第7話 絹の歌声 2

 その午後は、一の妃の晩餐へと呼ばれていた。西隣のオアシスへと嫁いだ一の妃の姫さまが、お子たちを伴ってお里帰りをしているのだ。

 色とりどりの野菜が添えられた香ばしく焼かれた子羊、焼きたての麺麭パンと豆のスープ、ザクロや干したナツメヤシ・イチジクの実が山と積まれた食卓は華やかだった。

 玻璃の坏は葡萄酒で満たされ、侍女の手により銀の食器に料理が分けられると、宴の客人へと配られた。

 わたしは妃がお孫さまを抱き、あやすのをぼんやりと見ながら、ただ指を動かしウードを奏でた。

 ユェジー姫は今ごろ、どうおすごしだろうか。奥の小部屋に籠ったきりだろうか。

 物をぶつけた時の泣きだしそうな顔や、いらだちをこめて投げつけられた小さな菓子やクッション‥‥‥たとえぶつかったとしても、わたしが怪我などしそうもない物ばかりだった。


 けいこ、けいこ、けいこ。


 こめかみに筋を浮かべて叫んだユェジー姫からは、稽古にあけくれたであろう日々を思い起こさせた。あれほどの歌い手でさえ、稽古を重ねたのだろうか。まるで呼吸をするように、ごく自然に歌う姫でさえも。

 おなじ姫というお立場でも、一の妃の姫さまは王子と王女の母親であり、今は三人目を身ごもってらっしゃる。

 もしもユェジー姫にもお子さまがあったなら、また違っていたのかもしれない。

 いま目の前に座る姫のように、歌うのではなく歌を聞き楽しむ立場であったろう。

 けれど、それはユェジー姫には似つかわしくない。姫は歌い手なのだ。神に愛され、特別な声を与えられたと言い切れるほどの。

 ユェジー姫のいるべきところは、後宮ここではないのだ。しかし姫は後宮から外へと出ることは生涯ない。王は訪れず、おそらくお子も授からないのではないだろうか。ただ一人であの場所にいるより他に何ができよう。

 身重の姫はまだつわりがあるらしく、料理はあまり召し上がらなかった。ライムの絞り汁を水でわったものを少しばかり口にされている。このままこちらでお産をするのだろう。

「歌わないの?」

 一の妃はうえのお孫さまを膝に乗せて、わたしへ訊ねた。姫さまが口元を手布で軽くおさえると、あとを続けられた。

「わたしも久しぶりにサーデグの歌を聞きたいわ。向こうの歌い手にもサーデグよりもうまい者はいないもの」

 同意するように妃はうなずいた。

「ええ、サーデグほど高くて美しい声の者はいないでしょう。王が八方手を尽くして連れてきたのだから」

 妃さまや姫さま、侍女たちや同じく楽器を奏する者たちの視線がわたしへと集まり、ウードの弦のうえを指がぎこちなく動いた。

 わたしの背中を、冷や汗が流れた。

 ――いいえ、妃さま、それは違います。皆さまがご存知ないだけで、後宮ここにはわたしなど足元にも及ばぬ歌い手がいるのです。

 知らぬ間に体がこわばっていった。歌い出そうとしたわたしの喉はふいに詰まった。出口も窓もない部屋へ閉じ込められたように感じ、苦しまぎれに前奏を繰り返し、あえぐように唇を動かすわたしを皆は不思議そうに見つめた。

 ひたいに珠の汗が浮かんだ。

 宴の場からウードの音が途切れて消えた。

 わたしの呼吸は浅くなり、床に両手をついて体を支えた。そのまま一の妃に今宵の暇を乞うた。汗の雫が鼻さきからぽたりと落ちた。


 大汗をかいたわたしは、きっと青ざめていたのだろう。一の妃は宴から退くことを許してくださった。

 わたしは後宮の門番へのおざなりな挨拶をすませ、なじみの町の酒場へと足をむけた。

 すでに夕刻を迎え、城郭の門は閉まっている。オアシスで足を休める商隊キャラバンは駱駝から荷をといて餌と水をやり、それぞれの宿屋へと落ち着く頃合いだ。


「おや、珍しいお客さまだ」

 丸い鼻に丸い顔、揉みあげからの豊かな髭を長く伸ばした顔見知りの店主がわたしを認めると、すぐに奥の席へと案内してくれた。小さなランプが灯る中で、わたしは薄い壁にもたれてため息をついた。何も言わなくとも、店主は高杯に葡萄酒を入れて、目の前の卓に置いてくれた。

 葡萄の香りを感じながらも、酒に手を付ける気にはなれなかった。そのようすに気づいたのか、店主は杯をお茶に取りかえ、小さな菓子と煎った木の実をのせた皿を出してくれた。

 菓子は蜂蜜を使った焼き菓子だった。小麦粉にバターと蜂蜜を入れて薄く何層にも重ねて焼いた菓子は、女や子どもたちの好物だ。きっと姫さまもお気に入りだろう。あのとき、わたしにお茶をかけなかったのは、ウードが濡れてしまわないようにという姫の気遣いだろう。

