第15話 手だて 2

 別室へ通された。部屋といっても薄い板塀で仕切られたごく狭い場所だった。

「てきとうに座ってくれ」

 ゾランは窓代わりの小さな板戸をはねあげると、いったん部屋から出て行った。さっきの大部屋より、少しはましな絨毯と、夜具が部屋のすみに畳まれてあるだけ。私物らしい私物は見当たらない。個室で寝起きしているということは、ゾランは傭兵の中でも責任ある地位にあるらしい。

 窓から夕暮れの空が見えた。濁りのない風で頬を撫でられると、生き返ったような心地がした。

 とたんに足から力が抜けて、床にへたりこんでしまった。今さら冷や汗が額を流れ、鼓動が早まった。

「厨(くりや)の連中も出かけたらしい。みんな浮かれてやがる」

 ほどなく戻ってきたゾランは、湯気の立つ茶碗を両手に持っていた。

「なんだ? さっきまでの威勢のよさはどこへ行ったんだ?」

 ゾランが鼻で笑う。なんとか体を立て直し、壁にもたれながらも座ったわたしの前に、ゾランは茶碗を置いた。茶は見たこともない色をしていた。

「緑?」

「飲めよ、毒じゃないから」

 そういうと、ゾランは先に茶碗に唇を当てた。今さらわたしを害しても意味はないだろう。腹をくくって茶碗を口元へ持ってくると、かいだことのない爽やかな香りがした。ゆっくりと口に含むと、なぜか草原(くさはら)が思い浮かんだ。お茶は喉を滑りおり、つかのま感じた苦みが舌のうえでほのかな甘みに変わる。初めての味わいに目が覚めるように感じた。

「故郷(さと)の茶だ。緑茶という」

 姫に御馳走された花茶とはまた違った旨味を感じた。

「あの姫ぎみは、口がきけるのか? 侍女とすら話したのを聞いたことがないぞ。ましてや、歌だとか……」

 ゾランが疑うのも無理はない。最初のころのわたしもそうだった。

「姫さまの歌声は、天上そのものだ」

「はあ?」

 言葉尻をあげて、ゾランはわざとらしいほど口をゆがめた。わたしは腹のあたりがかっと熱くなった。

「姫さまは、姫さまの歌声は、すばらしい」

「さっきのお前よりもか」

 わたしは首を左右に揺らした。

「わたしなど、くらべものになるものか。姫さまはわたしのお師匠さまだ」

 ゾランは、眉根をよせてますます怪訝な顔をした。俄かには信じがたいのだろう。天井を見上げたまま茶碗を手の中で何度もくるくると回した。

「あの不細工な……わかった、睨むな。姫がだんまりを決めているのはどうしてだ? そんなに歌が上手いなら、みんなに披露したらいいじゃないか」

「それは……きっと姫には、なにかお考えがあってのことだと」

 そう思っていた。姫はここでだけ歌わないわけではなく、故国で姫の歌声を耳にしたのは、もごく親しい者たちだけではないか。げんに姫の嫁入り道具には楽器のひとつもなかったのだから。

 では、なぜ?

 姫の真意を図りかねた。そのことはひとまず置いておくしかない。それよりも、ゾランに尋ねたいことがある。

「一の妃の姫が」

 言いかけたわたしをゾランはひと睨みした。

「おれは、何も話す気はない」

 ゾランはむっつりとした表情で茶碗をあおり、そのまま横を向いた。

「いや、困る。姫を」

 ゾランは無言で茶碗を絨毯にたたきつけた。飛び散る茶碗の欠片から、思わず体をそらした。

「また襲うぞ」

 日が傾きかけ、薄暗くなった室内でゾランの目がぎらりと光ったように見えた。自分よりもはるかに分厚いむき出しの胸板も、太い腕も、次に本気を出したら敵うはずがない。ウードを握る手が汗ばんだ。

「じょうだんだ。さっきは悪かった。下っ端の連中に見せつけてやろうとして」

 ゾランはようやくわたしに頭を下げた。上に立つ者には、何かと苦労がつきまとうのか。わたしに謝罪するのを部下たちには見られたくなかったから、わざわざ個室へ通したのだろう。にしても、皆の前ですることにしては、ただの蛮勇でしかないだろうに。

「おれは何も話す気はない。言えることはわずかだ。一つ目は日にちを数えろ、二つ目は手だて」

 長い髪をかき上げて、ゾランは口をつぐんだ。

「……王が出立してからの日にちを? 姫さまが逃れる手だてを?」

 ゾランはわたしのほうを見ずに、割った茶碗の欠片を拾い集めている。

 王が出立してから今日で六日目だ。いまだ都からの軍が駆けつけたとは耳にしない。たしか直轄のオアシスには、異変があったなら都へ知らせるための早馬がいたはず。

 ここから都まではおよそ一千里。早馬で何日かかるだろう。そして、実際の軍を率いて来るとしたなら、何日だ?

