第13話 蹄の音 2
胸に手をあて、息を吸った。部屋は王宮の廊下の奥、突き当りにあるので出入り口は一つしかない。
柱の影からのぞく姫の居室の前には、遠目からでもわかるほど、頑健な兵士が槍を手に通路に二人、奥に腕組みをした男がひとり立っている。ここで引き返すわけにはいかない。下働きのものに、いくばくかの金を掴ませてようやくたどり着いたのだ。
姫さまが後宮から王宮の奥へと移されて、三日。そして王が軍を率いて同じく三日が経った。王が出立してから、王妃ら王族は宴を一切取り止め、ただ王の武運を祈る日々だ。楽士や踊り子、軽業師のなかには、日銭欲しさに城下へ出向くものたちもいたが、町の広場も酒場も息を潜めるように人影がない。
姫の身を案じて、狭い自室を行きつ戻りつしていても埒が明かない。それなのに、知りえたことをたよりに近くまで来たはいいが、いまだ大理石の柱の後ろで立ち止まっている。
わたしは頭を振ると、口から飛び出そうな心臓を、胸のうえから拳で叩いた。
「誰だ!」
柱から一歩踏み出すのと、兵士の鋭い声が飛んだのは同時だった。ウードの首を掴む手が一気に汗で湿る。「……わ、わたくしは」
それでなくても高いわたしの声は、緊張からみっともないほど甲高く響いた。兵士の顔が、奇妙に歪む。このまま逃げ出したい衝動にかられる。けれど足に力を入れて踏みとどまった。ゆっくりと息を吸って吐き出す。
「わたくしは、楽師のサーデグと申します。ユェジー姫さまへのお目通りをお願いいたしたく……」
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。
兵士は一見して服装に特徴があった。大きな一枚布を巧みに足に渡してズボン状にし、鍛え上げた上半身には、短いベストをだけを着けていた。見慣れない姿から、傭兵と気付いた。
もしかしたら、わたしの話をわかっていないのかも知れない。短く刈った黒髪に、赤銅色の肌。ぎょろりとした四つの目に気おされる。
「あの……」
「誰も通すな、と命じられている」
張りのあるよく通る声が響いた。奥に陣取っていた男がわたしの前まで進み出てきたのだ。手前の二人とは違い、ベストは着ずに厚い胸板をさらしている。いつか兵舎で見かけた男だ。髪は伸ばしているが、髭はなく、大きすぎない涼しい目元をしている。わたしより少し年上だろうか。どうやら、先の若い二人より格上らしい。
「だいいち楽師が何用だ」
「歌で姫さまを、お慰めしたく……」
はあ、と返事をすると兵士は眉をしかめた。腰にこぶしをあて、わたしを見つめたまま、首を不自然なまでに曲げる。
「こんなときに、歌だと? おまえはどうかしているな。姫はお忙しい。きさまに会うお暇などない。さっと戻ってウードでも磨いておれ」
軽く肩を押されただけで、わたしはよろめいた。
「姫さまはお元気なのだろうな」
男は、片方の耳をわざとらしく手で押さえて唇をゆがめた。
「こたえる謂われはないな」
さあ、帰った帰ったと猫でも追い払うように、わたしは先の二人の兵士に両腕をおさえられ。
「こちらが勝つことを祈っておれよ」
その言葉の重みにぎくりとする。もし、この戦に勝ったとしたら姫さまはこの先も人質、むしろ負けたほうが解放されて故国へ戻れるのではないか。
おうように手を振る男の後ろで扉が細く開き、侍女が不安げな顔をのぞかせた。
「お、お食事は……!」
わたしの問いかけに、侍女はわたしの目を見てしっかりとうなずいた。すぐに男が侍女を部屋へ押し戻した。
きちんと食事をとられている。そのことを知れただけでもいいと感じた。
そして翌日、事態は急変する。
東の直轄地を陥落させた。その知らせ携えた兵士の馬が戻ってきたのだ。
オアシスじゅうが勝利に沸き返った。通りには人があふれ、バザールは物も人も一気に入り活気づいた。
東の軍も駐在する直轄地とはいえ、こちらの襲来を事前に察知できなかったらしい。
「この日のために、前々から周辺のオアシスの首長たちと手を組んでいたようだ」
