壱千年後のプロポーズ。
鈴川
碧い世界
取れない。取れない。取れない取れない取れない。
涙とカルキと石鹸の匂い。青く染まった石鹸の泡が、苦くて辛い水溶液が甘い香りと混ざる。ニットに絡まる。いろんなものが混ざって、裕福な家庭の冷蔵庫みたいな匂いがする。
しかし甘い香りだけに淡い、青い目印がついているようだった。自分がそこにいることをあたしに示すように、匂いの持ち主が伝えきれなかった想いを代弁するように鼻腔に勢いよく入り込んでくる。
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真っ白なニットに紺のスカンツ、頬に軽くチークを乗せようと、パウダールームの鏡の前に立つ。髪型は定番のポニーテール。中学生には早いような服装でも、高校生と街を歩いていればあまりおかしくはないだろう。
トイレから出ると駅前はいつもより賑わっていた。クリスマスツリーのオーナメントがカラフルに輝き、今宵の聖夜に向けて着飾っていた。まるで自分のようだと思った。
改札の奥からこっちに走ってくる人影が見える。
「待った…?」
彼は息を切らせながら、申し訳なさそうにそう言う。
「いや、全然。来てまだ5秒くらいです。本当は待ちましたけど。先輩が誘ったのに。」
「ごめん。じゃあほら、早速そこのカフェ入ろう。な?寒いだろ?」
彼は今にも凍りそうな、冷たい手であたしを引いてカフェの入ったショッピングモールへ歩き出す。普段ゆっくりと歩くから、後ろをついていくのがやっとだった。
暖かそうなねずみ色のダッフルコートの下には紺のセーター、長い脚には白いスキニーパンツを履いていた。いつもより綺麗に見えて少しだけ見入ってしまった。
その後、カフェ、洋服屋、雑貨屋、古着屋、飲食店に行ってまるで恋人同士のようにはしゃいだ。メガネをかけてみたり、マフラーをしてみたり、昼食のパンケーキも半分ずつ交換したりしていると時間が惜しいくらい早く過ぎた。幸せな時間の中で数ヶ月前の夏を思い出していた。
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汗を垂らしながら筆だけに感覚を尖らせる。身体の中のものを白いキャンパスにぶちまけた。絵の具に混ぜる。絵を描くことが大好きだった。
毎年、夏休みは美術準備室に行くのを日課にしている。美術室で部員と混ざって描きたくなかったから、美術部には所属していない。あたしにとって絵は神聖なもので、外部に気持ちを伝える唯一の手段だった。それを造り上げるところは誰にも見られたくなかったし、邪魔されたくなかったから、一人で描いていた。
だから、その日も一人だった。
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店内ではコーヒーの香ばしい香りが空気を占領していた。テーブルの上にはマグカップが二つくっつけて並べてある。二つのマグカップを正面から見るとハートになっていた。この店の看板のオリジナルブレンドに追加料金を払ってペアマグに注いでもらったもので、先輩が珍しくわがままを言ってこうなった。
「ハート、可愛いですね。先輩がこんな可愛らしいの選ぶなんて意外です。」
「だってほら、一応デートじゃん。彼氏っぽくさせてよ。」
「先輩があたしの彼氏だなんてカッコよすぎて釣り合いませんよ。」
「……俺はかっこよくないし、お前が可愛いからいいの。」
顔に向かって全身の血液と熱が徒競走しているみたいに一斉に集まった気分だった
「うるさいです。」
なんとなく、顔を合わせたくなかったのでそっぽを向いて熱いコーヒーを啜ったら火傷をしてしまった。熱い。
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暑い。
その日の筆にはカドミウムレッドが乗っていて、ビリジャン、グラスグリーン、パーマネントイエローがチューブから直に腕へ擦り付けられていた。筆をオイルにつけ、絵の具を少しずつ感覚でとってマーブルになるように筆の中で配色した。
題名は『壱千年後のプロポーズ。』
