往復切符

桑原 樹

往復切符

吐く息はまだ、白かった。もう3月の半ばだというのに、朝方はまだ冷え込む。ようやくビルの上背を追い越して、紫と橙の境界線が見え始めたころ、僕は駅前にいた。

「あぁ、やってしまった」

今朝、まだ日も出ないうちに、僕は生まれ育った町を旅立った。そうして今、往来の中にただ一人、立ち尽くしている。改札を通り抜けてすぐの時刻表の前で切符を一枚握りしめて。

「これ、どうしよう……」

思えばいつも中央駅に来るときは往復切符を買うように心がけていた。遊びに行くときも、遊び過ぎて帰るお金が無くなってはいけないからと帰りの切符まで買っていたし、一刻も早く帰らねばならなかった受験のときも、もちろんそうした。

そうした積み重ねのおかげで、帰り賃に困ったことは今まで一度もなかった。しかし、今になってその弊害が出てしまったらしい。

僕はもう、しばらくは故郷には帰ってこない。この帰りの切符は僕にとって何の役にも立たないでしかない。返金してもらえるだろうか。でもわざわざ駅員さんに返金を求めるのも億劫だな。とそんなことを考えながらぽつねんとしていた。ぐるりと辺りを見回すと、今から通勤するのか、スーツにコートを羽織った人が多い。みんな僕の近くまで来て、スマホから顔をあげ『なんでそんなとこで立ち止まってんだよ』という顔をして、脇を抜けていく。そんな無関心な雑踏を掻き分けて一人の女性が目についた。券売機の前で、何度も何度も財布の中身を数えている。駅員さんに話しかけるより、よっぽど面倒なはずなのに、僕の足は券売機を目指して動き始めていた。

「あの、どうかされたんですか?」

たまにはこうやって思い付きで行動したっていいじゃないか。

「え? あ……えと……」

女性の年のころは僕とあまり変わらないようだ。艶やかな黒髪を肩口まで伸ばし、目はぱっちりと見開かれている。癖毛で細目の僕とは違い、彼女はかわいらしい服で着飾り、今からどこかへ遊びに行くようだった。

「お金が足りないんじゃないですか?」

僕がそう問いかけると、彼女は疑がわしそうな目で僕を見た。しかし、何かを決したようにただ、はい、とそう言った。

「どこへ行かれるんですか?」

少しだけじれったい思いをしながら僕は質問を重る。すると彼女はますます言いたくなさそうな顔になり、周囲を見渡した。僕はこれ以上は駅員を呼ばれかねないと思い、例の切符を出そうとした。

「友達のところに行きたいんです」

ところが、彼女は僕が切符を出すより早く僕の質問に答えてしまい、行き場をなくした右手がそのままポケットに突っ込まれる。

「友達の家はどこですか?」

彼女はやっぱり一瞬迷って

「大川です」

と答えた。

大川なら僕の持っている切符の駅より手前だし、大丈夫だ。

「実は、間違えて往復切符を買ってしまいまして、砂有までのなんですけど、よかったらお譲りしますよ」

そう言って、突っ込んだままだった右手に切符を握らせる。それを彼女の前に差し出と、ほんの少しだけ納得のいった顔をされた。

「ホームに入れなくて困っていたんです。定期も置いてきちゃって一銭も持ってなかったから」

そういって彼女はふわりと笑った。

「ありがとうございます。大学生、ですか?」

僕は彼女に切符を手渡す。

「はい、今年の春からです。今から福岡の引っ越し先に行くんですよ」

彼女が切符を受け取る。

「どこの、大学ですか」

「球宗大学です」

僕がほんの少しだけ誇らしげにそういうと彼女は驚いた顔をした。

「本当ですか⁉ おめでとうございます。頭、良いんですね。私も頑張ります」

口早にそういうと、彼女は駆け去ってしまった。

『まもなく一番乗り場に八城行きの列車が到着いたします。黄色い線の内側までお下がりください』

彼女の目指す方向の列車が来たらしい。間に合うかどうかは五分だろう。僕はそのアナウンスを背中で聞きながら、軽くなった足取りでバスの停留所へと向かった。


『このバスは博多、天神バスターミナル行きスーパーノンストップバス……』

停留所に僕が乗るバスがやってきた。このバスに乗ってしまえば、住み慣れた故郷からついに出ていくことになる。

車掌さんに荷物を手渡し、彼が荷物を入れるスペースにそれを放り込んだのを確認してから、僕はタラップを上った。列の中ほどの窓際の席に座り、一息つく。カーテンを開けて覗いた空は紫がかった灰色をしていた。

『長らくお待たせいたしました。出発いたします』

ゆっくりと街並みが後ろへ流れだす。過ぎ行く風景と道行く人々を目に焼き付けるつけるでもなく、ただ眺めていた。これから2時間半ほどかけて、僕は新天地へと赴く。

手荷物を入れようと持ってきたリュックサックの中をまさぐるけれど、特に暇つぶしをできそうなものはなかった。

「すみません、隣、良いですか」

気が付けば、バスは次の停留所に着いていた。

「あ、どうぞ」

自分のリュックを窓際に押し込み、心なし体を寄せる。隣に座ったのは僕と同じくらいの女性だった。

バスがまた、ゆっくりと動き出す。

小説でも持ってくるべきだったと思いながら、やっぱり窓の外の景色に目を向ける。街中を抜け出し、周囲はどこまでもかわりばえのない田園風景になっていた。考えているのは切符を渡した彼女のことだった。『私も頑張ります』と確かに彼女は言ったのだ。高校3年生だったのだろうか。仮にそうだとして、もし、僕と出会って志望校を決定したのだとしたら……。そんな淡い想像ばかりしてしまう。僕の理性は『そんなことはありえない』と何度も否定してくるけれど。

『次は、増木です。ご乗車されるお客様のために、停車いたします』

バスが止まる。隣に座っていた女性が前の席に移動した。僕はよほど気持ちの悪い顔をしていたのかもしれない。かなり堪えた。荷物を隣の席において、また小説を持ってこなかったことを後悔しながら、窓ガラスに頭をあずけた。そうして、ゆっくりと目を瞑る。良い夢も悪い夢も見られそうな妙な心地だった。

目を開けると、もう目的地に着いていた。



この部屋の匂いにはまだ慣れない。すでに何度か訪れたというのに。果たして僕はこの部屋に慣れる日が来るのだろうか。

持ってきた荷物を適当に片付け、特にすることもなくなったので、ベッドに腰掛け、テレビをつける。チャンネルを回していると、地元のニュースがあっていた。見覚えのある駅が映し出される。

『死亡した十八歳女性は遺書を残しており、警察は自殺の可能性が高いとして捜査を進めています。次のニュースです』

リモコンを持つ手が震えた。

きっと別の人だとそう願った。


彼女の遺書に球宗大学のことが書かれていたと知ったのは次の日だった。

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往復切符 桑原 樹 @graveground

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