第36話

 俺は、駅を後にしてから、梅村に貰った地図に従って蓮夏さんの家に向かっていた。馬場も、もう帰っているのだろうか? もし、そうなら鉢合わせしてしまう。さっきのこともあるし、それだけは避けたい。

 地図で描かれた目的地へは二十分ほどで着いた。ちょうど、俺の家への帰り道になっていたから助かった。

 住宅地の中の一軒家。特に大きくもなく、小さくもない。周囲の風景に溶け込んだ普通の一軒家が目的の家だった。

 陽が落ちているためか、明かりが点いていた。郵便受けの上に馬場という表札がかかっている。

 俺は緊張した面持ちで、インターホンを押した。

 ……返事がない。

 すぐにもう一度インターホンを押す。

 ……再び、返事がない。

 明かりが点いているのに、誰もいないということはないはずだ。車も停まっている。

 もしかして、知らない顔だから不審者だと思われているのか⁉

 どうしたらいいんだ……。

 頭を抱え、うんうん唸っていると、玄関がガチャリと開いた。

「おい、西寺。入れよ」

 出てきた人物を見て、俺は目を丸くした。その人物は馬場修悟だったのだ。

 もう帰っていたのか……。

 驚きと、どう接するべきなんだろうという困惑で、とっさに返事ができない。

 なんだか今すぐ帰りたくなってきた……出直すか?

 逡巡したまま突っ立ていると馬場が俺に声をかけてきた。

「おい、俺に用事があるんじゃないか?」

 いや、お前にはねえよ。

「い、いや。俺は蓮夏さんと悠太君に用があるんですけど……」

 馬場は何事もなかったかのように続ける。というより申し訳なさそうな顔をしている。今にも泣きそうだ。

 なんだろう。とてもやりづらい。目を合わせられない。

「蓮夏と悠太に? なら、なおさら家に入ってくれ。あいつら、外に出ないからな」

「じゃあ、お邪魔します。あの、ご両親に挨拶したいんですが」

「もちろんだ。ああ、母親なら仕事だよ。父親は俺が幼い時に死んでいる」

 地雷を踏んだ。いきなり、重い雰囲気になってしまった。

「あと、俺はこれからバイトだから心配しなくてもお前と話す時間はないさ」

 バイト? バイトをしていること自体は本当だったのか。

 それにしても、二代続けて母子家庭って。そんな家でただ一人の男である馬場先輩はどんな役を演じなければいけないんだろう?

 プライドの高い馬場先輩は大きなプレッシャーを感じていただろう。良い成績を保ち続け、部長としての役割を果たし、おまけに家族のためにバイトまで。

 普通の人間だったら、あっという間に壊れてしまうだろう。

 事実、馬場先輩も壊れてしまったのだから。

「……」

「道場でのことは、俺が悪かった。むしろ、お前には感謝したいくらいだ。俺の目を覚ましてくれてありがとう」

 馬場が頭を下げた。

「い、いえどういたしまして」

「さあさあ、入って入って」

 俺は馬場に促されるままに馬場の家にお邪魔した。

 中身も普通の家だった。むしろ、よく掃除されている。パッと見では、この家が問題を抱えているとは思えなかった。

「蓮夏姉、お客さんが来ている。部屋を開けてくれ」

 馬場は階段を上り、廊下の突き当たりの部屋のドアをノックした。

「お客さん? 誰?」

 鈴のような澄んだ声がした。

「梅村の友達の西寺君だ」

「誰? そんな人知らないわ」

 このままだと埒が明かなそうだったので、俺が答えることにした。

「突然お邪魔してすいません。俺、西寺久って言います。今日は梅村から頼まれた物があって来ました」

「友和から頼まれた物?」

「ええ。悠太君の誕生日プレゼントと梅村は言っていました」

 十秒ほどの沈黙の後、蓮夏さんの声が聞こえた。

「西寺君といったかしら。部屋に入って。少しお話ししたいわ。修悟は自分の部屋に戻りなさい」

「仕方のない姉だな」

 そう呟いた馬場が、階段を降りていくと、ドアの鍵が回る音がして、ドアの隙間から小さな男の子が顔を出した。

「ママが入っていいって」

「初めまして、悠太君」

 俺が笑いかけると悠太君は笑ってくれた。

 緊張がすっと和らぐ。子供の笑顔というのは、とてつもない破壊力だと実感する。俺も子供だけど……。

「お邪魔します」

 部屋に入ると、悠太君が扉の鍵が閉めた。

 可愛い顔してしっかりしてるな(?)。

「初めまして、西寺君」

 蓮夏さんがにっこりと笑う。

 実物の蓮夏さんは、写真で見たよりも綺麗に見える。

「こちらこそ、初めまして」

 蓮夏さんの部屋は、思っていたよりもずっとキレイだった。引きこもりに対しては何となく不潔だというイメージがあったのだが、蓮夏さんの部屋からは、隅々まで掃除が行き届いているのが見て取れた。

