山茶花坂

白鴉 煙

山茶花坂

 タクシーの中はちょうどよい暖かさでウトウトしていたら、運転手に声をかけられた。

 「次はどちらに曲がればよろしいですか?」

窓の外を見ると、ちょうど実家の前を通り過ぎたところだった。私は慌てて答えた。

 「あ、ここで降ります。」

小さい頃、今はもういない実家で飼っていた犬を連れて散歩がてらに通った近所の小さな公園。お小遣い稼ぎにと、ちょっとの間だけバイトさせてもらった寂れたスーパーマーケット。あ、これはあと一年もたずに潰れるなぁと思っていたのに、未だに営業中のコンビニ。数年ぶりに戻ってきた地元の風景は少しも変ってはいなかった。つい数か月前まで高層ビルと人とゴミで溢れかえった大都会のど真ん中にあるオフィスで働いていた私は、特にド田舎でもなく、ある程度繁栄していてほどよい人数が暮らしている、のほほんとした雰囲気のこの街に逃げるようにして戻ってきた。

 それこそ高校生のときは、あらゆる物が無駄なほど溢れかえっている都会での暮らしに憧れ、大学にも進学せずこの街を離れた。特に将来の夢を持たず、適当にバイトして男と遊んで過ごした。今考えれば、両親はよく何も言わず家を出ることを許可してくれたと思う。感謝の念しかない。数人の男性と恋愛をし、やっと運命だと思える人と巡り合えて、これからは遊んでばかりいないで将来のことも考えてお金も少しづつ貯めながら生きていこう、と考えていた矢先だった。これまでの運が尽きたのか、生活が一気に暗転した。バイトから社員登用にしてもらって三か月経たないうちに会社が倒産し、まず職を失った。貯金も少なく、落ち込んでいる場合ではなかったのですぐに職安に通いはじめたが、資格を何一つ持っていない私を正社員として雇ってくれる会社がなかなか見つからず途方にくれる毎日を過ごしていた。こんなときにかぎって不幸は続けてやってくる。なんと結婚まで約束していた彼氏の浮気現場を偶然目撃してしまったのだ。当然私は憤慨しその場で人目も気にせず我を忘れて彼氏に掴みかかり問い詰めたら逆ギレされ、ついには「お前みたいな大して美人でもない金もない身体も薄っぺらい女はいらねぇんだよ!」と、暴言を吐かれ、彼の隣に寄り添うグラマラスな身体つきの彼女に見下すように微笑され、そして私はまるでゴミのように簡単に捨てられてしまった。彼にとって所詮私はそれだけの価値の女だったのだ。

 もう何もかもがどうでもよくなった。仕事も見つからず焦っていたときに愛していた人に裏切られ完全に心が崩壊してしまった私は、部屋に閉じこもって酒を煽りトイレで吐きを繰り返した。人で溢れかえる大都会の片隅で私はひとりぼっちで泣いていた。もう生きているのも嫌だ…そうだ、死んだら楽になるじゃん…あ、リストカットでもしてみようかな…痛いのかな…なんてことを考え始めてしまっていたときのことだった。彼氏と別れ、もう滅多に鳴ることのなくなったスマホに一本の電話がかかってきた。電話に出ると、かわいらしい女性の声が聴こえてきた。

 「優香里ゆかり、元気?私だよ、私。わかる?あ、これ詐欺の電話じゃないよー。」

その無邪気な声を聴いた瞬間、私は左手に持っていたカッターナイフを床に投げ捨て我に返った。

 「…あんず?杏だよね!わぁ、杏だ…。」

それは、高校時代ずっと苦楽を共にした杏からだった。もう電話がかかってきたことが嬉しくて嬉しくて、私はそのまま泣いてしまった。

 「なんで泣いてんの?どしたの?」

私は暫く泣きじゃくってから彼女にすべてを話した。

 「そっか…だったらこっち戻ってきたらいいじゃん!戻ってきなよ、優香里!待ってるよ!」

この言葉にどれだけ勇気づけられたことだろうか。そうだ、私には地元がある。両親もいる。友達もいる。帰りを待ってくれている人がいるではないか。もうこの場所ににとどまる理由がひとつもなかった私は、やる気を取り戻し数日間で荷物をまとめ部屋を引き払い、旅行鞄一つだけを持って電車に飛び乗った。


