神の山の巫女

三谷銀屋

神の山の巫女

 冷めた白米とわずかな山菜、味噌汁の載せられた昼餉のお膳を手にしたまま、月子は敷居の前でぎょっと目を見張り、立ちすくんでいた。

 「凛子様・・・・・・何をなさっておいでです?」

 その時、凛子には、月子の姿が逆さまに見えていた。逆さまであっても、月子が頬をピクピクとひきつらせているのが分かった。

「いくら何でも、祈祷のお部屋で逆立ちをするなんて・・・・・・神様に失礼ですわ」

 月子の言葉で、凛子は逆立ちでもたれ掛かっていた壁から足をおろした。視界の端で、朱色の袴の裾がひらりと揺れた。

「ごめんなさい」

 悪びれる様子もなく、さらりと涼しげな声で凛子は一応謝る。しかし、月子は余程機嫌を悪くしたのか、何も答えずに床机にがちゃりとお膳を置いて祈祷部屋を出て行ってしまった。

 凛子は、ため息をついて座り、別に食べたくもない、見飽きた菜のものが並んだ質素な昼餉の飯をもそもそと口に運ぶ。

(しょうがないじゃない・・・・・・)

凛子は胸の内で悪態をついた。

(だって・・・・・・退屈なんですもの)

 本当に凛子はいつもいつも、慢性的に退屈していたのだ。

 なぜならば、凛子は物心がついてから一度も、山奥に建つこの神社の建物の外に出たことがない。

 凛子は生まれながらにして、この山におわします神に仕える巫女であった。

 ちょうど10年前、山麓の小さな貧しい村で生まれた子供の中から、占いで「巫女」が選び出された、それが凛子だった。

 社の祭神は、この山の山頂に湧く湖に棲むという龍神。ご神体はこの山そのもの、そして社の祈祷部屋の祭壇に納められている神鏡である。山は神域なので、神職の者以外は入ることはできない。村人は、山の麓に建てられた別の拝殿で、神に祈りを捧げ村の安泰を願うのだ。

 明治某年。文明開化の波は、いまだこの村には及んでいない。

 凛子の毎日の仕事は朝夕の一日に2回、祭壇に祀られた神鏡に祈祷を捧げることだった。凛子が祈ることで、村人の願いを神に伝える橋渡しの役目を果たすことができる、月子にはそう教えられた。月子はこの社の神主の娘で、凛子の身の回りの世話のほとんどは彼女がやっていた。出戻りなのか、三十を幾つか越えているように思えた。いつもムッツリとつまらなさそうな顔で、ツンケンとして怒りっぽく、凛子と気が合うとはお世辞にも言えない。しかし、祈祷部屋から出ることができない凛子にとっては、月子と年老いた神主が唯一、言葉を交わすことができる相手だった。


 高天原にましまして

 天と地に御働きを現し給う龍王は

 大宇宙根元の御祖の御遣いにして

 一切を産み一切を育て

 万物を御支配あらせ給う王神なれば・・・・・・


 凛子が物心ついてから何千回、何万回と口にしてきた祝詞。

 しかし、凛子は一日に2回、この祝詞を詠み、決められた作法で簡単な儀式を行うことの他は特にすることがない。それであっても、祈祷の部屋には日中は凛子が一人きりで取り残され、月子が昼餉の膳を運んでくる以外は誰も入ってはいけないことになっていた。

 十歳の子供にとっては、拷問とも思える程の退屈さである。

 暇つぶしに逆立ちやでんぐり返しをしてみてもつまらない。

 月子が持ってきてくれる書物を読んでみることもあったが、何回も読めばさすがに飽きてしまう。

 祭壇の神鏡をのぞき込み、映りこんだ自分の顔にしゃべりかけてみることもあったが、鏡の中の自分が言葉を返してくれるわけでもないから、話し相手にするには物足りなさすぎた。

 ある日、凛子は部屋の中をあてどもなく、グルグルグルグルと歩き回っていた。何十回と。何百回と。

 それはその日に限らず、退屈のあまり凛子がよくやる行動だった。ちょうど見世物小屋の狭い檻の中で、見世物の猿やら虎やらがあっちにこっちにやたらウロウロしているのと同じような具合だ。

