2 恐怖の依頼

「夜、私が眠りに入ったときくらいですかね。人がゆっくり歩くような『ズザッ、ズザ』って、足音が近づいてくるんです」


 高崎杏子タカサキアンズは乙黒と霧島を前に震える声で話し始めた。

 乙黒と霧島は依頼主である杏子が現在一人暮らしをしているアパートへとやって来ていた。

 杏子は霧島と同じ大学の同級生である。今はこの都内アパートで一人暮らしをしている。

 このアパートは古惚けた2階建てで、低家賃が売りとでもいうような薄壁住まいである。

 杏子はそんなアパートの2階202号室に住んでいた。


「ふーん。女子のわりに殺風景な部屋だねえ」

「いや乙黒さん。アンタが言えた口じゃないです」


 乙黒と霧島は杏子の部屋を見渡しながら言った。


「それで高崎杏子さん、その足音っていうのはどこから?」

「私のちょうど……下の階です」


 杏子は怯えた表情で答えた。


「つまりこの下の部屋……102号室から近づいてくるってことですか?」

「はい」


 乙黒は蹲り、床をノックするように叩いてみた。

 杏子はそんな乙黒を見てずっと震えるように怖がっている。


「よくわかりましたね。音の出所がちょうど下の部屋からって」

「このアパート古くて壁も薄いんです。だから外の音とかよく聞こえてきて。最初は住人さんが帰ってきた音かなって思ってたんですけど。その足音が徐々に私の部屋の前まで近づいてくるのがわかって……」


