第25話 薔薇姫 2

 侍女はオアシスの内情を東の国へと流していた。

 花茶がバザールから消えてからも、入手できたのは東と通じていたからだろう。それを姫さまはご存知だったのだろうか。

 侍女のすべきことは、こちらの動きを知らせることだったらしい。では姫さまは? 姫さまの、すべきこととは、一体何なんだ。

 わたしは牢屋の湿った床で膝を抱えた。同じく牢にいる者たちは落ち着きを失っていた。暗闇の中で、同じ房にいる男たちが、ざわざわと動く気配がする。それは他の房も同じようだ。房に面した通路には、見張りの気配は感じられない。もしや、見張りの兵士たちも逃げ出したのか。

「もうすぐ東の兵士たちが乗りこんでくるのか」

「おれたちはどうなるんだ」

「盾にされるらしいぞ」

 牢にいるのは、人を傷つけたりした者たちではなく、王の言葉を間違っていると声を上げたり、物を盗んだりといった者たちらしい。歳や見かけも、ばらばらだ。少なくとも盾となって役立てるほど、頑健そうなには見えない。四角い牢獄の奥からは、嗚咽がもれ聞こえる。

 騒ぎを収める者がいないまま、不安をあおる言葉が続く。

「おれたちが殺されるあいだに、王宮の連中は逃げる気だろう」

 捨て鉢な口調が、石の壁に声が響く。逃げる? どこへ?

「逃げられると思うなら、自力で逃げてみろよ」

 聞き覚えのある応えに、顔を上げた。灯りなどないはずの通路に、かすかな光があった。

「よう」

 房に開けられたわずかなのぞき穴から、わたしを見下ろすゾランがいた。

「生きていたのか!」

「死ぬようなヘマをするか、おれが」

 ごとん、と音がして不意に目の前の扉が開いた。ゾランがかんぬきを外したのだ。いきなりなことに、居合わせた者たちが口をつぐんだ。

「迎えに来た。前金のぶんの仕事だ」

 捧げ持つランプの灯りの中、皮の鎧を身につけたゾランは、鬼神のような陰影をまとい、わたしに手を伸べた。

「おまえだけ逃げるのか、おれも連れて行け」

 一人がゾランに言い寄ると、我も我もと戸口へと人々が殺到する。ゾランはすばやくわたしを胸の中に抱きこみ、背後へと回した。

「おれは、こいつに雇われている。こいつのことしか面倒を見ない。それに、おれたちがこれから向かうのは、王宮だ。どさくさに紛れて、見張りが手薄になっているとはいえ、王宮は違う。いまだ戦を諦めない王に従う兵士がいる。そんななかへ、おまえらを連れていけない」

