第15話 執事さんの腕の中
大きなビルを一旦通り過ぎると、私はセルジュさんからキャリーケースを受け取り、ビルの右手にある小道を歩き出した。
「ここね、石畳になってるからキャリーケース転がすの、ちょっとコツがいるんだ」
軽い口調で話してみるけれども、実はちょっと緊張している。
小さな頃から、私とお姉ちゃんはずっと仲良しだった。そう、お姉ちゃんがお義兄さんと出会って結婚するまでは――。
今もお義兄さんに気を使いながらも、お姉ちゃんは私のことを、気にかけてくれている。
私もお姉ちゃんには会いたいし、東京に来たら、やっぱりまずここに宿泊の希望を言うのだ。
結果、今回は前半の3泊が「許可」されたというわけだ。
ビルの裏側に回ると、正面入り口よりも、二周りほど小さな勝手口が見えた。
深呼吸をして、勝手口横の、小さなインターフォンを押す。
「ここはね、お義兄さんの持ちビルなの。モデル事務所の社長さんなんだよ。すごいでしょう? 5階から上が、居住空間になってるの」
セルジュさんへの説明も、なんだか声が固い気がするけど、整える暇もなく、声が聞こえた。
『はい。木嶋でございます』
「こんにちは。日野です。今日から3日お世話になります」
『……お待ちください』
冷たい声の後ほどなくして、目の前のドアから、カチャリと音がした。
音がしただけ。
開いてはいない。
つまり、カギは開けたからドアはオマエが開けろ、ってことだ。
思わずため息が出る。
「失礼しますー」
先にキャリーケースをゴロリと中に入れて、それから顔を覗かせると、目の前に濡らしたタオルを突き出された。
タオルを手にしているのは、グレーのスーツをビシッと着て、隙のないお化粧を綺麗に施している女性。
「ありがとうございます」
お礼を言ってタオルを受け取る。
「室内に上がりこむ前に、キャリーケースの汚れた部分を、綺麗に拭いてください。それから、室内ではキャリーケースは転がさないで。今回は2部屋と聞いています。7階の客間を使ってください。簡易キッチンもそのまま使って。冷蔵庫にはミネラルウォーターを数本入れておきました。他になにか?」
「イエ……」
そう言うと、女性はそのまま部屋の奥へと消えた。
まだ体の半分が屋外に出た状態で、とりあえずスーツケースを拭きにかかった。すると、後ろからドアにグッと手がかけられた。
「――わたくしが」
まだドアの外にいたセルジュさんが、ドアを大きく開け、キャリーケースを奪い取ると、手際良く拭き出した。
「お嬢様。わたくしは……我慢できそうにもありませんが……」
「それでも、我慢してください」
「…………」
ふたり分の荷物が詰まったキャリーケースは、転がさずに持とうとすると結構重い。それが分かってて、彼女は「転がすな」と言ったのだ。
ちなみに、先ほどの秘書風な装いの女性は……通いのお手伝いの高橋さんだ。
勝手口の玄関を入ってすぐ横に、居住スペースに直行するエレベーターがある。私たちはそれに乗り込むと、7階へと向かった。
エレベーターが静かに7階へ着き、扉が開くと……。
「みはる! いらっしゃい!」
色鮮やかなブランド物のワンピースを着て、綺麗にお化粧したお姉ちゃんに迎えられた。
「お姉ちゃん、久しぶり!」
「ごめんね。迎えに行けなくて……あの……」
口篭るお姉ちゃんに、そっと首を振る。
「お義兄さんに、悪いもの。いいよ。今日はセルジュさんもいたし、荷物は持ってもらったの」
「はじめまして。セルジュ・ロマーニです。日野家でお世話になっております」
「はじめまして!みはるの姉のみさきです。あらー、画像で見るよりカッコイイわー!」
が、画像!?
「ママが送ってくれたのよ」
「セルジュさん、知ってた?」
「先日、写真を撮らせてくれと言われましたが……」
ママってば……なんてすばやいんだ!
