第24話 薔薇姫 1

 戦が始まってから、すでに百日を数えていた。

 今夜は城塞の上に灯りがともった。それは東の軍がオアシスを囲み、夜が明けたなら攻撃を開始するとの予告だ。逃げ遅れた住民の嘆きの声が王宮の中にまで聞こえてくる。いや、王宮に取り残された者たちもまた、こらえ切れずに泣いているのだ。

 東国直轄のオアシスを奪い返され、周囲の同盟が次々と降伏していくなか、王の娘婿の治めるすぐ東隣のオアシスまで陥落してしまった。生き残りの兵を引き連れて、王が戻って来たのは十日前だ。

「まだ、打つ手は残っている」

 始めはそう言い放っていた王も、ゆらぐ炎に照らされた今の顔は苦渋に満ちていた。王宮に戻ってからも、武装をとかずにいる王はまだ戦うつもりでいるかのようだ。

 右隣に座る一の妃は口を閉ざし、膝のうえに乗せた孫姫さまを抱いている。子どもを失った西の姫は、寝所に伏せているところを連れてこられたようだ。ゆったりとした夜着が、動くたびに胸元が見えそうになるのにも気を遣わず、お付きのものがそのたび直している。何をされても瞳はうつろで、口は半開きのまま時おり亡くなった王女の名を小さく呼ぶ。

 一昨日、東の軍に和平の場についてくれるようにと伝えに行った使者は、首だけになって戻って来た。虫の良すぎる申し出だ。東が受け入れるはずがない。

 これが大国に弓を引いた結末だ。

 東西の要衝として領土と利益を肥やした王の思いあがった行動を、大国である東が許すはずがなかった。

 いつもは華やかな宴が催される広間には、王族を始めとして主だったものたちが集まっていた。いとまをもらい損ね、王宮に取り残されたものたちも、その様子を柱の陰や扉の向こうで聞き耳を立てている。

 残り少ない食材をかき集めて供された酒や料理はわずかだった。草花の模様が織り込まれた上質な絨毯のうえに並べられた料理は、誰一人として手を付けることもなく冷めていく。

 風もそよがず、わずかなランプを灯された室内は、香辛料の香りと人いきれでむせ返りそうだ。

 ひたいに浮いたうすい汗をぬぐいわたしは場を見渡した。遠目には、姫さまの姿が認められた。しゃんと背筋を伸ばしている。薄紅色の更紗のベールを被り口元だけをのぞかせて、うつむきかげんに王の近くに侍女とともに座していた。

 わたしは胸に抱くウードの竿ネックを握る指に力を入れる。

「こちらには、切り札がある」

 王はユェジー姫へと視線を走らせた。

ハン将軍は、ユェジー姫の兄だ」

 姫の肩がぴくりと動いた。姫の、兄ぎみ。姫が自分よりも巧みに楽器を弾くといった兄ぎみが、将軍となって遣わされていたのか。

「まさか、血のつながる妹を見殺しにするまい」

 そう言って、気付けのように杯をあおった。姫はいつものように、唇を真一文字に結び表情が乏しいままでいる。まるで話の内容など分からぬとでもいうように。

 逃げ出すための準備はしておいた。ただ、逃げ帰って来た兵士の中に、ゾランを見つけられなかった。消息をたずねようにも、兵士たちは誰もが気が立っており、声をかけることさえ躊躇われた。

 逃げる機会、姫とともにこのオアシスを抜け出すことはできるだろうか。今も同じ部屋にいても、千里も隔たりがあるようだ。姫はわたしを見ようともしない。

「大丈夫だ。しかし、だ。女どもにはがっかりさせられた」

 王は声を張り上げたが、一の妃は王を一顧だにせず、声に驚いた孫姫様を優しくあやした。

「王族から真っ先に逃げ出すなど、恥を知れ」

 廊下や部屋の四隅から、ざわざわとささやきあう声がした。真偽のほどが不明だった噂が真実だと知らされた者たちの動揺は隠せない。

 一の妃は眉間に皴を寄せたまま、静かに王から顔をそむけた。婚家のあるオアシスはすでに東の手に落ちた。帰る住まいもなく、身重の姫は幼い王子を連れて、どこへ行ってしまわれたのか。

 げんに西の姫は逃げきれなかった。亡くなった王女のように、どこかで東の兵士に命を奪われてしまったのではないか。確かめようのないことだ。一の妃の勇み足を王は咎めている。

「ああ、気分が悪いわ。楽師、楽師はいるか!」

 ぼうとしていたわたしは、隣にいた男に肩を押され腰を浮かせた。

「はい」

「よくぞ残っていた、サーデグ。ほかの連中は出て行ったのか。薄情なものだな。何か歌え、賑やかで威勢のいい歌を」

 立ち上がったわたしに向けられる視線を痛いほど感じた。わたしは無理やり笑顔をつくり、ウードをかき鳴らした。高い天井へ音は響き、わたしは勇ましいいさおしを歌おうとした。顎をわずかにあげるとき、ユェジー姫さまと視線が絡み合ったように感じた。