 口に入れた菓子はほろりと崩れて、優しい甘味が疲れた体に染み渡る。

 店主は店の戸口に立って、独特の節回しで歌い、行き来する旅人に声をかけ客引きをしている。

 そういえば、わたしの他には客は二組しかいない。半分以上の卓は空いている。裏庭を小窓から覗いたが、駱駝や馬がいる気配がしない。このところの天候は悪くなかったはずだが、往来する者が少なかったのだろうか。

 いつもは何人かいる歌い手や弾き手、踊り子もいない。食堂と宿屋を兼ねた店は閑散としている。

「まいったね……今日もこれまでか。サーデグさん、あんた景気付けにひとつ歌ってくれんかね?」

 きゅうな申し出に、手にしていた茶器を落としそうになった。

「じょうだんですわ、もうあんたはここで歌う人じゃないというくらい分かっとるよ」

 笑いながら、新たに茶を器に注いでくれた。

「ここのところ、この調子ですわ」

 向かい側の椅子に腰をおろして店主は愚痴をこぼした。

商隊キャラバンの税金をあげたのがことの発端らしい。みんなここを避けて、税の安いオアシスのある北のルートを行くのが増えたと聞いとるよ。おかげて、商売あがったりだ」

 やれやれと、長い髭を何度も撫でる。

 北にあるオアシスも、東の同盟に加わっているはずだ。ならば通行税はこちらも同じはずなのに。

 税をあげた? ならば東からのお達しだろうか。ここの王が勝手に税を釣り上げてはいけないはずだ。

「町の中をガラの悪い連中が歩き回るし、なんだか穏やかじゃないねえ」

 あの連中を雇うために、必要な金を工面した? いや、そもそもなぜ王はあの者たちを雇おうと思ったのか。

「東へは集めた税の中から、何割かは支払うはずだろうが、王は余計に手元に残したくなったのかねえ」

 でも税をあげたせいで、商隊や旅人から避けられるのなら、王の策は裏目としか言いようがないのではないか。

「東からは姫が輿入れしているからといって、好き勝手できるのかねえ。じぶんとこの姫の輿入れ先を攻め落としたって噂も聞いたが」

 店主の言葉にぎょっとして、思わず腰が浮いた。と、店主は髭をひとなでした。

「いや、違ったな。東から輿入れした姫があまりに美しいうえに歌がうまくて、小国の連中が攻めいってきたときに姫を敵に渡すくらいならと」

「それは、かなりまえのことでは」

 なるべく声をひそめた。似たような話ならば、わたしも師匠から聞いたことがある。古今東西、美しい姫の物語ならばいくらでも伝わっている。

「そうかもな。おれも歳だから、思い違いしているかも知れん」

 店主は自分の器も持ってきて、茶の準備をした。そうだ、花茶。そうでなければ、なにか東の国のものを、姫に。今日のお詫びに。

「花茶か……東の国の茶葉でも何でも、何か手に入らないだろうか」

 ぎょろんと目を一巡りさせて店主はわたしを見た。

「……東の連中は、もうだいぶまえからほとんど見なくなったよ。むろん、店を出すやつもいない。だからさ、よけいに穏やかじゃない」

 同盟関係であるはずの者たちが姿を消した。それが意味するものは。

「まあ、奴らは何を考えているか、さっぱりわからんかったよ。細い目も、低い鼻も、平たすぎて誰もかれも見分けのつかない顔をしているし、なにがあってもほとんど変わらない面持ちだし」

「そんなことはない!」

 わたしの声の大きさに、店主は茶を取りこぼした。我に返って、思わず口を両手でふさぐ。わたしの声の甲高さに驚いたのか、客の目がわたしに向けられたのが分かった。

 わたしは懐から銅貨を数枚卓へと置くと、こぼした茶を拭く店主に小さく礼を言って店を後にした。


 たしかに初めは姫の顔はまるで仮面かなにかのようだった。眉ひとつ動かず、唇はいつも引き結び……。目は開いているのかどうか疑わしく思ったものだ。

 けれど、もう何度も見たのだ。

 ユェジー姫がかすかにほほ笑むのを。声をたてて笑うことはないけれど、嬉しそうにほほ笑む、満足げにうなずく、思うにまかせず怒りをあらわにする。今日のように。


 月明かりのなかを後宮に戻る道すがら、なんども姫の顔を思い浮かべた。薄い唇、糸を引いたような細い目、魔物のように見えた鉤鼻に張り出した顎。美しい姫とはいえないだろう。けれど……。

 花茶を今日の侘びにと思ったけれど、その考えは間違っている。姫は花茶を喜びはしないだろう。わたしが歌えないのであれば、何を持って行こうと意味のないことだ。

 短い影を踏みながら、進む大路は道行く人もまばらだった。

 ふと、胸をよぎったものがあった。


 東の物は売っていない。侍女は花茶をどこから手に入れたのだろう。


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