 しかし、この日は歩き回っているうちに、意識がふと朦朧となってきた。

 足下がふらふらと覚束なく、靄のような、光のような暖かなものに全身が包み込まれる感覚。

 凛子はこれ以上立っていることができず、ぐらりと祭壇に倒れかかった。がちゃん、と何かが倒れる音が、薄れていく意識の中でやけにハッキリと響いていた。


 どれくらい時間が経っただろう。

 目を開ける。飽きるほど見慣れたはずなのに、どこか違和感がある風景。

 よく見ると、凛子が倒れかかったはずみで祭壇の位置が大きくずれていた。祭壇の後ろの壁が剥き出しになっている。

 凛子は、その壁に、黒く煤けた小さな引き戸が付いていることに気がついた。

 この部屋にこんな戸があったなんて・・・・・・。

 凛子は目を丸くした。十年近い月日をこの部屋で過ごしてきて初めて知ったことだ。

 それは、子供の凛子がやっと通れそうなくらいの大きさの小さな戸板だった。凛子の胸が急にドキドキと高鳴った。退屈すぎる毎日に、今、初めて未知のものが出現したのだ。

 凛子は迷わずに手をかけて、戸を開いた。その向こうは、闇。

 緩く吹き上げるひんやりとした風が凛子の前髪をサラサラと揺らした。

 よく目をこらすと、戸口の向こうは階段になっていて、ゆったりとした傾斜で下に向かっているようだ。

 凛子は、祭壇の蝋燭の明かりを手に取ると闇に包まれた階段へ足を踏み出した。

 

 カビくさく湿った、真っ暗闇の坑道を、凛子は蝋燭のかすかな明かりを頼りに手探りで降りていく。

 足下の石段も湿り気を帯びてつるつると滑りやすく、一歩歩くのにも一苦労だった。

 この暗闇はどこまで続いているのか。凛子の心を度々、恐怖と不安が襲ったが、生まれて初めて社から別の場所に出られた興奮は、恐怖も不安も、全ての感情を越えて凛子の足を一歩ずつ進ませていた。

 どのくらい時間が経ったのか。

 やがて凛子の行く手に小さくぼんやりとした光が見えた。

 階段を一歩降りる度に光は、だんだんと明るさを増していく。

 同時になにやら人の話し声も聞こえた。

 仄かな明かりとくぐもって響く声に誘われ、ついに凛子は階段の一番下に降り立った。こんなに長く歩いたのは初めてだから、ひどく疲れを感じる。

 階段を降りた先にあったのは、凛子ひとりが立っているのがやっとな程の狭い部屋だった。そして、蝋燭の明かりで照らしてみると、すぐ傍には凛子の祈祷部屋にあったのと同じような祭壇が置かれているのが分かる。

 凛子は祭壇の蝋燭立てに持っていた蝋燭を立てた。

 部屋の外から、またボソボソと人の声が聞こえた。

 戸板の割れ目から外の光が射し込んできていた。凛子が階段を降りる時に見た光はこれだったのだろう。

 凛子は戸板の割れ目にそっと目を当てて外を見た。

 見たことのないような、ツギハギだらけの薄茶色い粗末な着物を着た痩せた人間たちが並び、こちらに向かって手を合わせて何やら拝んでいた。今まで凛子は眩しい程クッキリと色の分かれた白と朱の装束しか着たことがなかったので、目の前にいる人々は何か異様な存在のように見えた。凛子が唯一顔を合わせる人間である月子や神主も、目に前の人たちとはまるで違って、もっとこざっぱりとして清潔感のある格好をしていたはずだ。