 霧島はそんな同級生の姿を見て、何か考え込むように俯いた。

 そんな霧島を一瞥した後に、杏子は胸に手を当てながら呟いた。


「もしかしたら102号室の住人が私を怖がらせようとしているとか……まさかストーカー……?」

「いやおそらく違いますね、高崎さん」


 霧島はすぐに返答した。


「残念ですけど。102号室つまりちょうど下階の部屋には、誰も住んでいないんです」

「そ、そんな!」

「空き部屋ですよ」


 霧島は先に大家を通して調査していた結果を杏子に伝えた。


「そ、そんな……じゃあ、ど、どうして」


 乙黒は内心高揚した感情を募らせながら、不敵な笑みを浮かべた。


「くくく。その足音は人間のものじゃないかもしれないなァ」

「高崎さんはその足音の正体を見たことはないんですか?」


 霧島の質問を聞き、杏子は自らを抱くようにして怯え始めた。そして、首を小さく横に振った。


「一度だけ玄関のドアが開いたことがありました……でも怖くて、いつの間にか寝ていたのか……覚えていないんです」

「……へえ。一度だけ、ねえ」

「ちゃんと寝るときは戸締りをしっかりしているはずなのに。玄関のドアが開けられたんです!」


 霧島は玄関のドアに近づきノブに手を掛けてみた。どうやら普通のドアのようである。


「も、もしもそのまま足音が私の部屋まで入ってきたら……私、どうなるんでしょうか。し、死んだりしませんよね」

「……杏子さん」

「私、怖くて……怖くて」


 乙黒は霧島と入れ違いに玄関のドアへ近づいた。


「ドアが開けられたのは本当に一度だけか?」

「……は、はい」

「……そうか」


 ゆっくりとドアから離れ、乙黒は大きく背伸びをした。


「んじゃあ調査のため今日はアンタの部屋に一泊させてもらうけど、いいよな?」


 乙黒は平然とした調子で尋ねた。


「え!」


 そんな乙黒を杏子は目を丸くして目つめた。


「ったりまえだろ。泊まってみなきゃ、判断できねえだろ。まあでもその前に……」


 乙黒は勢い良く杏子を指差した。


「高崎杏子さん! アンタの実家に用がある!」



* * * * *



 高崎杏子の実家は杏子の一人暮らしアパートと同じく都内にある。

 それも歩いたとしても遠くないほどである。

 なんでも杏子の母・高崎圭子タカサキケイコの「娘に一人暮らしを経験させたい」という願望と、杏子自身の「一人暮らしをしたい」という希望とが一致したからだそうだ。

 杏子が乙黒と霧島を連れてやってきた高崎家。

 かなりの資金を積んだであろう大層な一軒家住宅、最早、豪邸と呼んでしまっても過言ではない。

 金の匂いに目を輝かせ、高価な代物が沢山飾られてある応接間を見渡す乙黒を余所目に、霧島は杏子によって紹介された。


「同じ大学の霧島響哉君」

「こんばんは。夜分遅くにすみません」


 高崎圭子は口元を包むように隠しながら応じた。


「あっらー。杏子ったら……こんなに素敵な彼氏さんをー」

「ちょっとお母さん! そんなんじゃないって!」


 はぐらかすようにする杏子は続いて遅れてやってきた乙黒を紹介した。


「今回依頼した探偵の乙黒リツカさん」

「ういーっす。探偵してまーす。乙黒リツカでーっす。趣味は豪邸巡り! 座右の銘は近所迷惑でーす」

「あ……どうもこんにちは。杏子の母の……」

「早速ですがお母さん!」


 圭子の返答待たずに、乙黒は咄嗟に人差し指を振り翳した。


「! は、はい?」

「杏子さんの周りで恨みを買って自殺を図った人間などは居な……ぶっふあっ!」


 乙黒の頭は霧島によって思い切り叩かれた。

 そのまま蹲り乙黒はもがき苦しむ。


「霧島て、てめえ……ゆとり大学生、加減知らずか……」

「乙黒さん、普通に失礼です」


 圭子は顔を伏せた。

 手前で握られた圭子の拳は静かに震えているようだった。そんな圭子の様子を見た杏子は自嘲するような笑みを浮かべ言った。


「強いて言えば私のお姉ちゃん……かな」

「! ちょっと杏子!」

「いいの、お母さん。私が依頼したんだから、ちゃんと真面目に答えないと」


 乙黒は真剣な表情になり立ち上がった。


「お姉ちゃん?」

「はい……。私には6年前に交通事故で亡くなった双子の姉がいたんです」


 虚ろな表情のまま圭子は、ソファーへと乙黒と霧島を勧めた。心地よい香りが漂う紅茶を運んできて差し出した。

 乙黒は静かに手を小さく胸の前で拝むようにして目を閉じた。そして、杏子へと尋ねた。


「それはお気の毒。でも別に恨むようなこととは関係なくね?」

「お姉ちゃんが事故に遭う前に私、お姉ちゃんと喧嘩して……本当に些細なことだったんです。でも……私」


 圭子は辛そうに話す杏子の姿を心配そうに見つめていた。


「私……お姉ちゃんなんて居なくなったほうがいいだなんて、酷いことを……」


 そのまま家を飛び出した杏子の姉・高崎柚子タカサキユズが、交差点でトラックに轢かれ還らぬ人となった、というものであった。

 杏子はそのことをずっと後悔し続けてきた。つまりある種の精神的外傷トラウマというわけである。

 乙黒はパチンと指を鳴らした。そのまま杏子を得意気な顔で指差す。


「ははあ~ん。ってことはその柚子さんは変わり果てた霊となり、アンタを殺すために夜な夜なアンタの部屋の前までやって来て――」


 霧島は再び思い切り乙黒の頭を叩いた。


「だぶふぉっ!」

「乙黒さん、いい加減にしてください。外道すぎます」