 とっさに指がもつれた。ぶざまな濁った音に、曲の拍子がずれた。

 わたしは何を歌おうとしているのか。王が所望した勲を歌うべきだ。しかし、立ち上がって改めて目にした妃や姫たちの悲痛な表情を前にして、わたしの指先が紡いだ曲は、勲ではなかった。

 柔らかく、ゆったりとした旋律。小川のように細く清らかな流れが生まれた。

 もう二度と帰ることのない故郷、二度と会うことのない愛しい人。

 わたしは歌わずにはいられなかった。

 姫に教わった歌を。

 わたしの喉から、滑らかな歌声があふれた。今までにないほどの伸びやかさ、細やかさだった。自分でも信じられない。ごく自然に歌声を操ることができた。

 姫さまに聞いて欲しい。思い出してほしい。

 何度も繰り返した稽古の日々を。あの小さな箱庭で過ごした日々を。貴女様が生き生きとウードを弾き、飽くことなく歌った時を。

 わたしは忘れたことがない。忘れることなどできない。

 万感の思いを込めて歌い上げると、宴の場に波紋が生まれたように感じた。音のふるえは後奏と響きあい、静かに消えていった。

 無我夢中で歌い終わるとわたしは片膝を折って頭を下げた。胸に手をあて、荒い呼吸を押さえようとしていると、すすり泣く声が四方から聞こえてきた。

 息を整えて顔をあげると、一の妃を始め、女たちがみな声をひそめて涙を流していた。いや、女ばかりではなかった。男たちも、若いものも歳かさの者も。

 立ち上がってわたしは真っ先に姫さまを探した。みな顔を伏せる中、姫さまはベールをはずし、まっすぐにわたしを見ていた。わずかに笑みをたたえ、わたしを教え導いたときとおなじ表情で。

 わたしの頬が、からだが一気に熱くなった。こんな場面なのに喜びで胸がはちきれそうになった。大きく口を開けて息を吸った。叫び出したい衝動を抑え込み胸を押さえたとき、鋭い視線を感じた。

 王がわたしを睨みつけていた。王の横にはいつもの小柄な通詞がいて、耳元で何かをささやいている。

 あっ、とわたしは思わず口に手をやった。

 ゾランの忠告を今さら思い出したのだ。

「サーデグ! きさま、その歌を誰から教わった! この場でよもや東の歌を歌うとは、命が惜しくないのか」

 王の怒号にわたしはよろめいた。ついさっきまで歓喜に打ち震えていた胸は、いまは冷たく早鐘を打つ。

「しかも、道ならぬ恋の歌だというではないか。サーデグ、まさかユェジー姫と」

 わたしが動き出す前に、すぐそばにいた兵士たちにわたしは取り押さえられた。がんっと顎が床に激しくぶつかり、痛みが脳天まで突き抜けて目の裏に火花が散った。

「ち、ちがい……っ」

 弁明しようとしたが、舌が上手く回らない。その間にも、後ろ手にねじ上げられ、あまりの痛さにわたしは悲鳴を上げてウードを取り落とした。

「密通には死を!」

 王の声と共に、兵士が鞘から刀身を抜く音が耳に届いたとき、凛とした声が響いた。

「わたくしです、わたくしがサーデグ殿へ歌を教えました」

 人々の動きに合わせて、ざわっと風が起きた。無理に首を上げると、姫の侍女が立ち上がり王と対峙していた。

「おまえか、奴隷あがりの風情で」

 侍女は昂然と顔を上ている。背筋を伸ばし、すっとユェジー姫の前に進みでた。

「あなたさまは、もう覚えてもいらっしゃらないでしょうね。わたしが家族と暮らしていた小さなオアシスのことなんて」

 侍女は一度、わたしを見た。

「おまえには、東の血が流れていたな。こちらのことを東に知らせてはいなかったろうな」

 くっとわずかに体を曲げると、侍女はさもおかしな話をきいたとばかりに笑い始めた。

「まさか! きさま……!」

 侍女は、くくくと笑って見せると、口元から手を離し王を見据えた。

「滅びればいい。オアシスもおまえの血筋の者もすべて」

 王を指さし、高らかに断じた。

「斬れ!」

 王の怒号と同時に、駆け寄った兵が剣を侍女にふりおろした。鈍い音がして、侍女が料理のなかに音をたてて倒れ、それきり動かなくなった。宴は一転、血なまぐさいものになった。

「ユェジー姫、おまえも加担していたのか」

 姫は顔色一つ変えずに、単座していた。その姿は王の怒りに油を注いだ。

「東が美しく可愛げのある姫をよこしたなら、こんなことにはならなかった! おまえは災いの種だ」

「そんな!」

 思わず声を上げたわたしの背中に兵の膝がのしかかり、言葉は続かなった。

「そいつも、始末しろ」

 こんどこそ終わりだ。こんなところで死ぬのか。姫を助けることも出来ずに。悔しさに涙がにじんだ。

「やめなさい!」

 一の妃の声が響いた。

「明日、門の入り口に牢屋の者たちと並べるがいい。少しでも時間が稼げるように」

 それまで無言だった一の妃の声に気おされたように、王が口をつぐんだ。

 引き起こされ、地下の牢へと連れて行かれる刹那に姫の姿を目で追った。わずかに肩を落とし、ひどく小さく見えた。

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