五頁目 滲んでいく夕日

『時々、光が見えることがあるんだ』


もがけばもがくほど泥沼にハマっていく気がして、僕は考えることを辞めた。目を強くつむっていると、声が聞こえてきた。少しだけハスキーで、それでいて透き通っていて、声の主が誰なのか、ハッキリと知ることが出来た。


君だった。


さっきまで、僕は海を彷徨っていたはずだった。僕の記憶にはなかった、ユウキとのあの会話についてずっと考えていたはずなのだが、どうやらいつしかシーンが切り替わっていたらしい。どうやら僕は、また一つのシーンを無駄にしてしまったようだった。


それはそうと、僕はやっと君に出会えた。


『君ってさ、時々コーヒー豆みたいになるよね』


「どういうことだ」


これは、僕が大学二年生の頃の記憶だった。某国立大学に通っている僕は、医務室で君と喋っていた。見慣れた風景だ。しかし、このコーヒー豆の会話は、僕と君が高校生の頃に交わしたモノのはずだった。


色々なことが違っていた。眼の前にいるのは僕が一番良く知っている君だった。けれど、同じようで違っていたんだ。何かが、どことなく、違っていた。大学生の君は、そんなに髪の毛を伸ばしていなかっただろう。大学生の君は、いつもメガネをしていただろう。


彼女は決まって、ショートヘアだった。眼の前にいる女の人は、僕がよく知っている人のようで、違っていた。頭はいいのにちょっと抜けたところがあって、たまに信じられないくらいのドジを踏む君。


君の名前は、坂井 薫(さかい かおる)。


君が本当に薫なのか、今の僕にはわからなかった。そうしてようやく気づいたことがあった。いま見ている走馬灯が、僕の記憶と微妙にずれている原因。


それは、ユウキと話したあの海での出来事だった。


どういう訳か、どういう因果なのか、僕が僕自身を乗っ取り、ユウキに悪態をついてしまったあのシーンことだ。僕の記憶と、見える記憶が微妙にずれてきたのは、恐らくあの瞬間からだった。


あの瞬間、ユウキの中で一瞬の困惑と怒りが芽生えたのであろう。あの後に話すはずだった、僕にとってとても大切なあの話を、ユウキは躊躇ってしまったんだろう。


そりゃあそうだ。突拍子もなく根も葉もない悪態をついてくるやつに、誰が大切なことを話すもんか。


薫は病気だった。生まれつき目が見えないのだ。彼女は、光を見たことがなかった。


ユウキは、自分の友人でなかなか外に出られない薫を不憫に思ったのだろう。僕は当時、あの海で、薫のことを紹介されるはずだった。


ああ、完全に地雷踏んでしまったな。


ユウキはたくさん考えたのであろう。どうすれば薫に光を見せてやることが出来るのか、どうすれば、薫を楽しませることが出来るのか。薫が、生きることに対して悲観的にならないようにするにはどうすればよかったのか。


そこでユウキは、親友の僕を紹介するつもりだったんだろう。自分で言うのもあれだが、僕はユウキから絶大な信頼を得ていた。あの一言がなければの話だが。


となれば、僕は何故今、ここで薫と再会しているのだろう。僕は誰から、薫の事を教えてもらったんだろうか。ユウキが話してくれたのか?くそ、もどかしい。いつでも薫に話しかけることができれば、今がどういう状況なのかを聞き出すことが出来たのに。


そもそもこの状況で、僕と薫は一体どれくらいの仲になっているんだろうか。当時大学生の頃の僕らは、既に交際が始まっていたはずだが。


僕にとって一番重要だった高校時代の走馬灯がごっそり飛ばされているのを見ると、恐らくこの世界の薫と僕はそこまで親密ではないのだろう。高校時代、君に「コーヒー豆みたい」と言われたことがきっかけに仲良くなった。そこからお互いに仲を深めていって、高校三年生の冬に、交際が始まったからだ。


だが、君は大学二年生の僕に対して「コーヒー豆みたい」と言った。これが意味するのはつまり、現段階の僕らはそこまで親密ではないということだ。ここから君と大切な時間を過ごすにしても、あまりにも時間がなさすぎる。なぜなら僕は、もうすぐに死ぬからだ。死んでしまえば、この走馬灯も消えてなくなる。君を守ってやれなくなる。


『あ、そうだ!私ね、実はピアノが弾けるの。』


「へえ、それは凄いな。」


『反応が薄くてつまんないよ』


やっぱりそうだ。彼女が盲目にしてピアノが弾けるという事実は、高校二年の頃に既に知っていた。ここから推測するに、僕らは恐らくまだ知り合ったばかりなのだろう。この世界の僕は、僕のせいで、薫と過ごす時間を数年分無駄にしてしまっていたのだ。ごめんよ、僕。


『今日、家に来る?ユウキが家で鍋しようって言ってるの』


「そりゃいいな。寒くなってきたし、せっかくだからお邪魔しようかな。」


『そう、良かった!なら、ユウキにメールするね。』


ああ、そういうことか。


僕は妙に冷静だった。


この会話で僕は、この世界での僕らの関係がどういうものなのかを察した。あの海で、ユウキは僕に薫の存在を告げなかった。


元いた世界だと、あそこで薫と親密になるのは僕で、そして薫と付き合うのも僕だった。


だがこの世界では、どうやら違うようだった。あの海での一件が消滅してしまったのが原因で、ユウキは僕の代わりに薫と沢山の時間を過ごしたわけだ。そして今この瞬間、ユウキと薫は交際関係にある。


何故僕は、僕の走馬灯でこんなに苦しい思いをしているのだろうか。かつての恋人が親友と付き合っている世界の光景を見せられているのだろうか。意味がわからなかった。


そもそもこの走馬灯が何なのかもわからなかった。何故走馬灯なのに、過去に干渉したり、そのせいで未来が変わってしまったり、果たして僕が見ているのは本当に走馬灯なのか。


まただ。


また、考えても到底わかるはずがない壁にぶつかってしまった。


もう、連れて行ってくれよ。


死んでからも考えてばっかりだ。


生きている間、考えることを辞めて逃げ続けた僕への罰のようにも思えた。嫌なことから目を逸らして、逃げて、逃げ続けて、挙げ句の果てには、薫を殺した。


そうだ、僕は薫を殺したんだ。


間接的にとは言え、僕は恋人を殺していたんだ。


なのにどうして、今更、どの面を下げて薫に会えばいいというのか。


むしろこの方が良かったのかもしれない。薫はユウキと付き合っていたほうが良かったのかもしれない。僕じゃ不釣り合いだったんだ。僕じゃ、彼女の宿命を背負いきれなかったんだ。


────────────────


『ねえ、私には君が見えないよ。』


そうか。


『私ね、光は見えないけれど、心は見えるの』


そうだったな。


『でもね、君の心が見えなくなっちゃった』


そりゃ、残念だ。


『ちゃんといるよね?君は、私を見ているよね?』


どうかな。


『私は、君を見てるよ。ちゃんと見てるから。』


────────────────



薫が死んだのは、夕日が嫌に照りつける夏の日だった。


君の涙を拭い去ろうとするかのように、


熱く熱く照りつける太陽の前で、


僕は君の手を離した。


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