 目を涙で潤わせる杏子を優しく見つめ霧島は呟いた。


「大丈夫。お姉さんは絶対に杏子さんを恨んでなんかいませんよ」

「霧島……君……」


 乙黒はそんな杏子の様子を横目で睨み呟いた。


「まあでも、人の心の奥底なんてものはどんな年月費やしても理解なんてできやしねえよ」


 霧島や杏子、圭子はそんな乙黒へと目を向けた。


「恨んでいなかったとしても、杏子さんと共に居たいからこそ、自分と同じ世界へ引きずりこもうとしている、って可能性だってあり得る」


 霧島は何も口を挟むこともなく、乙黒の姿へと視線を漂わせていた。


「孤独と寂しさに人間は敵わないからな」


 そう呟く乙黒の表情はどこか切なそうに窺えた。


「兎も角。私と霧島は今日アンタの部屋で一泊させてもらう。勿論、杏子さんも一緒な」

「は、はい……って、えええ? き、霧島君もですか?」

「勿の論だろが」


 杏子はきょとんとする霧島の顔を眺め、頬を赤らめていた。


「は、はい……あのよろしくお願いします」

「おう。お願いされてんぞ、霧島。ちゃんとビシッと出せよ!」


 霧島は今日3発目の拳を乙黒へ向けた。


 そんな豪邸、高崎家から杏子のアパートへ戻る前、杏子は依然としてそのままにされてある自らと柚子の部屋を見るために2階へと上っていった。

 杏子と柚子の共同の一部屋は、冷め切った生活感が滲み出ていた。

 柚子の荷物は亡くなった6年前から一切整頓できていない。圭子も杏子も柚子の姿を現実から消すことができないでいた。

 そのまま杏子は机の上に置いてあった柚子と共に写る写真立てを手に掛けた。

 そこにはにこやかに笑い、幸せそうに写る双子姉妹の姿が映っていた。


「お姉ちゃん……」


 小さく呟き写真立てを自らの懐に忍ばせた。




 豪邸を後にした乙黒と霧島、杏子の3人は辺り一面暗黒に染まった道路を歩き、『足音の鳴る』一人暮らしアパートへと向かった。

 すっかり冬景色と粉雪の舞う凍てつく空は、沈黙を重ねて歩く3人を静かに見下しているように思えた。

 そして、見えてきた杏子のアパート202号室へと足を向け、入って行った。


「いやー、あの豪邸とは変わってやっぱり寂しい殺風景な部屋だねー!」


 乙黒は厚着のコートを脱ぐことも無く、身を震わせながら言った。


「すみません……」

「杏子さんさあ、酒とかあるー? あ、まだ未成年だっけ? それじゃあないか?」

「はい……すみません。ないです」

「途中にコンビニあったよねー。ちょっくら買って来てもいい?」


 乙黒は呆気羅漢とした笑みを浮かべていた。


「ちょっと乙黒さん、飲み会じゃないんですよ。あくまでも依頼の調査……」

「わぁーってるって! こうも寒くっちゃ頭も冴えないだろ」


 そんな乙黒は「すぐ戻る」と言って、体を震わせながら未だヒーターにの点火していない杏子の部屋を出て行った。


「まったく。しょうがない人だな」


 杏子は顔を赤らめ、手を擦り合わせ息を吐きかけていた。


「ご、ごめんね。霧島君。寒いでしょ」

「いや大丈夫だよ。もっと凍りつくような部屋を知ってるからね。このくらいなら慣れてる」


 マフラーに埋もれるように顔を伏せる霧島を眺めつつ、杏子は気に掛けていたことを口にした。


「霧島君って、乙黒さんと知り合ってから長いの?」


 霧島はふと顔を上げ、瞬きをして不思議そうに杏子の姿を見つめた。


「んー。1年? 2年? そのぐらいかな。元はと言えば乙黒さんと僕の父とが刑事仲間だったんだよね」

「へー乙黒さんって刑事さんなんだ」

「ま、今の乙黒さんは刑事も辞めて、あんな風にだらしない探偵業をしてるんだけどさ。僕は面白そうだから通いつめてるってだけだよ」


 杏子は静かに俯いて微笑んだ。

 寒さに頭を冷やしている霧島はただ一点を見つめ呆然としていた。


「ただ実力は確かだと思うよ。たぶん。おそらく。……基本的に冴えない人だけどね」

「でも霧島君が面白いって思うんなら、素敵な人なんだね。乙黒さん」

「……そうかな」


 そんな二人の凍てつき軋む部屋にヒーターの炎が燈された。


「なんか修学旅行みたいでわくわくしますね」


 杏子は温い空気が漂ってきそうなほど緩い笑みを浮かべていた。


「余裕だな、おい。足音の正体突き止めるんだろ?」


 床に缶ビールを転がし壁に凭れながら言う乙黒を鋭く霧島は刺すように睨む。


「酔っ払いが言うな」

「……でもいつもは一人なので……今日はなんだか心強いです」


 布団に寝転がるパジャマ姿の杏子は、大学生とは思えないほどの少女に見えた。

 普段から化粧気も薄く、幼い顔立ちの彼女は時折ひどく若く見えることがある。

 乙黒と霧島はフローリングで寝ることとなった。

 杏子は申し訳無さそうにしていたが、自分たちが無理矢理やって来たから、という霧島の主張によって、納得したようだった。

 テレビもない部屋で静かに話しこみながら、時間は深夜へと沈んでいった。

 豆電球1個を点けた部屋で、小さな寝息を立て杏子は既に眠ってしまっているようだった。

 乙黒は酔いも回り、すっかりできあがった体で、気持ちよく眠りに入ろうというところを何度も霧島に叩き起こされた。

 そして時計の針が午前2時を回る頃。


「『まだ』みたいですね……」

「ああ、そうだな。『まだ』、ね」


 暗黒漂う凍てついた空間に杏子の寝息だけが小さく音を刻んでいた。

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