第20話 私の中の執事さん

「そう、ですか」


 セルジュさんは少し寂しそうに笑うと、一度強く目を閉じた。

 その後開かれた明るいブルーの瞳からは、もう寂しげな色も消え、そこからは強い意志が見えた。

 そんな、そんな強い眼差しだった。

 その強い眼差しで、セルジュさんは「では、ここでお別れです」と言った。


 その言葉はきっぱりとしていて。

 思わず縋るように見上げてしまった。

 でも、セルジュさんの表情が揺らぐことは、無かった。


 先に手を離したのは私の方だ……。お義兄さんに何の義理もないセルジュさんに無理なお願いをしたのも。

 それなのに、ひとりになりたくないなんて……なんて私は我儘なんだろう。

 矛盾に頭が混乱するばかりで、きっと私はぼうっとソファに座り込んでいたんだと

思う。

 セルジュさんは自分のスマホを取り出し、あちこちに連絡を入れていた。

 でもそれは、殆どが日本語じゃなかったから、どんな話を誰としているのかも

分からずに、私は意味の分からない言葉をただ聞き流すだけだった。

 いつも、私に分かるよう日本語で話してくれたじゃない。

 ぼうっとしながらも、またそんな我儘な思いがよぎる。


 一通り連絡が済んだのか、セルジュさんが急かすように私を立たせた。


「代わりの人間を呼びました。もうすぐこちらに参ります。ご自宅まではその人間が

付き添います」

「……え? 私、ひとりで帰るの?」


 まただ。

 頭の片隅にいる冷静な私は「セルジュさんは私のお願いで、すぐにお姉ちゃんの言うスタジオに向かうんだよ。ひとりで帰るの当たり前じゃない」って言ってる。

 でも、どこか理解できない自分もいるんだ。だからこうしてまた我儘な行動に出てしまう。


「お嬢様は、明日からお仕事でしょう。わたくしが仕事をすることも、ずっと勧めてくださっていたじゃないですか。やっと仕事が見つかるかもしれないのに、喜んでくださらないのですか?」


 ズルイ。こんな時にそんな風に言うなんて。

 確かにただの居候みたいだって言ったことはある。根っからの庶民な私には、無職ってなんか『保障』がなくって不安で、ただ私のために毎日を消化するセルジュさんに、それとなく就職を勧めてきた。

 だけど、それはこんな形じゃなくって……じゃあ、どんな形の『就職』なら良いの?

 ここで私は、なんで『離れて働くこと』が嫌なのか、益々分からなくなってきた。


「お嬢様?」

「もっと、別の仕事だってあるじゃない。地元で、探したら……!」

「お嬢様」


 両肩に手を置かれ、軽く身体を揺すられた。


「どうか少し、落ち着いてください……。今からお姉様のお手伝いに行って参ります。それには、わたくしは東京に残らなければなりません。……お分かりですね?」


 カクカクと、まるでロボットのように機械的に頷くあたしに、セルジュさんはやっと笑顔を見せた。


「採用されないかもしれません。不採用でしたら、すぐに追いかけますよ」


 そんなの慰めにしかならない。

 お義兄さんは、きっとセルジュさんを離さない。

 自分の直感なんて、今まで信じたことはなかったけれど、これには自信があった。


 セルジュさんは、帰って来ない。




 * * *




 あの日、私はどうやって自宅に戻って来たか分からない。

 気がついたら、家でママお得意の肉じゃがを食べていた。

 パパと、ママと、私と。

 いつも囲んでいたダイニングテーブルは、ひとつ、空いている。それが視界に入るのが嫌だった。

 

 私はルヴィエ王国の大使館の職員だという、若い男性に連れられて帰って来たんだそうだ。

 ママに頼まれた芋ようかんも、買った覚えはないんだけれど、ご近所さんに配ってもまだ余る位に大量に買い込んでいたようだ。それも、付き添ってくれた男性が両手に大きな紙袋を提げて持ってきてくれたのだそうだ。


 我に返ったのは、ママの発言だった。


「みはる。サドルの高さ、調節しておきなさいよ」

「え?」

「え?じゃないわよー。明日から仕事でしょう? 自転車のサドル、調節しておきなさいよ。明日の朝バタバタすることになるわよ」

「自転車?」


 ママが小さくため息をつくと、私たちが帰って来る前に、セルジュさんから電話があり、事情を説明されたことを話してくれた。それと、すぐにセルジュさんの代理人という人が来て、セルジュさんの車を、東京に持っていく代わりに、新しい自転車が届けられたことも。

 なんて手際の良いことで……。

 新しい自転車は、憎らしいほどのピカピカで、しかもセルジュさんの車と同じエンブレムがついていた。


「なにこれ。ここって自転車も作ってるの? 一体いくらよ。まったく、セルジュさんらしいったら……」


 しかも、カゴもついてない。

 一体、どこに荷物入れろって言うのよ。

 ほんと、ほんっと、セルジュさんらしい。

 笑おうとしてもうまくいかない。みるみるうちに目が潤んで、鼻の奥がツンとした。


「リュック、探さなきゃなぁ。寒くなるから、マフラーも……。お弁当は――あ、明日から社食かぁ」

 

 これまでの日常に戻るだけなのに、どうしてこうも気持ちが沈むんだろう。

 

