第5話 手ほどき 3
ユェジー姫の指はウードの弦を押さえては揺らし、なめらかな旋律を奏でた。音は途切れることなく、ひとつながりの物語を雄弁に語る。
異国の香りのする、哀愁を帯びた調べだ。噂でしか聞くことのない、姫の生まれ故郷の東の国が目の前にたち現れる。
かつて後宮にいた姫の従者たちのように平板な顔立ちの人々が大路を行き交う。荷を担ぎ、驢馬や馬の
こんっと硬い音がして、目を開いた。
姫は演奏の手を止めて、わたしをにらんでいた。視線が合うともう一度、ウードの胴を曲げた指でわずかに叩いた。
「すみません。続きを」
わたしはいずまいを正した。
二日通い、二日開ける。
そうやって姫の元へいき、教えを請う日々が始まっていた。
姫は今日もいつもの位置に座っている。髪は簪で高く結いあげ、暑さをしのぐのに適した後宮の女性たちが着るゆったりとしたズボンと刺繍の入った白絹のブラウス、その上に姫が好むのだろう。錦を肩に掛けている。
「しかと聞いております。よろしくご教授ください」
昼前に伺い、昼の一服前にはおいとまをする。
けして長い時間ではない。その間に歌を一小節ずつ教わるのだ。
けれど、つい姫の演奏に引き込まれてしまう。歌が加わればなおのこと抗いがたい。
姫の歌は、真似ることが容易ではなかった。耳に馴染みのない抑揚は、そのまま口にすることも難しい。音もまた、わたしが出せないような域まで高低どちらにもあり、難なく歌い上げる姫の技量には目をみはるばかりだ。そのうえ、ウードを奏でる手も確かなのだ。
いったん最後まで歌うと、姫はわたしにウードを返す。かわりに、黒檀の卓の上に並んだ文具の中から朱に染められた象牙の
返されたウードでわたしは前回習ったところまでをおさらいする。姫がうなずけば先へ進むが、首を横に振り撥鏤を鳴らしたならば、手を入れるべきところを姫が歌う。
進み方は、しょうじき一進一退だ。
歌に気を取られるとウードを弾くのがおろそかになる。またその反対も。それでもわずかずつ織あがる絨毯のように歌を覚えていくのは、心が浮き立つことだった。
「姫さまは、どなたから歌や楽器を教わったのですか」
一通り練習がすむと、姫は再びウードをよこすように手を差し出す。きっと、本当はずっと弾き続けたいのだろう。
「
「……お母さまからですか」
音の響きから、母親を意味すると察し尋ねると、姫はうなずいた。母親は身分が低かったと聞いた。もしや、歌い手や弾き手として王宮へ出入りしていたのかも知れない。
「姫さまのお手並みは、お母さまゆずりなのですね」
ウードを胸に抱えて姫は首を左右にふった。
「きょうだい、じょうず」
姫にきょうだいがいることは初耳だ。ウードを抱え直すと姫はゆっくりと指を動かし、わたしがよく弾く曲を紡ぎ出した。教えたわけではない。姫は聞いただけで覚えてしまったのだ。
「ねえさん、うた。にいさん、ひく。じょうず、とても」
姫は末子らしい。繊細な指使いで弦をつま弾く姫よりも、歌声を自在に響かせる姫よりもさらに巧みだというのか。
「わたし、じょうず、ない」
かすれた声で話すと、姫は美しい高音でかすかに歌いだした。後宮の侍女や女御が好む、恋の歌だ。唇からまるで花弁がこぼれるよう……。
鼻歌でさえ、わたしの心を捕えて離さない。
姫はご自身を軽くしか感じていられないようだ。たしかに傍目からは王の訪いもなくなり、後宮の片すみに母国から一人切り離され、ないがしろにされているとしか映らないだろう。最初こそ、姫の容姿について揶揄するような言葉も耳にしたけれど、今はそれすらない。
姫の歌声を、わたしだけが知っている。それはとても栄えあることかも知れないけれど、どこか後ろめたさも感じる。
それに、あったかも知れない姫の別の生き方も考えてしまうのだ。
姫はなにを思って、後宮で暮らしているのだろう。不便ではないだろう。けれど……。
姫の歌は終わった。名残惜し気にウードを撫でると、姫はわたしへと返した。
棗椰子の影が短くなっている。もうお暇する頃あいだ。わたしは姫へと深々とお辞儀をすると、扉へと向かった。
「サーデグ殿」
帰りがけに、姫付きの侍女がわたしを呼び止めた。
「これは姫さまからのことづけです」
小さな布包みを手渡された。包みを開くと、草を丸めたようなものが二つあった。
「これは、花茶というものです。姫の故国のものです。近頃はめっきり手に入らなくなりましたが、先日思いがけず見かけたものですから。椀に入れたならお湯を注いで少々お待ちください。おいしいお茶になります」
球体に鼻を寄せると、かすかな花の香りがした。不思議なかたちだが、これが茶になると?
「……サーデグ殿が足しげく来てくださるようになってから、姫さまはお食事もよく召し上がるようになりました」
侍女はわずかにうつむいた。
「あまりにお痩せになって、心もとなかったので」
たしかに、このごろは目立っていた頬骨も少し丸みを帯びたように感じていた。
「サーデグ殿の、歌のおかげです」
歌という言葉に少しだけ力が加わっているように感じた。この侍女は聡い。姫とわたしの歌声を聴き分けられないほど耳が悪いわけがない。分かっていながら、口にはしないのだ。
「……」
無言でいるわたしは、侍女をにらんでいたのかもしれない。侍女がわたしに笑いかけた。
「また、お越しください」
その声に邪なものは感じられなかった。
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