キャンパスの中には淡いピンクの花嫁がいた。緋色のタキシードを着た紳士が跪いて指輪を捧げるように差し出している。二人とも、ガスマスクをつけているのが現代風刺の真似事のつもり。バックには廃墟と化したビル、電波塔、マンションが立ち並んでいた。真っ赤に色づけられていたので燃えているようだった。
「綺麗な色作るじゃん。」
そう言いながら覗き込んでくる、その顔はとても端正で華があった。ドキリとして肩が情けなく耳につくくらい上がる。待っていた筆を取り落とす。腕についていた絵の具はキャンパスについてしまった。
「へ…あ、ありがとうございます…あの、ごめんなさい、名前覚えるの苦手で…」
物凄く、震えていた。
「ああぁっ大丈夫、会ったことない。初対面。てかごめん、絵の具、大丈夫?」
「えぇ、下塗りなので大丈夫です。取り乱してしまってごめんなさい。」
「よかった。あ…下塗りで赤ってことはこの絵は本当は真っ青な世界なんだ。」
あまり知られていないが、油絵を描く時は下塗りで反対色を塗るのがベターだ。彼も絵描きなんだろう。
「はい…」
「初めてでなんなんだけど君の絵は好きな気がする。」
「ありがとう…ございます。」
それだけいって彼は準備室の窓から出て行った。けれど、それからは毎日準備室を訪れた。彼は影がなくなる頃にきて影が大きくなるのを見届けながら微睡んでいた。
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ショッピングモールの中から大きな河と小さな公園、河川敷が見えた。対岸から赤、緑、白のイルミネーションが太陽の光の代わりに空気に色をつけた。彩られた世界にカップルがまるで集団行動の一部を見ているかのように並んでいて、とても綺麗だと思った。
「…すげぇ。」
「そうですね...見惚れてしまいます。あの、あそこ…行ってみませんか。」
何も言わず、彼があたしの手を取った。屋内で暖房が効いていたのでもう悴んではいない。歩く速度を合わせてくれているのか少しぎこちなく、ゆっくりと隣を歩いてくれている。
ショッピングモールの自動ドアを通り抜け、階段を降りた。その間も手は離さず、しっかりと握りあった。
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「そういえば…この絵はなんで青いの?」
夏休み最後の日、絵は完成間近だった。
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河川敷に等間隔で並んだ恋人達の座席にもいくつか空席があった。彼はそこにあたしを連れていくと、自分のハンカチを敷いて特等席をつくってくれた。そこにあたしが座ったら、そのすぐ近くに腰を下ろして肩を抱いてくれた。嬉しかった。寄りかかると体温を感じて耳をつけると鼓動が聞こえた。
「先輩…とても温かくて気持ちがいいです。こんなことされたら照れちゃいますよ。」
腕の中がとても居心地が良い。それを認めることで想いがよりガラス細工のように繊細な形になった。少し口を開くだけで温かさが逃げてしまうような、自分だけの感情がホースで外に出されるような気がしたのでほとんど息だけで耳元で囁いた。
ドーーーン
大きな音がして空が光った。三色の世界が青一色に染まった。
「…きだ。」
彼の言葉がうまく聞き取れなかった。先輩の方を向いた、
「すみません、よく聞こえませんで…。」
ふと、違和感に気付いた。何かがおかしかった。
星空がよく見える。遮るものがなくなったのだ。
さっきまで熱くなっていた右半身が凍りかけた夜風に当たって冷たい。繋いでいた手には皮の手袋だけが残った。周りの恋人達はは再び三色に彩られていた。
先輩が…消えた。
「それは…青い光に当たると消えてしまうって設定だからです。」
もう3時間近く洗っている。後ろに軽く結った髪が崩れてきて、前髪が顔にかかる。払おうとして額を拭うと、1本の髪の毛が抜けて落ちてきた。
青かった。
瞬間、洗濯ばさみで吊るされたスカーフが紫に見えた。
「壱千年後のプロポーズ」
壱千年後のプロポーズ。 鈴川 @suzukawa_0807
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