第6話 絹の歌声 1

 姫が静かに吸った息は、繊細な歌声となってわたしの耳を振るわせた。

 のびやかに響く、声そのものが弦……いや、姫さまご自身が楽器のようだ。つま弾くウードの音色と歌声は互いに手をとり、美しい調和となる。

 透かし模様の窓から陽光がさし、姫の体の左半分だけをまだらに照らす。結い上げた髪を飾る簪がにぶく光る。

 もう幾度となく耳にしたはずなのに、姫さまの歌は聞くたびにわたしの心を揺さぶる。

 これは、哀愁……だろうか、それとも遠く離れた故郷への郷愁? あるいはかなわぬ恋心のようなものだろうか。

 歌は終盤、階段きざはしを一段一段のぼるように音階が高くなる。その域にはいっても姫は顔色ひとつ変えず、声はかすれることなく極みに達し、ゆるやかに天空から舞い降りてくる。

 姫はお手本でも、けして手を抜くことはない。むしろこれが最後と思えるほどに歌いあげるのだ。

 目の前に置かれた茶椀から湯気がたちのぼる。椀のなかの茶葉がゆっくりとほどけ、花を咲かせ始める。

 湯が注がれるまえは、ただの枯れ葉の固まりにしか見えなかったのに。

 花茶は姫のようだ。外見は取り立てて美しいとはいえないけれど、湯のなかで静かに香る花のように、歌うことで大輪の花を咲かせるのだ。

 ぱしん、と撥鏤ばちるが打ちならされてわたしは歌をとめた。姫は撥鏤を手の中で打ち鳴らし、首を横にふる。

 もう幾度となく、止められている。今日もこれが初めてではない。

 姫からの手ほどきは、大詰めを迎えていた。初めて耳にしたときから、歌いたいと思ったその気持ちに変わりはない。けれど、わたしは最後の聞かせどころの高音域が出せないのだ。まるで締め付けられた鶏のようなつぶれた音になる。

 姫は撥鏤を短く打ち、わたしを見据える。白い喉に指をあて口を開けてみせると、澄んだ高音をするりと歌いだす。

 濁りのない澄んだ声は、大理石の床やモザイクの天井に、わずかだけこだまする。

「ちから、ぬく」

 いちど声を切って姫が一言添え、再び高く歌う。

 そしてまた、わたしに歌うよう撥で指し示す。

 分かっている。わたしだとて、それなりの年月を歌に費やしてきたのだから。高い音を出すには腹から声を出す。けれど喉からは力を抜く。わかっているはずなのに、わたしの高音は、かすれつぶれる。

 情けない歌を終えてわたしは姫のようすを伺う。眉をよせ、唇を引き結んでいる。

「……もう少し、音を下げても……」

 すぐさま首は横に振られた。

「できる」

 まぶたの細い隙間から、向けられる眼光は猫背になるわたしを鋭く射す。

「できません。‥‥‥できないのです、わたしには。もう何度もこんなやり取りを繰り返しているではないですか」

「できる」

 切れ長の細い目は、ひたとわたしを見つめる。

「あなたさまのように、わたしには歌えない」

 光り輝く天賦の才を与えられた姫さまと、月並みなわたしとでは違いすぎるのだ。姫の声のまえでは何もかもくすんでしまう。

「ない、できる」

「できないのです」

 お許しください、とわたしが目線を落とした絨毯には、規則正しい模様が織り込まれている。織り手の想いが込められて一枚の物語になる。そんなふうに歌えたらいいのに。姫さまのように。

 と、ぽつりと頭に何かがぶつかった。

 床に転がったのは、花茶だった。つぎにぶつかって落ちたのは蜂蜜の焼き菓子だった。

「な、なにをなさいます」

 あわてて顔をあげると、こんどは小ぶりのクッションが飛んできた。

「でき、ない! でき、ない!」

 姫はわたしと目を合わせると、かぶりをふり拳で激しく自身の胸を叩いた。できない、と。

「けいこ、けいこ、けいこ‥‥‥! でき、ない。ねえさん、できる」

 姉うえさまは歌がお上手だったと。では出来なかったのは姫ご自身のことだろうか。

「ない、できる‥‥‥」

 髪を乱した姫は、わたしに背を向け足音も高く隣の部屋へと去っていった。

 わたしは菓子やクッションが散らばる床に呆けたように座ったままで、その後姿を見送った。

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