 やがて凛子は気が付く。目の前の人間たちは、山の麓の村の住人たちではないかと。そして、この場所は、村人たちが祈りを捧げるために造られた拝殿ではないか。

 山の中腹に建てられた本殿・・・・・・つまり、凛子の住まう社と、里の拝殿は地下に掘られた坑道によって実は繋がっていたということなのか・・・・・・。

「この山の奥には、わしらの声を神様に伝えてくれる巫女様が住んでいるそうな」

 今まで熱心に両手を会わせて神を拝んでいた中年男が、顔をあげて呟いた。

 凛子は思わず体を堅くした。

「ありがたいことじゃ。なんでも巫女様は、昼も夜も寝る間を惜しんでこの村のために祈りを捧げてくれておるそうじゃ」

「ほんにありがたいこと・・・・・・」

 彼らの話している「山の奥で祈祷を続けている巫女」は間違いなく凛子のことだった。

 ここで今、拝殿の前の村人達の会話を盗み聴きしている凛子。

 村人達の話に出てくる山の奥の巫女。

 両者は、同じであって、同時に全く違っていた。

 凛子はしばらく村人達の会話を聴いていた。

 やがて村人達の話は、今年の稲の育ち具合や農具の貸し借りなど、凛子が全くわからないものに移っていった。

 凛子はちびけた蝋燭を手にとると、再びゆっくりと闇につつまれた坑道の階段を上っていった。

 

 社の部屋に帰った凛子は、秘密の通路に繋がる戸板が月子に見つからぬよう、祭壇の位置を元に戻した。

 凛子はふと思い立って祭壇の神鏡を手にとってのぞき込んだ。

 鏡の面に映る少女は紛れもなく凛子自身のはずだが、今日はなぜか全く違う人間が映っているように感じた。

 夜も昼もなく、寝る間も惜しんで村のために神に祈りを捧げる巫女・・・・・・

 鏡に映る凛子の顔にハラリと前髪がかかり、蝋燭の光で照らされて目元に黒い影がくっきりと浮かび上がる。

 そこに映っているのは、連日の過酷な祈祷のためにすっかりやつれ細り、目には凄惨な呪術的な輝きを宿した、20歳くらいの大人の色白の女性のように見えた。


 その日から、凛子は祭壇の裏の秘密の地下道を通って山麓の拝殿に行き、お参りにきた村人達の会話を盗み聞きするのが日課になった。

 ひとしきり手を合わせて各々の祈りを終えた村人達は、その場でいろいろなおしゃべりをしていく。

 その中には、たびたび「山の奥の社の巫女」の話題が出て来た。

 村人は凛子の姿を見たことはないので、様々な憶測と想像が村人達の心の中に多様な「凛子像」を作り出していた。


「巫女の凛子様は、100年以上生きている老婆だそうだ」

「いやいや、100年間、社におわして祈り続けているが、姿形は美しい乙女のままだそうな」

「巫女様は、人間ではない。頭に鹿の角が生え、体は金色の鱗で覆われた龍神様の化身なのだ」


 凛子は村人達の噂話を聴いた後で祈祷部屋に戻ると、かならず祭壇の神鏡を覗きこんだ。

 そこに映る凛子は、社の小さな部屋の中で暇を持て余す、ひとりぼっちの少女ではない。

 村人の話の中に出てくる巫女がそこには映っている。

 鏡には、顔中しわくちゃの老婆だったり、神秘的な面差しの美しい乙女だったり、輝く鱗に覆われた頭に鹿の角が生えた神獣だったり、その時々でいろいろな凛子が映し出された。

 凛子はもう退屈でも寂しくもなかった。

 この部屋にはもうひとりぼっちではないのだ。

 凛子ではない凛子がそばにいてくれる。

 村人達の空想と祈りが投影された「凛子」達が凛子の目には確かに映っていた。


 しかし、ある日、変化は訪れた。

 凛子がいつものように麓の拝殿に降りていって戸板の隙間から外を眺めると、それまで見たどの村人とも全く違う、奇妙な人物が立っていた。

 その男はピッチリとした袖の着物を着て、二本の筒が出っ張ったような袴を履いていた。鼻の上には、丸い枠を2つ繋げたようなものを載せて、目はその2つの丸枠から覗かせているようである。口元には八の字を描く髭がちょろんと生えている。

