第9話 絹の歌声 3-2
三日後、わたしは再び姫さまの居室の前にいた。日陰にいるというのに扉を叩く手が汗ばむ。
中から近づく足音に耳を澄ませると、じき扉は開けられた。いつもの侍女が固い瞳でわたしを見つめた。心なしか、やつれたように見えた。
「よろしいでしょうか」
侍女は視線をそらさずにうなずき、体をずらしてわたしを通した。前室は静かで中の様子は伺えなかった。ただかすかに中庭の棗椰子の葉が風にざわめく音ばかり。嗅ぎなれない甘い香りを鼻が感じ取る。
「ユェジー姫さま。サーデグ殿がお見えです」
いつもの錦を羽織り、背中を向けた姫さまがいた。髪はわずかばかり上でまとめて、必ず身につけている地味な簪で止めてあった。
「姫さま」
わたしの声に腰を過ぎるほどの長い髪がゆれ、ゆっくりと首を巡らせ、姫はわたしを見た。
頬骨がまた目立つようになっていた。化粧はしているが、目の下の黒ずんだ皮膚は隠しようがなかった。
深くお辞儀をしてから侍女に目配せする。
「お食事は」
わたしの小さな問いかけに、侍女は厳しい表情で首を横に振った。おそらく彼女も気に病んでいたのだろう。近くで見ると肌が荒れていた。
わたしが歌うまで何も食べないとでもいうのか。
ご自分を大切にしない姫さまの情の
それを感じ取ったのか、姫はかさついた薄い唇を引き結び、眉間にはさらに深くしわを寄せた。
前回は絨毯に平伏することしかできなかった。今日とて、うまく歌える気はしない。けれど、もう逃げるわけにはいかない。わたしは大きく深呼吸して、姫のまえに腰を下ろした。
初心に立ち返って、一つずつ。
三日前、自室へと戻ったわたしは、ウードは持たずに、一音を一息でできるだけ長く発声した。
喉を緊張させぬよう、体をこわばらせぬよう、腹から出した声を頭へと抜けていくように思い描いて。
師匠からおそわったことを、今ひとたびなぞる。
低い音から、少しずつ高い音へと移っていく。
焦るな、糸を手繰るように腹から声を出せ。
師匠は男のままであったけれど、低い音域の豊かさはもちろん、高い声も堂々とした体躯に響かせ歌った。酒場で難しい顔で話し込む男たちも、よく通る歌声に思わず振り向いたものだ。
拙いながら師匠に合わせてウードを弾き、歌った日々のことを思い出した。粗末な土壁が並ぶ町の片隅。小さな窓に灯りがともる夕暮れ時から、師匠とふたりで酒場や宿屋を巡った。
男ではなくなった自分は、酒場に集う者たちから奇異な視線を向けられているように感じて、いつもおどおどしていた。体に釣り合わぬ大きなウードを抱え、身を縮めていた。
そのたびに師匠はわたしに語りかけた。
怖がることはない、背中を丸めるな、顔を上げろ。
おまえの声はとてもきれいだ、と。
怖がるな。
姫に歌って差しあげるのだ。
ウードで前奏をつま弾く。ゆっくりと息を吸い、歌い出す。
緊張から弦を押さえる指が汗ばみ滑りそうになる。焦らずに弾け、大丈夫だ。姫はわずかに顎を引き、わたしから目を離さない。いつもの
姫から口づたえに教わった曲、遠い異郷の哀愁を帯びた歌。意味は分からないが、歌うときにはいつも胸が締めつけられるような、郷愁に似た思いに駆られる。
音律は徐々に高まる。
天へ、天へとのぼれ。祈るような思いを胸に抱く。
この部屋に来るまで、幾度練習をしたことか。
自室の一角に住まうものはみな演奏者とはいえ、夜が更けても歌い続けるわたしの部屋の壁は、隣の
姫さまや侍女の顔色の優れないことばかり気になったが、おそらくわたしも似たようなものだろう。
曲は最後の高音にさしかかる。力みそうになる肩をつとめて寛がせる。
高みに昇る
……失敗だ。
最後の和音を弾き終わったとき、わたしは奥歯を噛みしめていた。
室内はまた無音になった。姫は置き物のように動かず、ただわたしを見ていた。逆光の中で、切れ長の瞳ばかりが光って見えた。
「もういちど、お願いします」
あきらめるわけにはいかない。姫は静かにうなずいた。