 玄関のドアは鍵がかかっていた。私は実家の鍵を持っていなかったので、仕方なくインターホンを鳴らした。しばらくして、家の中から母の声がした。

 「はい、どちらさま?」

 「…どちらさまじゃないよ。私だよ。寒いから鍵開けてよー。」

鍵を開けて出てきた母もまったく変わっていなかった。見慣れた黄色のセーター。いつものジーンズ。いつもの巻髪。何も変わらない、優しい笑顔。

 「あら…優香里、帰ってくるの今日だったっけ?」

 「そうだよ、この前電話で言ったばっかじゃん。」

 「明日かと思ってたわ。それにしてもあんた、数年前と何にも変わらないわねぇ。」

 「それはこっちのセリフだよ。そのセーター、いつまで着てるのよ。もうボロボロじゃん。」

 「いいのいいの、これ大好きなんだから。家の中で着るだけだしね。それはそうと、別に急ぎの用事もないんでしょ?お茶でも飲む?」

そう言って、母はリビングのほうへ歩いていった。

 二人で温かいほうじ茶を飲みながら、いろんな話をした。気をつかっているのか、私が急に地元に帰ってきた理由については一切聞いてこなかったが、母は話の随所で同じ言葉を何回も言った。

 「あなたが帰ってきてくれて本当に嬉しいわ。」

私は、今までの生き方を猛省した。自分勝手に地元を飛び出したこと。何も考えず生きていたこと。そして、死のうと考えていたことを。

 「お父さんは夜にならないと帰ってこないから、ちょっと散歩でもしてきたら?」

 「そうだね、ちょっと行きたい場所があるんだ。」

 「あら?どこに?」

 「…ちょっとね、山茶花坂さざんかざかに。」

山茶花坂、それは私と杏の出会った場所だった。


 中学の卒業式も無事に終わり、毎日家のコタツの中でダラダラしていた。そんな私を見て父が「そんなんじゃダメだ!少しは動け!」と怒鳴りつけ、私は嫌々早起きをして毎朝町内をランニング(むしろウォーキング)することになった。いつも通るコースは決まっていてだいたい町内をぐるっと一周するような感じだったのだが、家に辿り着くには難所を通らなければいけなかった。それが山茶花坂だった。サザンカの垣根が上から下まで続く車の通れない坂道で、中腹の開けた場所からは街の風景を一望できた。それほど急な坂道ではないのだが、運動が大の苦手な私には十分難所だった。

 その日も私はいつものように「走ってくる」と言って家を出て、角を曲がって家が見えなくなったところで走るのをやめ歩きだした。まだ明け方でシーンと静まり返っている町内を抜け、あくびをしながら山茶花坂を登った。あまりにも早く帰ると父に怒られるだけなので、いつものように坂の途中のベンチに座ってボーっと街の景色を眺めて時間を潰していたら、急に背後から声をかけられた。

 「何、してるの?」

まさかこんな朝早くに誰とも出会わないだろうと思い込んでいた私は、思わず変な声を出してベンチから身体をのけぞらせた。振り返ると、そこに立っていたのは私と同じぐらいの歳の女の子だった。

 「…いや、えっと、時間潰し…。」

その子は不思議そうな顔をして言った。

 「時間潰し?なんで?こんな朝から?」

 「まぁいろいろ理由があって。あなたこそ何してるの?」

 「私?サザンカを見に来ただけ。」

 「サザンカ?あの花?」

 「そう、綺麗だよね、サザンカ。」

そう言って、垣根のほうへ歩いていった。

 「何?花が好きなの?」

 「うん、将来お花屋さんになるんだ。」

最初その言葉を聞いたとき、幼稚園児かよ、と思った。心の中で少しだけ馬鹿にしながら言った。

 「へぇーそうなんだ。なれるといいね。あなた、下の中学?」

 「そうだよ。春から上の町の高校に行くんだ。」

そこは私も進学する予定の高校だった。

 「あ、私もそこに行くよ。なんだ同級生か。」

 「えー、偶然だね!なんか凄いね。よろしく、私は杏っていうの。」

ハイテンションで喜ぶ彼女とは対照的に、私は特に笑顔もなく冷めた感じで言った。

 「私は優香里。」

 高校に入学した初日、教室で私の姿をみつけた彼女は笑顔で駆け寄ってきた。

 「同じクラスなんだね。よかった!優香里ちゃんと同じで。」

外見が真面目か不真面目かで二分割するとしたら、私は確実に不真面目なほうに分別されるので、真面目なタイプの彼女とは友達になることはないだろうと思っていた。

 「…そうだね。それより、ちゃん付けで呼ぶのはやめてくれる?恥ずかしいから。」

 「じゃあ優香里で!」

私は彼女についていける自信がなかった。いつもどんなときも笑顔で、誰にでも優しくて、何事にも真剣に取り組み、みんなから愛される。そんな彼女を、私は心のどこかで羨ましく思っていたのかもしれない。

