怪奇探偵・漆原奈々美の事件簿

玖音ほずみ

【短編】彼だけのトロイ

「それにしても、今回はまた奇っ怪な事件でしたね」

 奈々美(ななみ)さんに缶コーヒーを渡して一息ついたあと、ぼくは彼女にそう話を切り出した。

 ぼくの片手に握られた無糖の缶コーヒーは、中身が空っぽになったこともあって暖かさがどんどん抜けていき、ホッカイロ代わりに手を温めるのに使うには厳しくなってきた。

 対する奈々美さんが手に持つ微糖の缶コーヒーはまだそこそこ量が残っているらしく、缶から白い湯気が立ち上がっているのがうっすらと見える。

「そうかな? 今回は別に怪奇現象が関わってるわけじゃないし、そんなにおかしい事件だとは思わなかったけどな」

「奈々美さんにとってはそうかもしれませんけど、ぼくからしたら今回も十分に怪奇現象ですよ」

 そう言ってぼくは軽く息を吐いた。寒気に触れたぼくの吐息が、白く宙に舞う。

「まさか彼が彼女を殺したんじゃなくて――彼女が彼を殺させたなんて、そんなの全く予想がつきませんよ」

 怪奇探偵・漆原奈々美(ななはらななみ)とその助手である〝ぼく〟が今回対峙した事件は、よくある一般的な殺人事件だった。

 妖怪が人を襲ったわけでもない。

 都市伝説が具現化したわけでもない。

 人が人を殺しただけの、単純な事件だった。

 だが、単純であるということは簡単であるというわけではない。この事件をただ解決させるのは簡単だったが――真の解答へと回帰させるのは簡単ではなかった。

 なんせ、事件の加害者からは何一つヒントが得られなかったのだ。

 どうやって彼女を殺したのかはわかっている。だけど、どうして彼女を殺さなければならなかったのか、その理由がわからない――それがこの事件の加害者である彼の主張だった。

 突発的な犯行なら、自分がどうやって人を殺したかを覚えてない加害者というのは、割とよくいるらしい。だけど被害者を殺すことになった原因や理由というのは、それが例え突発的な犯行だったり心神喪失の状態での犯行だったとしても、犯行を起こした自分自身は薄々わかっているものだ。

 だが今回の事件の彼は、なぜ自分が彼女を殺すことになってしまったのか、本当に何一つわかっていないようだった。

 それもそうだ。彼女が彼に殺される原因を作ったのは、彼女自身だったのだから――。

「予想はつかなくても、推理はできたはずだよ。もっとも、君はこの事件を怪奇現象によって起きた事件のはずだって決めつけてたから、そもそも根本的に間違っていたんだけど」

 そう言って奈々美さんは、片手に持ったそろそろ冷めてきているであろう缶コーヒーを飲む。

「うっ……」

 奈々美さんの言ったことは、図星だった。確かにぼくはこの事件は絶対に怪奇現象が原因で、犯人である彼が殺人をしてしまったのだと決めつけていた。だけども、ぼくがそのような推理をしてしまったのは仕方ないことを、奈々美さんにはわかってほしい。

「いやいや……半年以上も奈々美さんと一緒に行動したら、どうしてもそういう推理をするようになっちゃいますって」

 ぼくのそんな言葉を聞いた奈々美さんはため息をつく。奈々美さんの口元から漏れだした白い蒸気は、彼女の淡麗な顔立ちと相まってとても神秘的に見えた。そんな白い息が空気と同化した後、彼女は言葉を吐く。

「推理っていうのはね、シンくん――まずはいくつもの可能性を羅列することから始まるものなんだ。無限と言っても過言ではない可能性を、思いつくままただひたすらに候補としてピックアップしていく。そしてそれらの可能性を、捜査や調査で得たものと照らし合わせて矛盾するものを排除する――推理っていうのは、その繰り返しなんだよ。そうやって最後に残った可能性が、どんなに残酷でも事件の真相なんだ」

 奈々美さんは軽く俯く。

「そして、今回の事件で最後に残った可能性が――被害者である彼女自身が真犯人で、あんな結末を望んでいた。ただ、それだけのことだよ」

「………………」

 奈々美さんの吐く言葉に形はない。当たり前だ。だけど、彼女の吐く言葉が白く冷たく、まるで雪のように感じられたのは、きっとぼくの気のせいではないのだろう。

 この事件の真相を、加害者である彼に包み隠さず告げたとき、奈々美さんは淡々としていた。

 その真相が、どれだけ彼を傷つけることになろうとも。

 あの真実が、どれほど彼を絶望させることになろうとも。

 奈々美さんなら、そのくらいわかっていただろう。この事件の真相を、彼に告げないほうがいいということぐらい。

 けれども奈々美さんは彼に告げた。「あなたが起こしたこの最悪の事件は、彼女が切望した最良の結果だった」と。

 あの時見せた彼の表情を、ぼくは忘れることができないだろう。

 彼はこれから一生、あの真実を胸に刻み続けながら生きることになる。

 どれほど絶望的でも、自ら命を経つことも許されない。

 そして、彼女を殺したという罪を告白することも許されない。

 そのどちらかをしてしまえば、それは彼女の願い――いや、呪いと相反することになる。どうしようもないほどに彼女に愛された彼は、この呪いをずっと背負って生きていくしかないのだ。その十字架の重さは、ぼくなどでは全く計り知れないが、奈々美さんはきっと理解していたはずだ。

