第17話 手だて 4
塔からおりて王宮へと戻り、自室へと向かっていると、可愛らしい声に呼び止められた。
「ぃーて、ぃーて!」
振り返ると、一の妃の孫姫さまが白髪が目立つ乳母と中庭に作られた水盤の近くにいた。小さな人形を抱き、わたしを手招く。まさか無視するわけにはいかない。
「はい、姫さま」
近くでひざまずき頭を下げた。姫は手を引かれて歩いてきた。花の模様が刺繍された小さな桃色の靴が視界のなかで止まり、わたしがゆっくり顔を上げると姫はわずかに眉を寄せ、細かく編まれた髪をゆらし、愛らしく地団駄を踏んだ。
「なにか、お気にめしませんか」
まだ二歳と少しの姫は、おしゃべりがじょうずではない。もどかし気に喃語を話す姫の代わりに乳母がわたしに声をかけた。
「ウードは持っておらぬか。姫さまは、そなたのウードが好きなのだが」
今朝は珍しく手ぶらで歩いていた。間が悪いことに、こういうときに限って不意に歌を頼まれたりする。
「では、しばしお待ちを。取ってまいります」
一礼して、小走りに自室へと急いだ。……姫さまがいらっしゃる。ならば、身重の姫はまだ王宮にいるのかも知れない。勝利の知らせから、まだ一日。いくら一の妃が思慮深いとはいっても、こんなに早くに行動には移さないはずだ。
部屋の扉を開けて、たたんだ夜具のうえのウードを手に取る。
幼いとはいえ、一の妃の近くの存在だ。逃亡の手がかりがつかめるかも知れない。どんなにささいなことでもいい。注意深く、孫姫さまを見ることだ。
ウードを手に戻ると、孫姫さまは水盤からあふれ出て流れ落ちた水に手をひたして遊んでいた。花びらの形の水盤からこぼれた水は、煉瓦で作られた水路へと流れて王宮の外へと続く。
孫姫さまは小さな手で何度も水をすくう。吹き抜けの中庭の壁を朝陽が照らし始め、幼い姫さまの髪飾りもきらきらと輝いた。
「姫さま、戻りました」
姫はわたしをみとめ、駆け寄って来た。わたしにしゃがむようにと、しぐさで命じた。命じられるままに、床に腰を下ろすと姫さまがわたしの前にしゃがんだ。
明るい茶色の瞳を輝かせて、姫はウードへと手を伸ばした。直に弦にふれて怪我でもされては大変だ。わたしは姫へ鷹の羽軸で作られたリーシャ《弾爪》を渡して、弾きやすいようにウードを支えた。
姫は恐る恐るリーシャで弦を撫でた。
澄んだ音が壁にあたって反響した。姫は自分自身で起こした音の波に驚かれたように四方を見渡した。
「おじょうずです」
わたしが褒めると、頬を薔薇色にさせて、もう一度弦を鳴らした。わたしが
孫姫さまの笑顔に、ユェジー姫の幼い頃の姿を思い浮かべた。姫さまも楽器の弾き方を教わったのだろう。母親やきょうだいたちに。兄上がお上手だとおっしゃっていた。兄妹で一緒に並んで稽古を重ねたのかも知れない。
小さな姫は何度か繰り返すと、満足したのかリーシャをわたしに戻した。わたしは一つ、姫に尋ねてみた。
「お兄さまは、まだお休みですか」
姫の兄にあたる皇子の姿も、今朝の王の出立にはなかった。姫さまは確かこの乳母に抱かれていたが。まさか、皇子が寝すごして祖父の見送りに遅れたとは思えないが。
姫はただ首を振ると、乳母のところへと戻っていった。乳母はどこか硬い表情でわたしを見ている。
「さあ、お部屋へ戻りましょう」
乳母が姫を大儀そうに抱き上げる。姫は去り際、遊び足りないのか名残惜しげに水盤の中庭をいつまでも見ていた。
しょせんは子どもだ。孫姫さまからは、これといった手がかりは得られなかった。ならば、町へ行くしかない。腹ごしらえが終わったなら、いつも親父の酒場を行こう。
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