第6話 手も好き

私は彼の手も好きだ



酔いはじめると彼は決まってグラスを揺らし口を付ける

その仕草がたまらなくセクシーに感じる



彼はこんな話の最中にもそれをしている

そして私もそれを見ている



「壁の薄い小さなアパートに住んだ

子供が生まれて普通なら実家に帰るんだろうけど

彼女は帰る事ができなくて

退院して直ぐから俺と彼女は二人だけで赤ん坊を育てた

毎晩泣いて

近所から苦情も来て

彼女はヒステリックになっていた

俺はバイトを掛け持ちをした

大学は休学して朝から晩まで働いた

だけど中途半端な俺は月に10万くらいしか家に持って帰れなかった

大学を辞めてどこでもいいから就職してしまえば

それよりはもう少し稼げて

生活も少しは楽になれたかもしれないけど

『俺は大学を辞めたわけではない!今は休んでいるだけだ

直ぐに大学に戻って卒業して自分の夢をかなえる

あきらめたわけじゃない!!』

って思いたかったから就職できなかった

紙おむつは買えなかった

彼女は布オムツを作った

毎日彼女は赤ちゃんを叱りながらオムツを洗ってた

生まれてきた赤ん坊を可愛いとか愛しているとか当たり前に思う余裕はあの時の俺達にはなくて

ただひたすらに生活をこなすこと

赤ん坊を死なさないことだけを考えていた」彼



淡々と話す彼の横顔を私は見た

いつもより悲しそうに見えた

この話はきっと彼の心の奥の奥にあった

誰にも聞かせたくない弱い部分で

ずっとしまっておいたんだろうって・・・そう思うと私も悲しくなった



「赤ん坊が1歳になる頃

生活は全く楽になんてならなくて

彼女は毎日怒鳴っていた

俺は家に帰りたくなくて

バイトが終わってもフラフラしながら時間をかけて家に帰った

たまに駅で同級生に会ったりしたけど

今の自分を聞かれたくなくて見つけると直ぐに俺は身を隠した

毎日が暗かった

毎日が息苦しかった

朝、目覚めるたびに

こんなの悪い夢だって思いたかった

そんなある日

いつものように遅く帰ると

いつも聞こえていた怒鳴り声が聞こえなかった

部屋の灯りも消えたまま

もしかしたらもう寝ているのか?珍しいと思いながら部屋に入ると

どこか殺風景に感じた

必要なものすらない生活だったけど

それ以上に何かがなくなっていた

テーブルの上にはガスと水道の滞納の葉書が置かれてあって

赤ん坊と彼女の姿は無かった

最悪な状況を想像した

俺は直ぐに探した

近所や行きそうなところ

彼女は携帯を持っていなかったからとにかく走り回って探すしかなかった

数時間探し回ったけど見つからなくて

思いつく所がもうなくなってしまった頃

俺の携帯がなった

知らない番号からだった

俺は直ぐに出た

相手は彼女の母親からだった」彼



彼が表情を変えないようにしていることは私には分かった

当時のことを思い出しながら話している彼

既に終わったことなのに今もなお彼の心が削られているようで

私も胸が苦しかった



カウンターの下で私は自分のスカートをぎゅっと握って力を入れた

気を抜いたら泣いてしまいそうだったから

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