 それなのに奈々美さんは、彼にその十字架を背負って生きていくことを決定づけた。

 真実はいつだって残酷なわけじゃない。だけど、この事件の真相はあまりにも救いがなさすぎた。

 真実が惨たらしいなら、きっと嘘や欺瞞で塗り固めて、曖昧に適当に誤魔化して、それなりに程々に罰を与えたほうがよっぽど楽なのだと思う。

 だけど、奈々美さんはそれを許さなかった。怪奇探偵は、それを認めなかった。

 怪奇探偵・漆原奈々美は、受け持った事件は全て、どれだけ現実的であろうが非現実的であろうが、あらゆるもを根源の皆既へと回帰させる。

 それが、怪奇事件への礼儀だと――奈々美さんは、ぼくと初めて出会ったときの事件を解決させたときにそう言っていた。

「彼女はきっと、彼に食べられたかったんだと思う」

 缶コーヒーを片手に持ったまま、奈々美さんはそう呟く。彼女の手に握られた缶からはもう湯気は出てなくて、きっと中身も冷めきってしまっているのだろう。

「この世は弱肉強食って言うけどね――この世で本当に強い生き物っていうのは、相手に自分を食べさせることができる生き物だと、私は思ってるんだ。自分を捕食させることによって、相手を内部から支配する。ウイルスとか毒物とか、そういうのを例えにしたらわかりやすいかな? 相手の内部に侵入し、同化し、効力を発揮して寄生先を内部から自分の影響を大きく与えていく――まるでトロイの木馬や、時限爆弾みたいだよね。じわりじわりと侵食していって、気づいたときにはもう手遅れ。この事件の真犯人だった彼女は、きっと彼にとっての、そういうものになりたかったんだろうね――。だから彼に殺されようとした。彼にとって、永遠に残る時限爆弾になりたかった。実際、そうなることができたんだから、この事件における唯一の勝者は彼女だけ。正直言って、こんなにも敗北感すら感じることができない事件は、今回が初めてだよ」

 奈々美さんは手に持った缶コーヒーを見つめながら、虚しそうにそう言った。

「だけど、奈々美さんは事件の真相を暴いたじゃないですか!」

「真相を暴いただけ。そもそも解答はあっても解決はない事件だったんだよ、これは。どう転んでも彼女の勝ち。きっと、彼が私みたいな怪奇探偵に相談することも、彼女の計画のうちの一つだったんだろうね」

 ぼくが紡ぎだしたフォローの言葉を否定するように、奈々美さんは呟く。

「彼が抱えたこの爆弾は、きっと一生爆発することもないんだろうね――彼の中に彼女は永遠に残って、消えることはない。事件の真相は特殊でも、事件の動機自体はどこにでもあるぐらい凡庸なこと。『好きな人の、特別になりたい』――彼女の、そんな当たり前な動機。彼にとって必要だったのは、そんな動機を月並みなものだと在り来たりにしてしまう探偵なんかじゃなくて、どこにでもない特別なものだと証明してくれる探偵だったのかもね――」

 そう言うと奈々美さんは、残った缶コーヒーを飲みだした。

 こうして話しているうちに、コーヒーは完全に冷めてしまっているはずだ。微糖の甘さも、冷たさで薄まってしまっているだろう。

 ぼくは手に持ったもう中身がない缶コーヒーを少し強く握る。

 奈々美さんは今、どういう気持なんだろうか。どんな怪奇現象を前にしても怖気づかない彼女のことだ。ぼくに彼女の気持ちを察し図ることなんて、一生かかってもできないのだろう。

 だけど、これだけはわかる。

 奈々美さんはきっと、これからもずっと、彼女のその才能と素質によって悩み続けるだろう。

 彼女が自分自身の力によって苦しむことはなくとも、その力によって直面する問題を解くために思考を止めることはないのだろう。

 だからぼくは、そんな彼女の思考回路が少しでも問題から離れることができるように、突拍子もないことを言ってみせる。

「奈々美さん」

「ん、なに?」

 ちょうど缶コーヒーを飲み干した奈々美さんが、ぼくへ目線を向ける。

 ぼくは、奈々美さんの目を真っ直ぐに見る。

「奈々美さん、今日が何日か知ってます?」

「んー、25日だけど……それがどうかした?」

 ああ、やっぱりそういうのに興味が無い人なんだな、とぼくは思った。

 こうやって話している間だって、ぼく達の視界の中には赤い服を着てコスプレをしてる人達や、手を繋いで仲が良さそうにくっついて歩いている男女二人組や家族連れがすれ違っていったというのに――そもそも、街中がそういうムードになっているというのに、彼女は気づいてはいても興味は全くないのだろう。

「いや、あのですね……せっかくこんな日に出かけているのに、ケーキも何も買わずに事務所に戻るのは勿体無いな―と思いまして」

「…………ああ」

 ぼくがそう言うと、流石に奈々美さんは察したようだった。全く、推理は得意なのにこういうのはここまで言わないと気づかないんだなこの人は。

「そっか、そうだね……せっかくだ。それぐらいの贅沢はしてもいいか……」

 そして奈々美さんは、ぼくの目論見通り、事件とは何も関係ない一言を呟いてくれた。

「それじゃあ、シンくん。クリスマスケーキを買って事務所に帰ろう」

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