熱に浮かされるように、住人たちは口々に王の用意周到さをほめたたえた。
王宮も生気を取り戻したように、みな頬を上気させ立ち働く。勝者の王を迎えるために。磨かれる床や柱、銀の食器、飾られる花々。王の帰還を今か今かと待ちわびている。その間も、わたしは何度も姫さまの居室のそばまで出向いては追い返されることを繰り返した。
そして勝利の知らせから二日後に、王は凱旋した。
わたしは他の楽師や町の人々たちがひしめく通りから、王たち一行を見た。栗毛の愛馬にまたがった王は、門から王宮への道を万雷の拍手と歓喜の声の中を堂々と進み、王宮の塔へと向かった。
しばらくして塔のバルコンにあらわれた王を見て、わたしは息をのんだ。盛装した王のあとを一の妃が付き従い、そしてユェジー姫が続いた。
姫は、少しお痩せになっていた。そのためかあるいは化粧のせいか、常よりも目が大きく感じられた。また目じりに差した紅と華やかな衣装と髪飾りとで、まるで別人のようだった。
塔を見上げる人々は、若い妃を目にしてざわめいた。二年前に嫁して来た姫のことを覚えているものなど、誰もいないかのようだった。そのうち、さざ波のように「東の姫」とささやかれ始めるころには、歓喜の声は渦を巻いて広場から広がり始めた。
こちらには東の姫がいる、ならば攻め落とされることはないだろう、という楽観的な見通しからか人々の声はさらに大きくなっていった。
輿入れの時には、容姿を揶揄され物笑いの種だった姫は、いまやオアシスの命脈を握る女神に等しいのだ。一の妃に劣らぬ、絹と宝石で飾られた姫は、かたい意思を秘めた凛とした美しさを放っていた。苦しいお立場が、姫をより成長させたように思えた。
そう、王は敵国生まれの姫を人民の前に出すことで勝利することを暗に示し、人々に安心を与えたいのだ。
王の名を呼び、熱狂する人の波に押されながら、わたしは叫びたかった。
ちがう、姫に見ていただきたかったのは、こんな光景ではなかった、と。もっと、穏やかで日々の暮らしを、あなたの暮らすオアシスは美しいのだと感じて欲しかったのだ。
王が宮殿へと戻っていっても、人々の熱気は収まらずにいた。
王は今夜は一族だけで過ごすことを望み、宴は開かれないと伝えられていた。
――歌うことのできない姫はどれほどに苦しいだろう……姫のあまりの変わりようにわたしの気持ちはついていけずにいた。
通りには、王と同じくして帰還した兵士たちも酒場や売春宿へ繰り出すらしく、それらの一団は目を引いた。以前ならば、こわごわと見ていた民びとたちも今ではすっかり彼らを信じ、畏敬のまなざしをむけ道を空ける。
姫はどうなるのだろうか。
このまま勝ち続けて、王は東の国と肩を並べられるのだろうか。あるいは、敗北を喫して……。
殺されてしまったという姫の姉ぎみと同じくならないと、どうして言える。
宿屋が続く道をウードを抱えて、行く当てもなく歩いていた。
「一の妃の姫君を……」
人々の喧騒に混じって微かに耳に届いた。宿屋と宿屋の間の暗がりに目を凝らすと二人分の人影が見えた。
「妃は聡いお方だ」
わたしは宿屋の壁に寄りかかり、通りを眺めるふりをして耳をすませた。ささやくような低い声で交わされている。正規の兵士か、それとも……。
「いまは逃れることが得策だと」
逃れる? 身重の姫さまのことか。思わず振り返ると、闇の中の瞳と視線がぶつかった。まずい、と身を翻し人並みにの紛れようとしたわたしは腕を掴まれ、そのまま路地へ引きずり込まれた。風通しが悪いせいか、すえた匂いが鼻を打つ。両腕を掴まれ、壁に押し付けられると長い髪が顔にかかった。
「……おまえ……!」
腕の痛みをこらえながら、暗がりに目が慣れるとようやく眼前の男の顔が見えてきた。
「聞いたな」
たくましい胸をさらした姿、長い髪。姫の部屋の前に陣取っている、あの兵士だった。
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