第12話 蹄の音 1
その日は朝からざわついていた。
思えば前日の夕刻、一の妃の宴へと準備をしていたときに、早馬の蹄の音を聞いていた。閉じかけた城門へ使者が滑り込んで来たときから静かな争乱は始まっていたのだ。
王宮の片隅の居室から姫の後宮への短いみちのりの間に、正装した大臣や王の側近たちを何人も見かけた。厨房からは朝食後の休憩時間にもかかわらず、食器がぶつかる音や水をくむ女たちの足音を耳にした。
そして、訪れたいつもの部屋には故国の衣装を身にまとい、椅子に腰かけた姫がいた。ここ最近は、たっぷりの布で作られた風通しのよいものを好んで選んでいたのだが、珍しいことに輿入れしたときのように幾重にも薄手の絹織物を重ね着し、目にしみるような紫紺の錦を羽織っていた。髪も複雑に結い上げ、何本もの宝石をあしらった簪で飾られていた。
初めて姫を遠目に見たことを思い出したが、あのときのようなぶっきらぼうなようすと違っている。ひとつお年を重ね大人の落ち着きを身につけ、花のさかりのかぐわしさを漂わせている。
「表のほうはにぎやかでしょう。昨日のうちに知らせは受け取っておりましたが、早朝に東の国から遣わされた皆様方がいらして王と謁見中です。謁見が終わり次第、姫さまは王宮へと呼ばれるでしょうから」
侍女は姫の化粧道具を片づけ、いつ声がかかってもよいように、姫の身なりを整えるのに忙しそうだった。
今朝がたの城門のほうから聞こえたざわめきは、東からの大使たちが来訪したからだったようだ。ここ最近の通行税のことを改めに来たのかも知れない。
「使節の中には、姫さまの叔父上さまも含まれているそうです」
「それは、それは。お久しぶりに会われるのですね」血縁者とはいえ、後宮へ王以外の男性は足を踏み入れることはご法度だ。宮殿でお会いになるのだろう。
千載一遇の巡り合わせだ。姫さまが肉親のかたと会えるというのは。
姫はまもなく肉親と会えるというのに、顔色が優れなかった。薄い唇に紅をはき、かたい表情でわたしを見た。
姫の不安に思い当たる。
姫の従者をすべて帰したことを王はなんと弁明するのだろう。それに、姫を後宮の片隅におき、訪れることもなく、ないがしろにしている。姫ご自身には不足も不満もないかも知れないが、それで言い訳が立つとも思えない。事実、侍女は一人きりだしお子もまだだ。なにより、王は姫には無関心だ。何もご存知ない。姫がどんなにか歌がお好きか。愛らしく微笑まれるか。
「きっと大丈夫ですよ」
わたしは近くの花瓶に盛られた赤い花を一本取り、ひざまずくと姫の髪に飾った。きらびやかな簪の中に、いつもの黒ずんだ簪もまぎれていた。
「姫さまは、この簪がよほどお気に入りなのですね」わたしの声に、首肯すると唇をわずかにゆるめた。
「……たいせつ。もらった……」
「大切な方からの、贈り物なのですね」
姫はわたしを見つめて、深くうなずいた。誰から、とは口にしなかったけれど、よほど思い入れのある品なのだろう。わたしはウードをいつものように姫さまへと差し出した。
ふだんのように受け取るかと思われた姫さまは、戸惑うように首を横にふられた。
「よろしいのですか?」
珍しいことだが、長らく故国の方々とお会いすることがなかったのだ。すでに気持ちが逸っているのか、あるいは王とも顔を合わせることになるかもと緊張されているのかも……。
「では、わたくしが弾きましょう」
ゆったりとした曲調のものを選んでウードを鳴らす。錦の袖口からのぞく指先は淡い李の花の色に染められているけれど、指があまりに白く、冷たいつくりもののように見える。
「姫さま、明日にでも塔へ参りませんか」
わたしの申し出に姫は顔をあげた。
「もし許されるのでしたら、叔父様もご一緒に」
まがりなりにも、東の賓客との同行ならば、周囲の視線も変わってこよう。わたしにしては、よい思いつきに感じられた。