再びウードを抱え直し、わたしはしくじった部分を何度か繰り返した。自室での練習では辛うじて成功していた。けれど、それはあまりに弱弱しく、姫さまの声には遠く及ばない。細くともしなやかに豊かに響けばいいのに。
呼吸を整え、また頭から歌いなおした。お手本である姫の歌を耳にした時に、思い浮かべる情景をそのまま声にしていく。
けれど思いとは裏腹に、つまずき、音は外れ、ウードの指先はついて行かず、幾度となく失態を姫のまえで繰り返す。
気づかわしげに、侍女が控えの間の扉を細く開けて様子を伺っているのが分かった。
姫はただ座っている。ひたいに下りた髪の一すじも動かさず、まるで人形のように。
棗椰子の影が短くなった。侍女はわたしと姫を隔てる黒檀の小卓に、そっと水を入れた杯を置いた。貴人の前で水を飲むという無作法に気を回すよゆうもなく、のどを潤し歌い続けた。
どれほど時が過ぎたのだろう。やがて茜色の光りが部屋に差し始めた。
これほどやっても、うまく歌えぬ自分が歯がゆかった。もう次で終わりにしよう。一介の楽師が王の妃たるユェジー姫の部屋にいてよい
不甲斐なさに滲んだ悔し涙をうつむきざま、ぞんざいに袖で拭う。
と、姫がひとつ手を打った。思わず顔を上げると、姫はウードを弾くよう手で示した。
命じられるままに、ゆったりとした前奏を始めると、姫は歌いだした。
滑らかな白絹のような声が夕暮れが訪れ始めた部屋に響く。姫はわたしにも歌うよう、さし招くように腕を動かした。それはまるで、舞踏のような雅な仕種だった。
遅ればせながら、わたしも姫と声を重ねた。
繰り返しなぞった曲の道しるべ、姫の声はどこまでも伸びやかだった。つられるままに、わたしも同じく歌った。姫はわたしの声と手をとるようにして声を合わせた。
触れたことのない姫の手のあたたかさを感じた。歌声は姫ご自身だ。豊かな音量、細やかな表現、歌詞の意味は分からないけれど、聴く者の胸に迫る哀切。
そうか、姫さまはもう二度と故郷の地を踏むことはかなわないのだ。
遙か遠く、東の果てにある故国を姫は見ることはないのだ。
高く伸びてゆく梯子にとりつき、遅れまいと姫について行く。高く、高く、天上に手が……。
不意に手を振りほどくようにして姫は歌を止めた。わたしはそのまま、一気にのぼり詰めた。
ぱん、と目の前で水がはじけたように感じた。音は反転し、更に高みへと駆け上がり最後の扉が開いた。
声は信じられないほど高く伸びていった。
わたしは青空に解き放たれた。
最後の一節まで、声は外れることがなかった。わたしは、歌い上げた。
ウードの弦のふるえか、わたしの体がふるえていのか。
我が両手を見つめた。歌い上げた高い声は自分のものだったのか、それとも疲れが見せた夢幻か。わたしはすぐに歌った。幾度も幾度も。
声はあやまたず、記憶の中の姫の高音をなぞった。わたしの
頬が熱い。いつの間にかわたしの頬を涙が濡らしていた。
「姫さま……」
姫さまは、今まで見たこともない笑顔でうなずいた。
思わず姫の前にひざまずき、ひたいを床につけた。
「ありがとうございます、ありがとうございます。あなた様こそは無上の教え手でございます」
むせび泣くわたしの背に小さな手が当てられた。
「ちがう」
ささやくような声だった。
「ちがう、あきらめない、あなた」
いつものようにたどたどしく、掠れた姫の声はわたしの努力を労わった。
渡された手巾で顔をぬぐい姫さまにもう一度、平伏する。
「ユェジー姫さま。わたくしの師匠さま……」
姫はわたしに顔を上げるよう肩に触れた。恐れ多くも、わたしの目の前に姫さまの瞳があった。
「おなじ」
「今なんと……」
「おなじ、なかま」
姫さまの瞳にも涙が光っていた。
そのとき、わたしも知った。長い長い旅路の果てに、声を重ね心を重ねる人に出会えたことに。
夕暮れの朱色の光は部屋に満ち、城門の閉鎖を告げる鐘の音が遠くに聞こえた。
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