第8話 絹の歌声 3-1

「姫さまは、ご気分が優れぬため、お会いにはならないそうです」

 二日後に訪れた姫さまの居室の前で待ち受けていた侍女は、わたしを止めた。

 歌えぬわたしに、いまだ腹を立てているのか。不甲斐ない教え子と見限られたのか。扉は固く閉ざされている。

 わたしは用意してきた菓子の包みを侍女へと預けた。侍女は品定めをするように、包みの重さを手で測り鼻を近づけて香りを確かめたりした。

「……姫さまが望むものが、このようなものでないくらい、あなたにはおわかりでしょうに」

 わたしよりもいくらか年下の侍女は、はっきりとそう口にした。その物言いに思わず眉間に力が入る。喉の渇きを覚えながらわたしは低く尋ねた。

「そなたは」

 侍女は唇を引き結び、視線を逸らさずにいた。

「何も存じあげません」

 今更ながら、認識の甘さに気付かされた。足しげく通い、そのたびに何度も同じ歌を繰り返す声がすれば、わたしがただ姫に歌って差し上げているとは思わないないだろう。何をしているのか侍女の知るところとなっても不思議ではない。

 無防備過ぎたか、わたしも姫も。こと歌のことになると周囲のことなど眼中になくなる。

 おそらくは、姫がわたしたちの言葉を解することも、四六時中そばにいれば薄々は感じ取っているだろう。

「姫さまは前回、あなた様が帰られてからは、ろくにお食事をしてくださらないのです」

 すべての責はわたしにある、とでも言いたげに侍女はわたしの瞳をまっすぐに見た。わたしは視線を受け止めることができずに、うつむいた。

「三日」

 はっと顔を上げると、侍女は扉に手をかけていた。

「三日、お待ちになるそうです」

 そう言い残して、侍女は扉の向こうへと消えた。わずかな隙間から、ほんの一瞬姫さまの後姿が見えたように思った。

 甘い菓子も香り豊かなお茶も、姫さまの無聊を慰めはしない。わたしのほかに誰も訪れることのない後宮の片隅で、姫の唯一の楽しみはウードを弾き、歌うことなのだ。

 わたしを遠ざけることは、そのままご自身を楽しみから遠ざけることに他ならない。楽器の一つも持たない姫さまには、どれほど苦しいことだろうか。いくら侍女があるていど姫のことを分かっていようとも、目の前で歌うことなど考えられない。

 類まれな美しい声を小さな体に閉じ込め、張り裂けそうな胸をだいてずくまっている姿が目に浮かび、わたしも苦しくなる。

 もういっそ、わたしのウードを姫に渡して後宮を去ろうか。急な申し出を受け付けられることはないだろう。せめて代わりとなる楽師を見つけなければ。しかし、ここ数日のあいだ町を歩いて気付いた。酒場の親父の言うとおり、門をくぐる商隊がぐっと減っていた。日中ならばにぎわうはずの市場バザールにも人影はまばらで、品ぞろえもさびしく感じた。

 庭を囲むように張り巡らされた廻廊を抜けて自室へと戻るしかない。いつになく、荒くれ者たちの騒がしい鍛錬の音も聞こえず、ほかの姫や愛妾たちからの部屋からはときおり笑いさざめく声が聞こえるばかり。

 姫はわたしが歌えると思っているのだろうか。食事もせずにいることは、わたしへの当てつけか。

 姫はご自身が特別であることを分かってはいないのだ。

 わたしは姫のような神からの愛を受けてはいない。指先が固くなっているのは、初めてウードを持った日から絶えることなく鍛錬を重ねた結果だ。体を変えてまで手に入れた今の歌声も、身につけるまでに気の遠くなるほど稽古を重ねてきたのだ。

 ……姫は叫んでいた。


 けいこ、けいこ、ねえさん、できる。


 歌の上手な姉ぎみと、楽器の名手である兄ぎみがいると姫は片言に話された。転じて、自分はできないのだと。

 あれほどの声の持ち主である姫さまでさえ、修練を積まれたと。ならば、わたしごときが届くはずがないではないか。与えられた三日で、わたしは歌えるようになるとは思えない。まるで心もとなく感じる。

 けれど、これいじょう食事を断たれて姫さまのお体を害するわけにはいかない。

 まるでご自身を人質にして、わたしに歌えといっているかのようだ。

 頑固者の姫さまは、わたしが歌えるようなるまで食事を断り続けるだろうという憶測も、あながち外れないのではないか。

 姫さまの、お気持ちを少しでも明るいものにできる手立ては、ただわたしが持っているという皮肉さ。

 歌うしか、ないのだ。

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