 もう一つの手だと来たなら、ますますわからない。四方を城壁で囲まれたオアシスだ。門は東西に二つ。門を閉ざせば外への出入りは出来ない。門には、見張りの兵士が立っている。まだ昼間ならば、門をくぐり外へ出ることもできるだろう。わたしだけであれば。姫を連れて行く……いや、その前に人目につかぬよう、部屋から出なければ。しかし、部屋の前にはゾランと二人の見張りがいる。もしそこを抜けられたとしても、監視の目をかいくぐり門までたどり着けるか。

 姫さまだけを逃がすのは、可能か。いやあまりに不安だ。できれば姫と侍女を一緒に誰か信用のおける者に頼めるか。そんな者を見つけられるのか。

 尋ねようにも、ゾランはだんまりを決めて黙々と片付けをしている。

「あなたを、雇うにはいくら出せばいいのだ」

「そうだな、金貨で二十枚か」

 掃除を終えたゾランは、こともなげに答えた。金貨二十枚だと? 四人家族が一年間ゆうに暮らせる金額だ。

 わたしは胸のなかで部屋の床に埋めた壺の中の金貨を思い出そうとした。

 いくらなんでも、そんな金は持ち合わせていない。

「おれを雇うためには、まず違約金を払わなきゃならない。なんせ契約期間を満了していない。そのうえで雇うのだから、それくらいの金額になる。おれは安くない」

 わたしはぐうの音も出なかった。

「安いものだろう? 命の値段が、それっぼっちだなんて」

 ゾランは皮肉な笑みを浮かべた。その表情に、幾度も自分の命を金に換えてきた者の生きざまを垣間見たように感じた。

 このまま、姫を連れ出すことはできないのか。だれか東の者に託すことはできないのか。いや、戦に負けると決まったわけではない。けれど、勝ち目はあるのか。

 わたしは、姫の歌声を守りたい。姫が心おきなく歌える日を迎えさせてあげたい。

 それは無理なのか。あまりに大それた願いなのか。

 うつむいたまま唇をかむわたしの耳に、かすかに歌が聞こえた。頭をあげると、ゾランがかすかに歌っていた。

 姫から教わった、あの歌だ。

「なぜ、それを」

 一度聞いただけで覚えてしまったのだろうか。わたしが話しかけると、ゾランはかすかに笑って歌うことを止めた。

「子どもの頃に近所に東の国の家族がいてな。宴で大人たちが歌っていたからな。おれは幼馴染と、酒宴のすみっこで遊んでいた」

 ゆっくりと瞼を閉じると、ゾランはそれまでにない優しい顔をした。ゾランの顔立ちは、わたしたちとは違う。むしろ姫さまとどこか似ている。髪の黒さや肌の色が。

「流れ流れて、ここまで来てしまった」

 ゾランの故国は、どこなのだろう。緑のお茶を飲む者たちがいる場所は。

「なあ、あの歌は王の前では歌わないほうがいいぞ」

「どうして?」

 わたしは身を乗り出してゾランに顔をぐいっと近づけた。と、ゾランに頭を引き寄せられ、一瞬くちびるがぶつかった。

「な、なにを」

 わたしが身を引くよりはやく、ゾランはすぐに手を放した。

「すまん、すまん」

 悪びれることなく、頭をかいてゾランが詫びた。突然のことに鼓動は乱れ打ち、わたしは手の甲で何度もくちびるを拭った。

「あれは、悲恋の歌だ」

 言われて合点がいった。たしかに明るい歌ではない。ものさびしげな曲調だ。けれど、悲恋の歌などありがちではないか。

 いまだ口を押えてにらみつけるわたしのことなど気にするふうもなく、ゾランは続けた。

「ただの悲恋じゃない。道ならぬ恋人どうしの歌だ。もし、おまえが歌ったときに、東の言葉がわかるやつが王のそばにいたらどうだ」

 あ、とわたしも気づいて悪寒が走った。わたしの体がこわばったまま動かなくなった。

「歌の意味を教えたなら、おまえは疑われるだろう」

 ありえない、姫との恋を。

 閉門を知らせる鐘の音が聞こえた。

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