1 乙黒探偵事務所

 ズザッ――ズザ――


 床と足裏が擦れ合うような音が壁越しに聞こえてくる。

 誰かがゆっくりと歩いているようなその足音が、また今日も彼女の部屋に響いてきた。


「い、いや……お願い来ないで……」


 一人暮らしの凍てつく空気が漂うこの部屋へと、ただただ繰り返される何者かの足音。

 彼女は蹲り、ベッドに身を伏せていることしかできなかった。


 ズザッ――ズザ――


 ゆっくり、ゆっくりとその音は徐々に大きくなってきている。

 確実に彼女の部屋へと近づいてきている。


 ズザッ――ズザ――

 ズザッ――


「い、いや……っ」


 その音は彼女の部屋の前で足を止めた。

 彼女は怯え、その先にいる足音の姿をドア越しにただ見つめた。


「お、お願い……許して……お姉ちゃん」


 ガチャッ――


 怯えている彼女を見透かしているかのように、ドアノブはゆっくりと捻られた。

 そして、静かにドアが開かれる。

 彼女を暗い世界へと誘い込もうとしているかのように。



* * * * *



「ぐおー。がごー。ぐおー。がごー」


 怪物のような寝息はその小さな建物の外までも響き渡ってきた。


「全く。堕落探偵のイビキ、外までまる聞こえだよ。勘弁して欲しいね」


 霧島響哉キリシマキョウヤは夕景のなか、オレンジ色に染まる建物を見上げながら呟いた。

 冬の凍えた空気へと、霧島は白い溜息を吐き出した。

 端整な顔立ちだが、どこか嫌味たらしい目付きをしており、そんな眼差しを眼鏡で隠している。そんな青年だった。


 建物の2階へ通じる階段の入り口には、小さな錆びれた看板が立て掛けられており、『乙黒探偵事務所』と書かれてあった。


「そんじゃま。あの寝道楽化け物を起こしますか」


 ぽつりと溢すように呟き、霧島は狭い階段を見据えた。掃除など行き渡っていない階段を慎重に上っていく。

 その先にあるガタがきている扉、そこに再び『乙黒探偵事務所』という段ボールで作られた看板がある。

 霧島はその鍵の掛かっていない扉をゆっくりと開けた。床とドアが擦れるキーッという音を鳴らしながら。


 雑誌や資料などが汚く散らかった事務所がそこに広がっていた。ビールやチューハイの空き缶が転がっている。

 その部屋は冬だというのにヒーターすら点いておらず、刺すように空気が凍り付いていた。


「う~、さっぶい」


 霧島は凍え、自らの腕を抱いた。そして、


「おーとーぐーろーさーん」


 と此処の主の名を呼んだ。

 この場所に上ってくるまでに怪物のイビキは治まっていた。


「起きてくださーい、乙黒さーん」


 霧島は溜息を吐き、事務所内脇に設置されているヒーターのスイッチを入れる。

 そのまま散らかった雑誌類を足で退かしながら、奥のデスクまで歩いていった。

 汚いデスクの下から再び、


「ぐおー。がごー」


 という怪物の鳴声が事務所内を震わす。


「はあ……。起きて下さい、乙黒さん」

「ぐおー。がごー」

「起きて下さい。名探偵・乙黒リツカさん」

「ぐおー。……むにゃむにゃ。がごー」

「起きて。自称24歳のぴちぴちモチモチ肌のナイスバディ霊媒探偵・乙黒リツカさん」

「があああー。ごおおおおー」

「起きろ、××歳の合法ババア」


 バンッッッ!

 という物凄い衝撃音とともにデスクの下から寝惚け眼の一人の女性が現れた。


「おいてめええええ霧島ァ! なんでそれを知っている!」


 黒髪を頭の後ろで結ったポニーテールに、雑なジャージ姿の女性が物凄い剣幕で霧島に向かってきた。


「あれ。起きてたんですか?」

「今起きたんだよ! つーかてめえ、せめて合法ロリにしやがれ! 合法ババアってもうただのお婆ちゃんじゃねえか! ああん!?」

「まあそれは兎も角。今日は僕の大学の友人から依頼を受けてきたんです。乙黒さんにぴったりですよ」


 霧島はスマホを取り出し、いじり始めた。


「……ふーん。って誤魔化すんじゃねえ、霧島ァ! どうしててめえ、私の歳を――」


 途端にこの女性は身をぶるっと震わせた。

 急に内股になり、がくがくとして部屋を見渡した。


「何これ……さ、さぶい」




 乙黒オトグロリツカ。

 この『乙黒探偵事務所』の主で探偵である。

 元刑事だが、過去にとある事情で辞職。

 現在はこの探偵を生業としている自称24歳の女性である。


「なんでアタシの部屋、こんなに寒いんだよ」

「そりゃあ冬ですからね」

「どうして……寝る前までは暖かかったのに」

「そりゃあ酔っ払ってたからですかね」


 点火仕立てのヒーターの前で乙黒は凍えていた。

 霧島は雑誌類を重ねて作られた椅子に座り、買ってきた缶コーヒーを飲んだ。


「霧島ぁ、どうしててめえはアタシには缶コーヒー買ってきてくれないんだよ……」


 渋そうな顔をする乙黒を余所目に、一口で飲み干した霧島はにやけた顔で言った。


「それよりも新しい依頼を持ってきたんですよ。受けてください」

「えー。だっるぅ……」

「だるいじゃないでしょう乙黒さん。最近ちゃんと探偵業してるんですか」

「してるよ、なっめんな! 1週間前は行方不明になったミカちゃんの捜索!」

「ミカちゃんとは?」

「猫。……一昨日は超重要書類探しの手伝い!」

「超重要書類とは?」

「小学生のテストの答案用紙。……昨日は斉藤さんチの家族殺害事件の真相究明!」

「その殺害された家族とは?」

「斉藤さんが飼っていたカブトムシ」


 霧島は呆れ顔で俯き言った。


「ちなみに死因はなんだったんですか?」

「いや、単純に冬を越せなかったらしい」


 霧島は眼鏡の奥に鋭い眼光を放ち、凍える乙黒のもとまで近づいた。


「だからそんな哀れな乙黒さんに僕が依頼を持ってきてあげたんです。引き受けましょう」

「えーなんだよ。お前、大学生なんだからさー。こんなところに来るくらいならー勉強してろ、勉強っ!」

「まあそう言わず聞いてくださいよ。多分、乙黒さんが興味ある依頼ですよ」

「はあ?」


 霧島は眼鏡を掛けなおし、静かに語り始めた。


「『真夜中、自らに近づいてくる奇怪な足音の謎』、です」

「!」


 乙黒は一気に真剣な表情へと切り替わる。


「へえ~。面白そうな事件持ってきたじゃねえか、霧島」

「興味あるでしょう、乙黒さん」

「ああ、まあね」


 霧島はにやっと笑い、自らの唇の前で一本指を立てた。


「た・だ・し。この依頼には特殊なお願いがあります……」

「……なんだよ?」


 きょとんとする乙黒の前で、霧島は微かに笑みを浮かべた。

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