 それからは、寂しい位の速さで、私の周りから段々セルジュさんの痕跡は消えていった。


 セルジュさんの部屋からは、とうとう荷物も運び出され、この家の中にセルジュさんを思い出すモノは、もうわずかとなったある日。


「あ」


 目に付いたのは新聞の一面広告。


 有名ブランドが新しく発表した、話題の香水の広告だった。

 素晴らしくスタイルの良い男性のシルエットが写るだけの広告だったけれど、私には、すぐにそれがセルジュさんだと分かった。


 その日から、雑誌だったりテレビCMだったり、電車の中吊り広告だったり、駅の

ポスターだったり……色々な場所で、セルジュさんを見かけた。街中で見かける小さなセルジュさんは、シルエットだったり、逆光に浮かび上がる微かに金髪が分かる横顔だったり、印象的な瞳のアップだった。

 他国の王子という立場からか、決して人物を特定できないものばかりだったし、唯一見せた瞳も、紫色のカラコンで色を変える念の入れようだった。でもそれが却って、ミステリアスなモデルとして脚光を浴びることになり、街で、テレビで、セルジュさんを見ない日は無い程になった。


「みはるちゃん、元気ない~」

「まゆさん」


 仕事中、レジカウンターの中でぼうっとしてしまってた。


「原因は横井くん?それとも……」

「ヨコイ?……あ!」


 忘れてた! 私ってば横井さんのことを、すっかり忘れてた!


「あーー。違うならいいの。横井くん異動になったみたいだから、そのまま忘れちゃって」


 慌てて話すまゆさんの言葉にも、不思議とショックは感じなかった。

 いつの間にか、私の中から横井さんは姿を消していた。そんなに簡単に消える存在じゃなかったはずなのに……。それよりも、もっと強い存在にかき消されてしまったかのように、横井さんの居場所は消えていた。


「でも、忘れさせた張本人がいなくなったら意味ないわよねぇ……」

「え?」

「ううん。何でもない。本当はみはるちゃんに話があったんだけど、今度にするわ。今はそんな時機じゃない気がするし」

「はぁ……」


 その言葉に少し引っかかりと感じたものの、それがなにかを考える余裕もなかったので、私は素直に頷いた。

 そのうち、セルジュさんは『謎の外国人モデル“S”』として、週刊誌をも騒がせるまでになった。

 各誌、その正体を実はハリウッドスターだとか、ハーフの新人モデルだとか書いては今までの広告写真で検証していたが、どの記事もセルジュさんの正体に迫ったものはなかった。

 パパもママも、正体は気付いていたものの、お姉ちゃんが絡んでるためか、口外はしないでいてくれていた。心配だったご近所の方も、元々セルジュさんはわが家にホームスティしてると聞いていたからか、母国に帰国したのだろうと思っているみたいだった。


「ママ! 今度は“S”の正体は有名サッカー選手だって!」


 謎の人気モデル“S”の正体を暴こうと、大きく巻頭5ページを割いた週刊誌を手に、ママと「えー! 全然似てないわよ!」などと楽しく話していたその時、インターホンが鳴った。

 午後10時という、来客にしては少し遅い時間に訝しく思いながらも、ママが玄関に出ると、意外な人物がそこにいた。


「みさき!! 悠馬も! どうしたの!?」


 え! お姉ちゃん!?

 私はビックリして玄関に走った。お姉ちゃんとはあれ以来、なんとなく気まずくて話すのを避けていた。でも悠馬まで連れて突然来るなんて……何があったんだろう。


「お姉ちゃん!?」

「ママ、みはる。私たち……あの家、出て来ちゃった!」

「え!?」


 ビックリするママと私の前で、お姉ちゃんは晴れやかな笑顔を見せている。悠馬も、「出てきた」という意味は理解しているらしく、「僕、こっちの学校に通うんだ!」なんて言っていた。


「えっ……。と、とにかく、中に入って。もう、こんな遅くに子供と2人だけで危ないじゃない! 言ってくれたら、駅まで迎えに――」

「大丈夫よ。彼に送ってもらったもの」

「彼?」

「そうよ。荷物も持ってくれてるの。……みはる、長く借りちゃって、ごめんね」


 お姉ちゃんはそう言うと、外に声をかけた。


 現れたのは……少し表情は疲れていたけれど、私の記憶にある通りにキランキランしているセルジュさんだった。

 いつも傍にあった、あの大好きな明るいブルーの瞳が、私に真っ直ぐに向けられている。

 目の前に立っているのが、本当にセルジュさんなのか信じられずに、私は裸足のまま玄関に下りる。

 お姉ちゃんはなにも言わず、道をあけてくれた。


 目の前のセルジュさんは、ほんの少し痩せた気がする。反対に髪は少し伸びたかな。でも、本物かな……。

 手を伸ばして、ペタペタと頬を触る私の行動に驚きもせず、セルジュさんは優しい眼差しで少し身を屈ませると、私に視線を合わせた。


「お嬢様。ただいま、戻りました」


 明るいブルーの瞳に真っ直ぐに射抜かれ、懐かしい声を聴くと、私の胸は熱く大きなものでいっぱいになった。

 はちきれそうになったそれは、溢れるように涙になって出てきた。


 あぁ、私の中は、いつの間にかセルジュさんでいっぱいだったんだ……。

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