 ランプの灯りを詰め寄る男にぐいっと近づけると、皆は押し黙った。わざわざ火中の栗を拾いに行くというゾランの言葉に。

「その代わり、逃げ道を教えてやる」

 ざわりと、波のようなどよめきが上がった。

「カナートの流れに逆らって上っていけ。ここから出られるだろう」

 ゾランが話し終わると、我れ先にと房のものたちは足早に出て行った。ついでだ、とゾランは残りの房から人々を開放し、同じように話して聞かせた。

「これくらいすれば、いまだ忠実なる王宮の兵士たちも、右往左往するだろうさ」

 ゾランは全員が出て行ったのを確かめてから、わたしに向き直った。

「行くか」

 わたしはうなずいた。王宮へ、いまこそ姫のもとへ。


「牢屋の見張りの連中のように、おれの言葉を鵜呑みにしてくれりゃ、いいが」

「逃げ道を教えたのか」

 広間から回収してくれたウードを、わたしに差し出して、ゾランが片頬で笑った。見張りたちに、カナートのことを教えたらしい。

「でも、みんながカナートから逃げたら、大変なさわぎで姫さまをお連れするなんて……」

「カナートへ行った連中には囮になってもらう」

「え?」

「……常に先手を打っておくものさ。道は一つじゃない」

 ゾランはわたしと手を繋ぐと、足早に走り出した。

 暗闇に乗じて、王宮の廊下を進む。途中、カナートへと続く中庭の横を通った。扉は開け放たれていた。石の壁に水をかきみだす音が反響していた。

 すでにカナートの地上への出口には、東の兵たちが手ぐすね引いて待っているのではないか。

 ゾランは別の逃げ道があると口にしていたが、ほんとうだろうか。

「王の人望の厚さたるや、まったくな」

 廊下や廻廊、姫の部屋の前にすら、衛兵はいなかった。いや違った。扉の前にうずくまる者がいた。

「ここで待っていろ」

 ゾランは手を離し、ひとり衛士のもとへとゆっくりとした足取りで近づいた。夜目にも衛士がゾランに気づいて立ち上がるのが見えた。

 声をひそめて二人は会話しだした。わずかに聞き取れる言葉から、衛士は扉の前から動く様子がないことが伺われた。

 何度も首を横に振る衛士に、あきらめたのかゾランが戻って来た。

「部屋の鍵は、王が自ら持っているそうだ。そして、あいつは度胸があるようには見えないが」

 と、顎で入り口の扉を示し、ゾランはため息をついた。

「逃げる気など毛頭ない、だと。それは姫も同じだそうだ」

「そんな、姫があの衛士に声をかけたというのか」

 ゾランは顔にかかる髪をかきあげ、呆れたように天井を見上げた。

「必要だったら、話くらいするだろうさ。……必要だから、したんだろ。きっとおまえが来ると信じていたことの裏返しだ」

 わたしは言葉に詰まった。たしかに、そうだ。姫はわたしの気持ちを疑ったりはしない。

「以前に侍女と二人で来た中庭を覚えているか。行くぞ。もしかしたら、姫と会えるかも知れん」

 姫の居室の反対側へと廻廊を小走りに行く。時々、物が割れる音や悲鳴のような甲高い声が聞こえる。

「火の手があがっていないだけ、まだましだな。自棄やけになって、家族を殺して火をつける奴がいたりするから」

 まるで実際に見たことがあるように、ゾランは話した。いや、見たことがあるのかも知れない。ゾランの故国はどこなんだろう、そこは今もあるのだろうか。

「入るぞ」

 ゾランは扉を押し開いて、わたしを中へと導いた。先日と同じように二つの部屋を通り越し、鉄格子のところまで行った。果たして姫は来てくださるだろうか。月明かりが照らす広い庭の向こう側に、白い庇がぼんやりと見える。

「さがれ」

 ゾランはまた鳥の声真似をした。鳴き声は四角い庭に反響し、庇の下で何かが動いた。思わずゾランを押しのけて、鉄格子につかまる。

「姫さま!」

 言ったとたん、ゾランがわたしの口を押えた。

「声がでかい」

 人影が少しずつ近づく。わたしは何度も首肯してゾランから解放された。

「姫さま……」

 宴で見た時のように、ベールを被った姫さまが鉄格子の向こうに立っていた。

「逃げましょう、今なら混乱に乗じて逃げられます」

 胸の前で指を組み、姫はうつむいた。もう侍女はいない。王宮にたった一人になってしまった姫を、わたしが置いて行けるはずがない。

「わたしは姫さまに歌ってほしいのです。思うままに歌ってほしい。お願いです」

 わたしの懇願に、姫はかすかに首を左右にふった。そして面を上げて真っすぐにわたしを見た。

「やくめ、あります。わたしに」

「役目なんて、あなた様の命より重いのですか」

「たいせつ、やくそく」

 迷いのない、はっきりした声だった。わたしは鉄格子を握りしめた。噛みしめた奥歯がきしんだ。いったい誰と結んだ約束なのだ。

「いくら相手方の将軍が、姫さまの兄上であっても安心はできません。どうか、どうかわたしと逃げてください」

 姫さまは、数歩あゆまれてわたしの前に立った。

「さーでぐ……さーでぐ」

 初めて名前を呼ばれて、わたしは目を見開いた。鉄格子を掴むわたしの手に、姫はそっと手を重ねた。冷たい指は、かすかにふるえていた。

「さーでぐ、たいせつ。はじめ、わたし、うた」

 そう言って姫は強く頭をふった。

「歌うおつもりはなかったのですか」

 こくん、と姫はうなずかれた。

「わたし、うた、うたわない。さーでぐ、いた。きれいな、こえ。でも、ツマラナイ」

 姫さまが輿入れされたころ、わたしは仕事に飽いていた。声のために作り変えられた体を持て余していた。

「わたしは姫さまの歌声に出会うまで、ただ声を出していただけです。あなたさまの歌はわたしの魂に火を灯しました」

 あなたのように、なりたいと。あなたの歌声に近づけたならと。この気持ちは切望というものだと知った。

 姫さまは音曲の神に愛された、特別なお方なのだと分かった。わたしなど足元にも及ぶまい。けれど、あなた様のそばにいるときには、天上の美しさの片りんを味わうことができたのだ。

「……さーでぐ、うた、すき?」

 かすかに首をかたむけて、姫はわたしに訊ねた。夜が明けたなら、ご自身がどうなるのかも知れず、運命に委ねるしかないというのに、姫はたしかに微笑まれていた。

 いつしかわたしの頬を涙が伝っていた。喉が詰まったように、わたしは声が出なかった。無理に話そうとすれば、膝からくずおれてしまいそうだ。

「さーでぐ……」

 涙にぬれるわたしの目を、細い月のような瞳が見つめた。姫の唇がわずかに動いている。ゆっくりと、ゆっくりと。声はなかった。けれど、わたしには確かに聞こえたのだ。姫の歌声が。

 いつしかわたしたちは、あの懐かしい庭にいた。

 小鳥がうたっているのでしょう、という侍女の言葉。誰はばかることなく、歌をうたう姫とわたしがいる。

 声に出さずとも、姫の歌は一言一句もらさず、その抑揚まで覚えている。いつしかわたしも、姫の唇の動きに合わせて歌っていた。無音の中に、姫の世界があった。長く息を吐き、歌は終わった。

「姫さま、姫さま」

「うた、ある、さーでぐ、に」

 初めてふれた姫の指は、あたたかくなっていた。わたしの涙は止まっていた。姫の歌は、わたしの中にあるのだ。

「これ」

 姫は胸元に挟んでいた書状を、わたしに差し出した。さらにベールを外し簪を一本抜取った。それは、姫がいつも身に着けていた、あの地味な薔薇をかたどった簪だった。

「それ、もって」

 手渡されたものを見つめるわたしの肩にゾランが手を置いた。

「おい、それはきっと、おまえのための嘆願書だ。そうなんだろう」

 ゾランが話しかけると、姫はうなずいた。

 不意に手元が明るいことに気づいた。いつの間にか、夜明けが近づいていたのだ。鳥たちが囀り始めている。

「行くぞ、それが姫の答えだ」

 ふわりと体が宙に浮いたかと思うと、ゾランはわたしを肩に担いで走り出した。

「そんな、姫さま!」

 思わず手を伸ばしても、届くはずがない。

「おろせ、おろせゾラン!」

 姫は一気に遠ざかっていく。姫の影が手をふっていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る