美しき蝶
ここは、とある森の中。ここに一匹のチョウの幼虫がいました。
彼は今、蛹のなかで夢を見ていました。鮮やかな緑に包まれた森や、澄んだ水の流れるせせらぎ――そんなところを自由に飛び回る自分の夢でした。
「早く外の世界に飛び出したい」
彼はその日が来るのを今や遅しと待っていました。
彼は毎日、蛹のなかで本を読んで、外の世界のことを勉強していました。
花の名前、雲の名前、星の名前……多くの《美しきもの》の名前を覚えました。そして、早くそれらを自分の目で確認したいと思いました。
――しかし。
やがて彼は《醜きもの》の存在をも知ってしまいました。
怒り、憎しみ、悲しみ、妬み、嫉み、恨み……
それらの存在は、言われがたき嫌悪感をともなって、彼の眼に飛び込んできました。
「嗚呼、外の世界はなんて醜いところなんだろう」
そして、彼は思いました。
「そんなところなら、いっそこのまま殻のなかで一生を過ごそう」
じっさい、殻のなかは快適そのものでした。暑くもなく、寒くもなく、必要なものは手を伸ばせば届くし、それに、彼を傷つけるものもいませんでした。
毎日殻のなかで生活しているうちに、彼はだんだんと、今自分がいるのが現なのか、それとも夢なのかがわからなくなってきました。彼は、自分の身体を殻の内側にぶつけてみました。
何度も、何度も。
やがて、皮がすりむけて血が流れ出ました。その鮮やかな色を見てようやく、彼は自分が現にいることを確認できたのでした。
そんなある日、殻の外からなつかしい声がしました。それは、彼を生んでくれた母親のチョウの声でした。
分厚い殻のせいで何を言っているのかわからなかったけれど、彼の耳には、その声がとても悲しそうに響きました。
そして、彼は悟りました。
彼を殻のなかに閉じ込めた醜きものたち――それは、他ならぬ彼の心の闇が生み出したものだったということに。
「そうだったんだ!」
そのとき、殻の天井に亀裂が入りました。
そこから差し込んできたまばゆいばかりの光に、一瞬、彼は自分の眼が見えなくなったのかと思いました。それと同時に、これまでに経験したことのない激しい痛みが彼を襲いました。
その痛みに耐えながら、彼は少しずつ亀裂を押し広げて行きました。
痛みが限界に達したとき、ふっと、身体が楽になりました。
そうです。彼はとうとう外の世界に飛び出したのです。
外の世界は、光に満ち溢れていました。彼は蛹を振り返ることもなく、我を忘れて羽ばたき続けました。
そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で、
「醜き世界よ、さらば」
と言いました。
(おしまい)
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