姫は少しお心が軽くなられたのか、頬をゆるめた。
これを機に王が姫さまのもとへ通われるかも知れない。そうなればいずれ子宝にも恵まれよう。中庭で子守りをされるだろう。きっと姫さまが歌を……。一瞬、胸をよぎった思いにわたしの指が乱れた。
姫さまが、つと顔を上げてわたしを見て、かすかに小首をかしげた。
もし、お子が生まれたなら、わたしは……どうなるのだろう。
とうぜんのように、この場にいられるのだろうか。わたしは姫にとって何者でもない。ただの楽士だ。
いつの間にか指は止まり、まばたきさえ忘れ、目の前の姫を見つめた。
鳥のさえずり、風がゆらす草木の葉のざわめき、侍女の立ち働く音。すべての音が遠ざかった。
あたりまえのように、ウードを弾き、歌をうたう毎日。わたしたちの日々は終わる、のか。
突然、静寂は破られた。
入口の扉が音をたて、乱暴に開かれたかと思うと、血走った目を見開いた王が手にしたものを床に叩きつけた。
鈍い音がした。
侍女から鋭い悲鳴があがった。
ごろん、と回転して姫の沓へぶつかったものを認めてわたしの息が詰まった。
「く、首!」
結われた黒髪が乱れた生首が虚ろな目を天井に向けている。半分開いた唇の端から流れた血が絨毯を濡らした。
「土産だ、受けとれ」
王の声はまるで狼の咆哮だった。びりびりと肌が痺れ、わたしはウードを抱えたまま、よろめいた。
「叔父ぎみとの邂逅だというのに歓喜の涙は出ぬか?」
王の声を追いかけるように、耳馴染みのない言葉が続いた。腕組みをして部屋の中央に立つ王の後ろに、青白い小柄な通詞が控えていた。そして数人の衛士たちも。
見る間に姫の顔が血の気を失い、紙のように白くなった。
「勝手に税をつり上げるな? むやみに兵を集めるな?」
大股で姫のところへと歩み寄った王は、生首を踏みつけた。
「懐に金をため込むな、兵力を持つな。東の国は我が国を同盟としてではなく、奴隷のように従属させているつもりなのか!」
言い終わらぬうちに王は姫の腕を掴んで顔を引き寄せた。
「こんな姫をあてがわれても大人しくしていた、わたしの懐の大きさを踏みにじりおって」
通詞は余すことなく王の言葉を姫の母国語へと変えていく。姫はきつく眉をよせ、ただ王を睨みつけた。
「不器量のうえに、どこの誰と知れぬやつのおさがりを寄こしおって」
がん、とわたしは頭を殴られたように感じた。おさがり、それはつまり……。
「さあ、大切な姫さまは宮の奥へとお連れせねば。ああ、わたしは寛容な男だ。美しい歌姫と名高かったおまえの姉は嫁ぎ先を敵国に攻め込まれたときに、奪われるの惜しさに王に殺されたそうだ。何も持たないおまえは、とんだ命拾いをした」
王は強引に姫を立ち上がらせようとした。姫はひじ掛けを指が白くなるほどつかみ、中腰になった。口を引き結び、視線で王を射殺さんばかりだった。
「馬の用意はできたか、兵士たちの準備は万端か! 東の直轄地のオアシスを攻めるぞ」
勝鬨の声が後宮を揺るがした。
「とっくに事は進んでいたのだよ。
王は高らかに笑った。
「皮肉なものだな、その容姿に薔薇などと」
連れて行け、と王は背後にいた衛士たちに命じた。姫は王の手を振り払い自ら立ち上がった。衛士たちに囲まれてもなお、凛とした姿勢は崩さず、足音もなく居室から去った。
「大切な人質だ」
王は衣を翻し、入り口の扉で待っていた将軍から大剣を受け取ると、足早に出て行った。
わたしはあまりにも多くのことが一度に起きて、何もできずただ部屋の片隅にウードを抱きしめて、ふるえていた。
残されたのは泣き崩れる侍女と、姫の面差しと似た生首。
姫、そうだ姫の簪、あれはたしかに薔薇の透かし模様だったのだ……。
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