 男は、他の村人とは違い、拝殿に向かって手を合わせたり、お辞儀をしたり等はしなかった。

「先生、本当にこの山を切り崩しちまうのかね?この山は神様の住まう山だよ。神様が怒るんでねぇのかなぁ」

 男の傍に立つ、人の良さそうな丸顔の老爺が言った(凛子は、この老人が「ソンチョウ」と呼ばれる人物であるという事を最近知った)。

「村長さん。この山にはね、石灰という貴重な資源が埋まっているんだよ」

 センセイと呼ばれた男は大仰な素振りで両手を広げると、ソンチョウに向かってニカッと笑いかけた。

「石灰というのは、我が国の産業の発展に大いに役立つものだ。日本は欧米に追いつくためにもっともっと産業を発達させ国力を強くせねばならん。そのために必要な資源だ。村だって今よりも豊かになる。神様だって喜んでくれるさ。何、神様の棲む山だから入っちゃいけない?君、それは迷信というやつさ。文明開化の時代なんだよ、村長さん。このような村でも、もっと科学的で論理的な知見をみんなが持たなくちゃあならんよ」

 凛子は、言葉には言い表せないようなイヤな気分が胸の奥に渦巻くのを感じ、男の話は最後まで聴かず、山の社へと帰っていった。


 その日、凛子がのぞき込んだ神鏡には何も映っていなかった。

 ただの凛子の顔さえも・・・・・・。

 何も映らない真っ黒な鏡面に蝋燭の明かりだけがちらちらと瞬いた。


 次の日から凛子はもう、秘密の坑道を通って村の拝殿に行くことはやめた。


 何日かして、山は騒々しくなった。

 神域だったはずの山に沢山の人々が入り、木を切り倒し始めた。山を丸裸にしてからセッカイというものを堀りだそうとしているのだろう。

「このお社も取り壊すそうです・・・・・・私たちも出て行かなくちゃなりません」

 月子が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら凛子に伝えにきた。


 高天原にましまして

 天と地に御働きを現し給う龍王は

 大宇宙根元の御祖の御遣いにして

 一切を産み一切を育て

 万物を御支配あらせ給う王神なれば・・・・・・


 凛子は、その夜も、いつものように祭壇の前で祝詞を奉じた。

 祝詞の奏上が終わると、物音のない夜の静けさが凛子を包んだ。

 凛子は不意に立ち上がり、祭壇を押し動かす。

 坑道に通じる戸を開けた。

 深い深い闇。

 しかし、それだけではなかった。戸口の向こう、暗闇の中には、沢山の真っ白な顔がふわりふわりと浮かび上がって、口々に何かをしゃべっているのが凛子には見えた。

 それは全て、「凛子」の顔だった。


 やつれた女呪術者の顔をした凛子。

 しわに覆われた老婆の凛子。

 不老不死を授かった美しい乙女の凛子。

 鹿の角が生え、鱗に覆われた神獣の凛子・・・・・・


 凛子は手を伸ばした。

 私。私。たくさんの私。


 高天原にましまして

 天と地に御働きを現し給う龍王は

 大宇宙根元の御祖の御遣いにして

 一切を産み一切を育て

 万物を御支配あらせ給う王神なれば・・・・・・


 泉の水が湧きこぼれるように、たくさんの凛子の口から祝詞の声が湧き上がっていた。

 凛子達の声のひとつひとつは、まるで不思議な音楽のように、闇に満ちた空間に独特な旋律を伴って和した。

 凛子は祝詞を口ずさみながら闇に向かって足を踏み出し、たくさんの凛子自身に囲まれ、露に湿った階段をどこまでもどこまでも下りていく。


 ややあって、凛子を就寝を促すために、月子が祈祷部屋の戸を開けた。

 凛子はどこにもいなかった。


 山の奥の社の巫女・凛子はそれ以来行方不明になった。


 ひと月後、社は壊された。

 不思議なことに、凛子が通って行った祭壇の裏の戸も、拝殿に続く地下道も、夢幻のように消え去り、誰一人として目にすることはなかった。


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神の山の巫女 三谷銀屋 @mitsuyaginnya

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