夜風が蚊取り線香を四方に漂わせ、草は靡(なび)いて夜露で輝かせていた。時たま聞こえる鳥の叫び声も、夜の沈黙へと吸い込まれ消えてゆく。


 月明かりの下、二人を包む蚊帳は風に吹かれ揺れ、冷たくなった肌はその中で煌々と晒されていた。

「怖いんか・・・・・・何やったら退くけど」

 手と手が、指と指とが触れ合う。

「あ・・・・・・」

 ぼくはどうしても、来訪者の顔を直視出来ずにいた。顔を、目を、背けてしまう。嫌がっていると思ったのか、躰を離そうした。急いで来訪者の引っ掛けている和服の袖を掴み、首を振った。

「離れる・・・・・・な・・・・・・」

 不意に出てきた言葉に来訪者は月光を反射させながら、その目をぱちくりとさせている。

「えぇんか。自分、・・・・・・ほんまに後悔せぇへんか」

 本当に自分の口から生み出された言葉なのか、自分でも信じられないでいた。

「・・・・・・退かなくて・・・・・・いいから。お願いだから・・・・・・離れないで」

 言い切る前に、来訪者はぼくの躰を奪い取るように強く抱きしめた。ぼくも来訪者の首に腕を回し、感触を確かめるように、躰が壊れそうなほどに、引き寄せた。

 昼とは違い、涼やかな空気が通り抜けるこの宵は、二人を熱から解放し、微睡(まどろ)ませた。

 天に煌めく星と、来訪者の目の区別が付かなくなるほど、ぼくらは躰を寄せ合っていた。口唇を塞ぐ口唇。叫ぶ歓喜が雨から嵐に変わるように、むずがゆさから絶頂へと興奮は変わっていった。

 ぼくは、今までにない快感に酔いしれていた。自分の躰が改変される事はこんなにも甘美で、幽谷(ゆうこく)へと足踏み入れることと似ている。浮き足立つ本能が欲望のままに蠢(うごめ)き、犇(ひし)めき合う。

「なぁ。・・・・・・自分こんなんされんの初めてやろうに、何でする気ぃになったん」

 来訪者はぼくの頭を撫でながら問いかける。その目には映ったぼくが見えていて、今にもとろけそうだ。

「今まで・・・・・・お前を待っていた。……そんな気がしたから」

 素直な気持ちで本当にそう思ったのだ。ずっとこの出会いを待っていた気がする。

「・・・・・・ほんまは、言わなあかんことがあんねん」

 頭を掻きながら、来訪者は困ったように重い口を開く。その姿は幽玄を具現化したものだった。

「あんな・・・・・・わい、ここの神様なんや」

 この空間の風が凪いだ。相変わらず天には月が浮かび上がり、無音が広がっていた。

 上弦の月は二人を見つめていた。妖艶に光を放ちながら。 


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