第19話 手だて 6

 気づけば、酒場に出かけたときより、はるかに歩きやすい。理由はすぐにわかった。人混みをゆくわたしをかばうようにゾランが盾になっているのだ。肩幅も上背もあるゾランに、わざわざぶつかるような道を選ぶものはいないだろう。

 黙って先に立つゾランは、今日も上半身には何もまとっていない。長い黒髪をなびかせて歩くさまは、すれ違う者たちを振り返らせた。ゾランの腕や胸の盛り上がりを目にして、わたしは思わずうつむいた。剣はもとより、ウードより重いものなど持ったことがない。

 もし、わたしがゾランだったなら、姫をすぐに救い出せるだろう。姫の身をお守りし、姫が心ゆくまで歌う土地まで連れてさし上げるだろう。そして、天上の歌声に耳を傾けるだろう。もし、そうだったなら、もうわたしは歌うことを捨ててもいい。

 けれど、わたしは欠けた体しか持たない。わたしは何も……。

「あぶない」

 ゾランはとっさにわたしを引き寄せた。気づくと目の前すれすれを荷車が通っていった。

「こんなところで、ぼさっとするな」

 怒りを含んだ声で小さく叱責すると、そのままわたしの腕を掴んで歩いた。わたしの体は少しばかり浮き、足はときおり空(くう)をかいた。

「ちょっ……はなして」

 掴まれた腕の痛さに抗うわたしを無視して、人ごみを抜けるまでゾランはわたしを離さなかった。

 すぐに王宮へ向かうかと思っていたが、ゾランは王宮とは反対の門のほうへと角を曲がった。

「歩いたままで話すぞ」

 わたしの返事をまつことなく、ゾランは前を向いたままで話し始めた。

「なあ、たとえばだ。入れ替わりは考えないのか」

 とっさに何を聞かれたのか分からなかった。

「わたしと?」

 ばかか、とゾランはわたしを見ずに、顔をしかめて髪をかきあげた。

「侍女と姫だ」

 自分の大きな勘違いへの恥ずかしさと、ゾランの提案が極端だったことに面食らった。

「か、考えられない。姫ひとりでどうするというのだ」

 ゾランは、しかめっ面をわたしに向けると、すぐに前に視線を戻した。

「……おれには、あの二人が焦っているようには見えないんだ。たとえば、青い目の姫は逃げ出すのに躍起になっている」

 青い目の西の姫か。彼女は西の国のお生まれだ。西の国と懇意な都市まで逃げおうせられたなら、きっと大丈夫と踏んでいるのかも知れない。

「今は、入ることは出ることより、いくらかマシだ」

 わたしたちは、門がよく見えるところまで来ていた。確かに、門をくぐって外からやってくる者たちは、持ち物や身なりを簡単に確かめられてすぐに町中へと散っていくのに、出て行く者たちは詳しい取り調べがあるらしく、長蛇の列だ。

「王は快勝したいまこそ、結束を崩したくないだろう。勝利に沸き立つ民の心をまとめて、このまま東との交渉に入りたいだろうな。こちらの独立を守って、東西の要衝として富を倍増させたいと考えている。それなのに、もしも王族から逃亡者が出たなら、敗北を予感していると思われる」

 王族が今逃げ出すというのは、他の者たちの示しがつかない。ゾランはわたしの肩に手回し、引き寄せると耳もとでささやいた。

「三人仲良く手をつないで逃げることなど、出来ない」

 ゾランの言葉は、まるで冷たい水だ。胸が水に浸され、体が中から冷えてくる。

「おれ一人いたところで、どうにもならん」

 ゾランは急にわたしの肩を押して離れた。わたしが振り返ると、腰に手をあて眉をゆがめた。

「近々、出兵するしな」

 そんな、と自然に唇から声がもれた。よほど情けない顔をしていたのだろう。ゾランは拳を口にあてて笑いをこらえてみせた。

「気が変わった。茶を探してから帰る。暑くなるまえに戻れよ」

 ゾランはそのまま身を翻すと、また市場のほうへと踵を向けた。太陽が真上に上り詰める少し前、風景が白く見える雑踏に紛れて広い背中もじき消えた。

 昨日知り合ったばかりだというのに、もうゾランを頼りにしている自分に呆れる。しかし、ゾラン以外に今から手助けしてくれそうな者を見つけるのに、どれだけ手間取るか分からない。

 東の軍は、刻一刻とこちらに近づいているはずだ。たとえ、ここまでの道のりが灼熱の砂漠であっても、訓練された軍であれば、きっと易々と渡ってくるだろう。

 物を知らないというのは、恐ろしいことだ。ただただ、不安が募るばかりなのだ。


 王宮までたどり着くと、朝と同じ中庭で孫姫さまが遊んでいた。侍女が抱き上げようとしても、小さな足をばたつかせ、かんしゃくを起こしたように抗う。

 いつもお人形遊びをしている、おとなしい女の子だと思っていたが。

「どうされましたか、姫さま」

 呼ばれもしないのに、駆け寄って孫姫さまのご機嫌伺いをしようと思ったのは、腰がまがりかけた白髪の侍女が大変そうだと思ったからだった。

 近くへ寄ると、姫さまが泣いているのに気づいた。侍女の腕の中で泣きじゃくりながら、中庭の奥を指さす。何かあるのかと振り返ると、大理石の壁があるばかりだ。

「さ、姫さまお部屋へ戻りましょう」

 侍女はわたしと目を合わせようともせず、暴れる孫姫さまを骨の浮き出た腕で抱きしめて、後宮へと速足で戻っていった。

 見た目よりも丈夫な侍女の足腰にあっけにとられた。部屋へ戻ってもすることがない。わたしは戯れに水盤のそばまで歩いた。四角く囲まれた庭の上に、おなじく四角い青空があった。しばらくは、誰からも声がかからないだろう。戦の間は宴は開かれないだろう。

 ぶらぶらと中庭を巡ると、姫さまが指さした壁のあたりまできた。いままで、何があるかなど気にも留めたことがなかった。しかし、そこには壁と同じ色の扉があった。わたしはその扉に惹きつけられた。強く押すと、唐草アラベスクが浮き彫りにされた扉は、内側へとあっけなく開く。

 白い石の階段が、暗闇の底へと続いていた。ひやりとした風が頬を撫でる。そして水のせせらぎが足元から聞こえた。

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