第35話
その後、灰島は黒い紙をはがすことに時間を費やすことになった。道場のいたる所に紙を貼っつけたのだから、はがすのも一苦労の作業である。俺は手伝おうと言ったのだが、灰島に「西寺君はひさなちゃんへの説明責任があるだろ」って拒否されてしまった。
喧嘩の後で後味の悪さを感じていた俺としては、灰島と共同作業をすることによって仲を元のように修復しようと思ったんだけど。
それでも拒否されたのなら仕方がない。確かに刀条への説明も大事なことだ。
という訳で俺は眠っている馬場を保健室まで運んだ後、俺は刀条と駅のベンチに向かった。下校時間が近かったし、他にお金がかからずに話ができる場所を知らなかったからである。
奇しくも、そこは俺と刀条が初めて会話らしい会話をした場所でもあった。
物語が動き出した場所。
スタート地点。
といってもいいだろう。
少なくとも道場が始まりの場所ではないことは確かだ。
まだあの時点では、未熟であまりに幼かった。いや、違うか。こういうと俺がずいぶん成長したように思わせてしまう。いかんいかん。
けれども、何かが変わるきっかけになったことは間違いない。
それが些細なものであっても、取るに足らないものでも、きっかけにはなった。
そのきっかけを生かすも殺すも自分次第。
さあ、変わるんだ。
怪異になってからの話を語ろう。
俺が話をしている時、刀条の目は真剣そのもので、俺の話を面白がったりしなかったし、怖がるような素振りも見せなかった。俺がかなり救われたのは間違いない。
「ちょっと信じられない話だけど、あんなものを見た後じゃ信じるしかないか」
「蜘蛛が見えたのか?」
「うんうん。そんなものは私には見えなかったよ。でも、あの耳の無い猫ちゃんが蜂みたいなのに変身したのは見えた。その瞬間、馬場先輩が気を失ったのも」
「ああ、ミミーも怪異さ。化け猫みたいなもんかな。ミミーは、どんなものにも姿を変えられるんだ。便利な力だよね」
「あの猫ちゃんもやっぱり怪異だったんだぁ。変身か。私もいっぺんでいいから、何かになりたいなぁ。西寺は人間じゃない何かに変身したいって思ったことある?」
「そうだなあ。俺は――」
「あ、ごめんなさい。私、余計なこと言っちゃった」
刀条がすまなそうに頭を下げる。
「いいよいいよ。気にしないで。嫌味を言おうと思った訳じゃないくらい俺にもわかっているから。それにそこまで気を使われなくても僕は大丈夫だ。そんなことでいちいち気分を悪くしたりしないよ。自然体で接してくれよ。俺にとってはそれが一番嬉しいから」
「わかった」
刀条は相変わらず申し訳なさそうな顔をしているが、俺はちょっと気まずくなりかけている空気を元に戻すために話を続けた。
かなり照れくさかったけれど。
「さっきの質問だけど、俺はとんぼになりたい」
「とんぼ?」
「うん、とんぼ」
「そんなこと真面目な顔で言うなんて、西寺って変わってるね」
刀条がおかしそうに笑う。
「そうかな。とんぼってすごい自由な気がするんだよ。水の中で生まれて、次は空中を自由自在に飛び回って。水中と空中って人間が自由に生きられない場所だろ。それに、とんぼの飛び方って見てて飽きないんだ。ふわりふわりと飛んでいながら、急加速したり急停止したり、どうしてあんなにきれいに飛べるのかほんと不思議。なんとなく憧れるよ」
「好きなんだ、とんぼのこと」
「ちょっと子供っぽいかな?」
「いいじゃん。別に子供っぽくたって。夢なんだし。変に大人ぶるよりずっといいよ」
「俺が教えたんだから刀条も教えてよ。刀条は何になりたい?」
「私はね。ひ、み、つ」
刀条は人差し指を鼻の前で立てる。
「なんだよ、それ」
「いいじゃん。一つや二つの秘密くらい誰にだってあるものでしょ」