 私は彼女とは逆の方向に進んだ。勉強もろくにせず遊んでばかりで、他の学校の同じようなタイプの人達と付き合いだした。先生に怒られるのは毎日で、同級生は私と関わることをなるべく避けた。そんな中、彼女だけは違った。私をまったく恐れず、笑顔で話しかけてきてくれた。最初はうざがって冷たく接していたが、彼女はそれに動じることなく話しかけてきた。そして、いつのまにか私も心を開くようになった。同級生や教師達は、茶髪でピアスをつけた明らかに不良な身なりの私と勉強もできて生徒会長も務める生徒の見本のような彼女が楽しそうに会話する姿を不思議そうに見つめていた。

 学校にいるときは私の傍にはずっと彼女がいた。彼女はいろんなことを教えてくれた。勉強もそうだし、芸能人のこと、漫画のこと、難しい本のこと、そして大好きな花のことも。おかげでまったく興味がなかったのに大体の花の名前を覚えてしまった。その代わりといってはなんだが、私は彼女に煙草やお酒や男やSEXなんかを教えた。生徒会長の彼女も実はちょっとだけそういうことに興味があったらしく、夜中に二人で町はずれの公園でチューハイを飲みながら語りあったこともあった。先輩のバイクの後ろに乗ってるときよりも、ホテルで男と寝てるときよりも、話題が全然合わない彼女と一緒にいるときのほうが楽しかった。何より彼女のほんわかした笑顔が堪らなく好きだった。特に「真面目になりなよ」なんて言ってくるわけでもなかったし、私も「もっと遊びなよ」なんて言わなかった。

 高校も無事卒業でき、私がこの街を離れる前の日、彼女がどうしても山茶花坂に行きたいと言い出したのでついていった。私は高校に入学してからはまったく来なくなっていた。彼女はベンチに積もった雪を払いのけながら言った。

 「…ここだったね、出会ったの。」

いつも明るい彼女が急にしみじみと話し出したのでつい笑ってしまった。

 「どしたの、なんかあった?」

 「ううん、別に。なんか懐かしいなぁって。あの朝、優香里に出会ってなかったら、私は絶対に優香里と話すことなんてなかった。」

私はベンチに座って言った。

 「…だろうね。よくこんな私に話しかけ続けてくれたと思うよ。」

 「優香里が、好きだったから。」

彼女は顔を赤らめて言った。

 「え?マジで?それって、恋してたってこと?」

 「半々かな。もしかして出会ったあの朝、一目惚れしたかも。なんか、この人かっこいいって。」

 「うわぁ…女に告白されたよ。まぁ杏なら許す!」

 「ほんと?ありがと。まぁけどさ、ずっと友達でいてよ。また一緒にお酒飲もうね。なんか離れ離れになっちゃうの嫌だなぁ…。」

私は彼女の頭を優しく撫でた。

 「あんたは夢があるんでしょ。頑張りなよ。私はちょっと離れた街に行くけど、また戻ってくるからさ。」

彼女は少し間を置いて、呟くように言った。

 「困難に打ちかつ、か。」

 「え?何が?」

 「サザンカの花言葉。自分に負けそうになったとき、この坂に来てたんだ。私、絶対花屋になるんだ。」


 久々に来た山茶花坂は、ところどころアスファルトが補修されていた。息切れしながら中腹まで登って懐かしのベンチに座った。そして、もうこの場所で会うことのない彼女を想った。

 彼女は、すでにこの世にはいない。私が向こうで暮らし始めて数か月後、彼女は事故に遭い亡くなった。同級生とほぼかかわりのなかった私には彼女が死んだいう情報は回ってこなかった。とあるSNSサイトで偶然知ったときにはすでに葬式も終わっていた。もう彼女がこの世にいないという現実はなかなか受け止められずにいた。だからあのとき、彼女から電話がかかってきたときは恐いとは思わなかった。むしろ本当に嬉しかった。幽霊でもいい、なんでもいいからもう一度彼女と話がしたいと思っていたから。きっとカッターナイフを片手に持って今にも自殺しそうな私を止めに電話してきてくれたのだろう。「私のところに来ちゃダメだ」って言いたかったのだろう。優しい彼女だから、怒らなかったんだろう。

 「…戻ってきたよ、杏。私、困難に打ちかつよ。ありがと、助けてくれて。ちゃんと見守っててよ。」

そう呟いて、コンビニで買ったチューハイを開けて飲んだ。もちろん彼女のぶんも買ってきて隣に置いた。

 いつのまにか泣いていた私は、涙を拭いて立ち上がった。そしてサザンカが可憐に咲き誇る坂道を、ゆっくりと歩き出した。

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山茶花坂 白鴉 煙 @sirokarasu

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