を下げた彼を見て、二人は勢いよく首を横に振った。一瞬の迷いもなく優の謝罪を否定する。
「優が謝る必要なんてないよ!謝るようなこと、一つもしてないんだから!」
「琴乃の言う通りだ。ちゃんと決めて、僕らはこの計画に賛成したんだから」
そう、これは優が切り出したことで、なんの変哲もない、誰だって思いつくような提案だった。そして響と琴乃は、一も二もなくそれに賛成し、現状に至る。
赤崎が成仏できていない現状を考えれば、それはあまり空気を読んだ提案ではないかもしれない。
だが、これはきっかけになるかもしれないと響は考えたのだ。なんのきっかけになるのかは、言わなくてもわかるだろう。
とにかく、この計画はきっと意味のあるものになる。赤崎が成仏するためのきっかけになると、響は確信していた。だから優が謝る必要はないのだ。
「だが…俺のせいで」
「優のせいじゃない。誰のせいでもないんだ…まあ、強いて言うなら、あんな日に死んだ静さんのせい、ってことになるんだろうけど」
響は、その手に残された重みをぎゅっと握り締める。
「時間はない。さあ、行こう。静さんの家に」
石は転がり始めた。それは緩やかなスピードで坂を転がり、次第にその速度を増していく。
石の行く先は終わりの始まり。
六時間目が終わるチャイムが鳴った。
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