そう言って刀条は笑った。
「なんだか上手く逃げられちゃったけど。それもそうだな。いつか教えてよ」
「うん。教えたくなったら教えてあげる」
刀条はまた笑みを見せる。空を見上げると満月が浮かんでいた。俺にはその満月がいつもよりも特別きれいに見えた。
視線を刀条に向けると刀条も俺と同じように月を見ていた。その目は俺には見えないものを見ているようで輝いて見えた。
ややあって、俺は口を開いた。
「刀条、俺は話を打ち明ける相手が君で良かったと思うよ。ありがとう、俺の話を最後まで聞いてくれて」
「いやあ、照れるね。私のこと、褒めても何も出ないよ」
「本当にありがとう。ずっと溜め込んでいたから。話せてすっきりしたよ」
「それはそれは。お役に立てて光栄です」
刀条が恭しく頭を下げる。
下げた頭を上げた時、刀条は一瞬動きを止め、にっこり笑った。
「ねえ、西寺。やっぱり西寺は人間だよ」
「え?」
「だってほら。顔」
「顔がどうかしたの?」
「ああーもう。自分の顔、確認してみなよ」
おそるおそる自分の頬に右手で触れると、しっとりとした感触が指先に伝わった。試しに舐めてみると塩辛い味がする。数年振りの感覚だ。
俺が涙を流してる。
こんなものがまだ流れるなんて思ってもいなかった。どうして俺は、今まで泣けなかったんだろう。どうして泣くことを忘れていたんだろう。
「……涙だ」
「そうだよ。西寺は、ちゃんと涙を流せてる」
「……悲しくもないのに」
「うん。悲しくもないのに――嬉しいんだよ、きっと」
「……嬉し泣きっての、本当にあるんだな。そんなのフィクションの世界だけのものかと思っていたよ」
「人間は悲しい時に、嬉しい時に、怒った時や痛い時も、心配な時にも、恐い時も泣くんだよ。泣くことに理由は沢山あるけど、泣くことが出来るのは人間だけなんだよ。だから西寺はちゃんと人間だよ」
「ありがとう、刀条」
どうしよう。涙が止まらないや。
「礼を言うくらいなら、もっと泣きなよ。早く泣ききっててすっきりしたら。これ貸してあげるから」
刀条がカバンから取り出したのは、可愛いクマのイラストが入ったハンカチだった。
「ばーか。もう泣かねえよ。でもこれは使う」
俺はひったくるようにして、差し出されたハンカチを受け取った。
結局、俺が涙を止めたのは、それから十分後のことだった。
「話を聞いてもらったついでに一つお願いしてもいいかな?」
「なーに?」
首をかしげながら刀条が尋ねる。
「その……俺のことは皆には言わないで欲しいんだ」
「泣いたこと?」
「違えよ」
「うん。西寺が知られたくないのなら、私は誰にも話さないけど。私以外にも怪異である西寺を受け入れてくれる人はいると思うよ」
刀条の言葉はどこまでも正しい。
怪異である俺を受け入れてくれる人。刀条以外にもきっといたのだろう。
その人たちに俺が気付かなかったのは俺が勝手に受け入れてくれる人なんていないと思って気づこうとする努力を怠ったからだ。
わかっているのだけど、俺にこれからは怪異であることを刀条以外の人にも話してみようなんて考えは、いまは全く起きなかった。そんな勇気はまだ出ない。
「けれど、誰にもいまは言わないでほしい」
「わかった」
短く刀条は言った。いまの僕には短いその言葉だけで救われた気持ちになった。
「じゃあ、夜も遅いから私行くね」
「うん。気をつけて」
「それじゃあ、また明日!」
刀条は勢いよくベンチから腰を上げて駅に向かって走っていった。僕はずっとその後ろ姿を見ていた。
これで怪異は還したが、物語は終わらない。
明日を迎える人たちの物語が続いている。
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