「それにしてもみはる……。こっちに来るならその格好を――」
「お姉ちゃん、すぐに出かけるから、部屋で荷物解くね」
お姉ちゃんの言葉を途中で遮る。勿論、これはわざとだ。
お姉ちゃんもそれを知ってるから、そっとため息をついて、その話は終わりにしてくれた。
「わかったわ。今回は前半しか泊められなくて、本当にごめんね。このフロアは好きに使ってくれていいから」
「うん、ありがと」
そう言うと、お姉ちゃんはエレベーターで階下に降りて行く。
「――このフロア以外は出入り禁止。と言っているようなお言葉でしたね」
お姉ちゃんとの会話を、静かに聞いてたセルジュさんが私の正面にやって来て、そっと私の手を大きな手で包み込んだ。いつの間にか、自分の手をぎゅうっと握り締めてたみたい。
「そんなに力を入れては、ご自分でご自分を傷つけてしまいます……」
そっと、そっと。ゆっくりと。
手の平に食い込む程に力んだ指を、ひとつひとつ優しくほどいてくれた。
「話してくださいませんか? お義兄さんとのことを……」
ふと視線を上げると、セルジュさんは優しく微笑み、優しく私の手をマッサージしてくれた。
「……お姉ちゃん、綺麗だったでしょう? 自慢のお姉ちゃんなの。でもお義兄さんと出会ってから、なんか変わっちゃったなー。お義兄さんはね、このビルを所有してて、階下にあるモデル事務所の社長さんなの。偶然出会ったお姉ちゃんの綺麗さに惹かれて、スカウトしたんだけどね、結局お姉ちゃんはモデルじゃなくって、お義兄さんと結婚して、社長夫人になったんだ。お義兄さんはね……美しくて洗練されてて、高価で上品なものが好きなの。それが、イコール、人の価値だと思ってるのよ。だからお姉ちゃんの服とか持ち物、好み、全部に口を出した。お姉ちゃんも感化されてった。そして、あまり田舎の実家には、帰って来なくなったんだ。お義兄さんも、必要最小限しかうちの家族とは会わないの。彼の好みからかけ離れた家族だから。お義兄さんの長期出張なんかで、いない時に、お姉ちゃんが子供を連れて時々遊びに来るくらいよ。お義兄さんは田舎くさくて、ブランドに興味がない私が、自分の聖域に足を踏み入れるのが嫌いなの」
一気に話したら大丈夫かと思ったんだけど、やっぱり胸に苦いものがこみ上げてくる。でも私は、話し続けた。
「お義兄さんのその考えは、他のお手伝いさんとか、モデル事務所のスタッフさんも知ってるから、みんな私の相手をしないってワケ。更に……甥っ子はね、
……それもあってお姉ちゃん以外のうちの家族はとーーーーっても嫌われてるの」
話し終わると、私はふーーーーーっと長く息を吐いた。
「なぜ、わざわざこちらにいらしたんです?」
いつも間にか俯いていたらしい。セルジュさんはそんな私の顔を覗き込み、優しく上向かせる。そしてそのまま、そっと頬を撫でた。
大きな手で頬を包まれているから、彼の視線から逃れることは出来なかった。
「だって……やっぱりお姉ちゃんは家族だし、好きなんだもん……」
「そうですか……、そうですね。家族ですから」
頬から手を離すと、セルジュさんは腕を広げ、柔らかく私を包み込んだ。少し身を硬くした私だったけれど、まるで子供にするように、優しくポンポンと背中を撫でられると、知らず肩の力が抜ける。
いつもなら抵抗するところなんだけれど、あまりに自然に抱きしめられて、あまりにもそれは優しくて、ここに甘えてもいいんだって自然と思えた。
一度、セルジュさんの胸にぎゅっとしがみついた後、私はそのまま顔を上げた。
悔しいことに、身長差がありすぎて、真上を向かないとセルジュさんの顔が見えない。
どうしても顔を見て、聞きたかったんだ。
「顔の美しさとか、服の高価さとか、そんなに大切かなぁ? そんなのでしか、人の価値って図れないの?」
「いいえ。違いますよ。お嬢様が。わたくしにそれを教えてくださったじゃないですか」
労わるように優しく微笑むセルジュさんが、目の前に居た。
「わたくしは、あなただから一緒に居たいと……別の世界を見たいと思ったのですよ」
窓から差し込む日差しは、ふんわり微笑むセルジュさんの美しい金髪を、更にきらめかせて、私は一瞬その眩しさに、目を閉じた。
それは一瞬だった。
唇に、柔らかく熱を持ったものが押し付けられた感触があったのは……。
でもその時の私には、それすらもあまりに自然で……。
それが何だったのか、はっきりと意識してしまう前に、セルジュさんは私を少し強い力で、ぎゅっと抱きしめた。
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