3 足音

 ズザッ――


 静かに目を閉じて耳を澄ましていた乙黒は、その音に目を見開いた。

 確認し合うように目の前の霧島へと視線を送る。霧島も乙黒へと視線を送っていた。


「この音だな」

「おそらく、ですね」


 乙黒と霧島は音を掻き消してしまわないよう囁きながら確認し合う。

 杏子は先ほど眠ったばかりとは思わないほど、ぐっすりと深い眠りに落ちている。

   

 ズザッ――ズザ――


 足裏が床に擦られ摺足で這うようにも聞こえる。

 確かに人が歩くようなその音は、杏子のこの部屋の真下から聞こえてきた。

 そして、ノブが捻られ真下の部屋のドアが開けられる篭った音が床越しに響いてきた。

 確かに誰かがいるのである。この真下の部屋に。


 ズザッ――ズザ――

 ズザッ――


 確かに耳に聞こえる、その篭った音は徐々に大きさを増し鮮明さを尖らせている。

 つまり、その足音は階段を上り、この2階へと上がってきているのだ。

 乙黒の額から静かに一滴の汗が垂れていった。


「間違いないようだな」


 乙黒は真剣な表情をしたまま、口だけを釣り上げて笑った。

 そして、その音は這い上る音を止め、平面状の廊下を歩く音へと変わった。2階へ到着したであろう、その足音はゆっくりとこの部屋まで近づいてきている。徐々にクリアな足音へと変わる。


 ズザッ――ズザ――

 ズザッ――


 その足音は乙黒たちがいるこの部屋の前で止まった。そして沈黙が流れた。


 ガチャッ――


 刹那。

 その足音の主は杏子の部屋のドアノブを掴んだ。ノブは徐々に捻られていく。


「!」


 乙黒は霧島と顔を見合わせ、凍りついたように黙って未だ開かれないそのドアの先を見つめていた。

 ドアノブは不気味な反時計回りを描きながら捻られていく。


「きゃあああああああああああああああ!」


 そのときベッドで寝ていた杏子が途端に悲鳴を上げた。そのまま体中が震え始め、毛布に包まった。


「高崎さん! 落ち着いて! 高崎さん!」


 霧島は慌ててそんな杏子を宥めようとするが、恐怖に溺れた杏子には霧島の声など届いてはいないようだった。


「いやあ! いや! やめて! お願い! 来ないで! お姉ちゃん!」

「高崎さん、大丈夫だから! 落ち着いて!」


 乙黒はドアの先を静かに睨みつけていた。

 そして、冷徹な声でドアの先の主へと告げた。


「さあ、開けろよ。杏子さんに会いたいだろ」


 乙黒のその声に反応するようにドアはゆっくりと静かに開く。

 徐々に広がりを見せる隙間のその先。

 暗い闇のなか、そこに佇む人影が姿を露わにした。



* * * * *



「起きたか」


 翌朝、気絶したように眠っていた杏子は静かに目を覚ました。


「あ、あの……えっと……」


 杏子は自らのアパートの202号室内を見渡しながら答えた。

 そこにはいつもとなんら変わり映えのしない杏子の殺風景な202号室が佇んでいた。


「安心しろ。大丈夫だ」


 そう乙黒は優しい笑みを浮かべて言った。


「昨日の夜……足音が……」

「ああ。確かにアンタの部屋にやって来たね。でも何もされてないし、何も起きてないよ」


 乙黒の背後に隠れ霧島は壁に凭れていた。どうやら寝不足気味のようで乙黒も霧島も薄く隈を作っていた。


「お、お姉ちゃんでしたか……? 足音の正体ってお姉ちゃんでしたか……?」


 壁から一歩離れ、杏子の顔色を窺いながら霧島は尋ねた。


「本当に覚えてないんだね……昨夜のこと。悲鳴を上げたのも覚えてない?」

「ご、ごめんなさい……。でも足音とドアが開く音は覚えてる……。凄く怖くて、私……」


 一呼吸置き、乙黒はその場に座った。

 大きなあくびを咬まし、目の前で毛布に包まる杏子の姿を眺めた。


「まあ……安心して。今夜で全部を解き明かす。ただし、杏子さんにその覚悟があるならだけどな」

「……え」

「真実を知る勇気があるんだよね?」


 杏子は目を泳がせながら、胸を押さえ俯いた。


「もう足音は聞こえなくなりますか……?」

「……さあね。それはわからない。ただ会えるよ、足音の主に」


 虚ろな表情で怯える少女を霧島は気に掛け、優しく声を掛けた。


「大丈夫?」

「は、はい……」

「でも、もう後は高崎さんの勇気だけだ。そしたら足音の正体がわかるよ」


 杏子は手に掴んだ柚子との双子写真を撫でるように触り、乙黒を見つめ、ゆっくりと頷いた。



* * * * *



 再び乙黒と霧島は杏子の部屋に宿泊した。寝姿の杏子は毛布に包まり、乙黒と霧島はドアの前に立っていた。

 「足音の主を突き止める」そう杏子に約束した。それを達成するために杏子は安心して眠りに入らねばならなかった。

 静かな杏子の寝息が漏れてくる様子を見るに、眠りに落ちたようだ。恐怖に怯えながら眠るのも、気分のいいものではないだろう。

 しかし、そんな杏子はしばらくすると、まるで気絶しているかのように眠っていた。

 そして今夜、この部屋に足音の主は現れる。

 時刻は午前3時へと向かおうとしていた。

 ヒーターの暖風もないこの部屋はいつも以上に刺すような冷たさが肌を刺激していた。

 そんななか乙黒と霧島は眠気を必死に堪えながら、凍てつく沈黙の先へと耳を傾けていた。

 ゆっくりと時間は流れている。


 ズザッ――


「きたか」


 足音が鳴り響いた。それは例の通り下から聞こえてきた。


 ズザ――ズザッ――

 ズザ――


 乙黒は音へと耳を澄まし、目を閉じた。感覚が研ぎ澄まされていく。

 頭の中は何者かが歩くその音だけに埋め尽くされていく。


 ズザ――


 その音は再び杏子の部屋の前で立ち止まった。

 そのときである。


「! い、いや!」


 杏子が急に目を覚ましうろたえ始めた。


「やめて! いやだ! やめて! ごめんなさい! お姉ちゃん!」


 霧島が杏子を落ち着かせに近づく。

 そんな霧島さえも払うほど、杏子は怯えていた。


「おい! 高崎杏子!」


 乙黒は杏子の腕に思い切り掴みかかった。そんな乙黒の怒声に杏子は動きを止め、我に帰ったように乙黒の姿を見つめた。


「覚悟があるんだろ。だったら動揺するな。気をしっかり持て」


 ガチャ――


 足音の主がドアノブへと手を掛けた。

 杏子はひどく怯え、震えている。しかし、その目はドアの先だけを捉え続けていた。


「目を背けるな。見ろ。これがアンタの求めていた答えだ」


 ゆっくりとドアが軋む音を立てながら開かれる。

 暗い闇の先から冷え切った空気が部屋の中へと流れてくる。

 暗いドアの先に立ち尽くす足音の主である人影があった。


 杏子の母、高崎圭子の姿が。

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