「……あの。これ、梅村から預かった物なんですけど。悠太君の誕生日プレゼントにって」

 俺はカバンから梅村に渡されたミニカーを取り出した。

「友和さんからっ? わーい、僕に?」

 目をきらきら輝かせた悠太君が俺の手のミニカーに飛びつく。

「こらっ。悠太。あんまりお兄ちゃんを怖がらせるんじゃ、ありません」

「構わないですよ。はい、悠太君。友和さんからの誕生日プレゼントだ」

 俺は苦笑しながら、悠太君に梅村の思いが詰まったミニカーを手渡した。

「ありがとう、お兄ちゃん」

「お礼は友和さんに言ってくれ」

「うん」

 無邪気な顔で悠太君は答えた。

「よかったね。悠太」

 蓮夏さんが悠太君に笑いかける。

「西寺君もわざわざ友和の代わりに届けてくれてありがとう」

「いえ」

「悠太、ママはこれから西寺君とお話しがあるから、修悟お兄ちゃんのところに行ってきなさい」

「はーい」

 素直に言うことを聞いた悠太君はドアを開けると、きちんと閉めて階段を降りていった。

 すっごくいい子。

「……あの。悠太君を馬場先輩のところにやってもいいんですか? バイトがあるって」

「バイトに行くのは一時間後よ。それまでは大丈夫だわ」

「そうなんですか。でも、蓮夏さんと先輩は喧嘩していると聞きましたけど」

「よく知っているわね。でも、もう仲直りしたのよ。といっても、したのはついさっきのことだけどね。修悟に謝られちゃったわ。全部自分が悪かったってね。だから、もう大丈夫だと思うわ」

 よかった。

 馬場先輩の怪異の根本が蓮夏さんへの苛立ちだとしたら、これで、馬場先輩が怪異に憑りつかれることももうないだろう。

「そのこと、梅村にも伝えておきましょうか?謝ったってことは、馬場先輩は、蓮夏さんと梅村の交際を認めたってことですよね?あいつに伝えたら、きっと喜びますよ。ずっと会いたがっているみたいでしたから」

「私なんかが会ってもいいのかしら」

 蓮夏さんが寂しそうにつぶやく。

「いいに決まってますよ。二人は恋人同士なんですから」

「恋人ね……。友和も、本当にそう思っているかしら」

 どことなく危うい声音で言う。

「梅村の方は絶対に思っていますよ! じゃなきゃ、俺にプレゼントを託したりしません!」

「それもそうね。まだ友和は、私のことを好いてくれているのかもしれないわね」

「かもじゃなくて、好いてますよ。絶対」

「ねえ、西寺君。客観的に見て、私のことどう思う?その、外見とかじゃなくて、こういう、シングルマザーで引きこもりの二十歳の人間を西寺君はどう思う?」

 不安そうにつぶやく。

 これはすぐには答えづらい。言葉を選ばないと蓮夏さんをこのままの状態にしてしまう気がした。

 俺が答えに迷っていると、蓮夏さんが続けた。

「――私、ずっと不安だったの。このままじゃダメだとは感じていたわ。正社員じゃなくてもバイトなら大丈夫かしらと思って、バイトに応募したこともあるわ。でも、どうしても無理なの。

 書類審査で通って、いざ、面接に来てくださいと言われると、人と会うことが恐くて怖くて家から出られないの。体が動かないのよ。結局、別に無理することもないと思って、自分の部屋に戻っちゃう。

 私には悠太がいるから大丈夫。悠太さえいればいい。そうやって悠太に甘えていたわ。どっちが子供なのかしら。ホント、こんな女おかしいよね。何をうだうだしているのかしら。ねえ、私、こんなんでもいいのかしら?」

 俺を見上げる、蓮夏さんは真っ赤に目を腫らしていた。

 すぐに何か答えないと壊れてしまいそうだった。

 ……この人は危うい。

 ギリギリ極限を生きている気がする。

 俺にも似た、自分への否定感を感じる。

「俺は――そんな人間がいてもいいと思います。バイトに応募したんでしょう?自分から行動しているじゃないですか。それに、家にいて何もやっていない訳ではない。悠太君を立派に育ててきたじゃないですか。それだけでも、誇っていいんですよ。

 もっと自信を持ってください。いまは傷付いて蓮夏さん自身は、なかなか前に進めないかもしれません。それでも、蓮夏さんは、他人のために愛情を注いでいるじゃないですか。悠太君も、そして梅村も、馬場先輩も、きっとお母さんも蓮夏さんのことを愛してますよ。

 一人の人間を育てて、一人の人間を愛して、一人の人間を心配させて、一人の人間を助けて。蓮夏さんは十分ちゃんとした人間です」

 わずかな間があった。

 俺は励ますことができただろうかと不安になる。

 こんな人間ともいえない俺が励ますなんて無理なんじゃないか。

 だが蓮夏さんの顔を見て、安堵した。蓮夏さんは目を潤ませていたが、表情は晴れ晴れしていた。

「ありがとう、西寺君。生きる勇気をもらえたわ。本当にありがとう」

「そんな。俺には勿体ない言葉です」

「友和にもこんな素敵な友達がいただなんて。うらやましいわ」

「いえいえ。本当はまだ、友達といえるのかはわからないんです。俺は梅村とは友達になりたいと思ってますけど」

「そうなの? じゃあ、私が認めてあげるわ。あなたたちは友達よ」

 蓮夏さんは満面の笑みでそう言った。

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