第14話

 六時間目が終わるとすぐに俺は教室を飛び出して保健室に向かった。

 待っていろよ、梅村。

 そこにいてくれよ。

 廊下を走るなーという先生の声を無視して俺は駆けた。校内を走るのは実に三年振りだ。三階の西の端にある俺のクラスから一階の東の端にある保健室までかかった時間は五十三秒。人間やれば出来るものだ。

「失礼します」

 保健室のドアを開けると梅村は白いベットの上で本を読んでいた。僕が来たことに気づくと慌てて本は隠してしまったので本のタイトルは分からなかったけど、隠すということはあまり大っぴらにできない内容なのだろうか。まあ人に秘密はつきものだ。

「どうしたの、西寺君?そんなに息を荒くして」

 俺はさっきから肩で息をしていた。全力で走ったから息が上がっているのだ。

「いまって梅村一人?」

「そうだけど」

 この場所に梅村一人なら幸いだ。昨日のことを謝ろうと決心して俺は深く息を吸い込んだ。

 息を吐いて、一息に言う。

「梅村、昨日はごめん」

 俺はがばりと頭を下げた。

 やってみると案外簡単で、実にあっさりしたものだった。

 形だけの謝罪。心の籠っていない、自分自身の罪悪感を軽減するためだけの謝罪。

 一回謝って梅村が許してくれたら帰ろうとか、甘っちょろい考えの謝罪だった。

「いいよ、そんなこと。昨日、俺が助けてなんて言ったのはただの気の迷いだから。それに昨日のことは元はと言えば僕のせいなんだ。部長は何も悪くないんだよ。悪いのは僕なんだから」

 だけど、梅村が真剣な眼差しで自分を責めている様子を見て――声が出ていた。

「どうしてそんなこと言うんだ?」

「……」

 梅村は答えない。

「昨日のあれは明らかに一方的なリンチだっただろ。仮に梅村に原因があったとしても散々に殴った挙句にそんな怪我を負わせるなんておかしいよ。どう考えても馬場先輩っていう人が悪いんだ。だからさ、そんな風に自分を卑下するなよ」

「……」

 梅村は顔を伏せた。俺は続ける。

「大体、梅村は納得しているのか?馬場先輩のおもちゃにされて悔しくないのか?今日だって廊下で滑ったなんて嘘で、馬場先輩にやられたんだろ。昼休みに馬場先輩と一緒に教室を出て行った時の梅村の顔、最低だったよ」

 俺の言葉に梅村はじっと考え込むようにしてから顔を上げ、苦笑しながら言った。

「そんなにひどかった? 僕の顔」

「ああ、ひどかった。まるで重要な案件でひどいやらかしをして、クビを覚悟するサラリーマンみたいな絶望的な顔をしていたよ」

「サラリーマンか。悪くないな」

 そう呟く梅村の顔は何かをやり遂げたように清々しいものに変わった。梅村は短く刈り込んだ髪と柔道で鍛えた筋肉質でスマートな肉体を持つ、爽やかという言葉が似あう男なので、一層清々しい。

「なあ、格好つけているところ悪いけど、俺の話聞いていたか?」

「うん、聞いてた。西寺君がサラリーマンになりたくないっていう話だよね。続き、聞かせてよ。どうしてサラリーマンになりたくないんだっけ?」

「おい、梅村。お前いつからそんなおとぼけキャラになったんだ? 俺には梅村が自分からボケるような奴みたいには全く見えなかったんだけど」

「そりゃあ、当たり前だろ。本当の自分と自分のことを何も知らない、知らせたくない他人から見た自分って違うものじゃないか。間違っても自分から、クラスでは真面目に見えるけど本当はボケまくるしドジを踏みまくる人間です、とか、いつもバカなことばかりしているけど本当は真面目で家では勉強ばかりしているんです、とかなんてアピールする奴なんていないじゃないか」

 胸に小骨が突き刺さった気がした。

 自分のことを知らせたくない――それは俺の学校内でのポリシーだ。

「じゃあ、俺にボケたのは俺に自分を知ってもらいたいってことなのか?」

「そう言われると照れくさいな。知ってもらいたいというか信頼かな。今まで西寺君とは喋ったことなかったけど、こうして話してみると人見知りが激しいだけで、いたって普通の高校生だ。それに一番にお見舞いに来てくれたし。そういうのって、こうぐっとくるんだよね」

「単細胞な奴」

「うん。僕はミジンコ並みの単細胞だよ。だからさ、気楽に接してくれよ。認めるよ。僕は君の僕のことを知って欲しいんだ。西寺君、僕の友達になってよ」

 友達なんてまっぴらごめんだと思いこもうとする俺は捻くれているんだろう。本当は、友達になろうと言われて嬉しいと感じたのだから。だけど、今までの習慣が友達なんて要らないという机上の空論を本物にしてしまう。

 嬉しさが歪んで歪んで、信じられなくなる。

 俺は怪異なんだから。

 怪異、怪異、怪異――世の中から外れている存在。

 怪異に侵された俺という存在は普通の高校生とはあまりにも縁遠い。

 梅村は、無意識に暗くなっているに違いない俺の顔を窺って言った。

「西寺君の方こそ今にも電車に飛び下りそうな顔しているけど大丈夫?」

「ああ、ごめん。少しぼーっとしてて。俺はサラリーマンに結構憧れるよ。働いている人って格好いいじゃないか。会社の為に働くことは何かしら社会の役に立っているし、誰かを喜ばせることが出来るだろ。それって素晴らしいことだと思うよ。大人はみんな当たり前のようにスーツを着て会社に行くけど、すごいよ。それに、働く人はほとんどサラリーマンだろ」

「へえ。西寺君がそんな風に考えていたなんて意外だ。てっきり社長でも目指しているのかと思ってた。周りを見下すようなオーラあったし。西寺君に近寄りがたい印象を持っていた人も結構な数でいたんだよ」

 俺は知らず知らずの内にクラスメイトを怖がらせてしまっていたらしい。誰とも関わりたくはなかったけど怖い奴だと思われるのは心外だ。

 でも、それが当然か。

 きっと本能で、俺が人間じゃないと知っているんだ。

 駄目だ。このままだとどんどん暗くなる。

 灰島との会話に比べれば、梅村との会話は天国だ。とにかく、この場を切り抜けるんだ。

 俺は心底意外だといった表情を作った。

「そんなオーラ出してたのか……」

「うん。半径五メートルは近づくなって感じでなかなか迫力があったよ」

「ごめん。反省する」

「まあ、悪い人じゃないから態度を改めれば、危険人物扱いはすぐにやめてもらえると思うけど」

 うーん。それはどうだろうか。イメージってのは簡単に変わるものじゃないからな。

「で、馬場先輩は今日の昼、お前に何をしたんだ?」

「なんだ、わかっているんだ。それじゃあ嘘をついても仕方ないね。頭を殴られたんだよ」

 梅村は何でもないことのように呟いた。

「馬鹿、早く言えよ。なんで廊下で滑ったなんて嘘をついたんだ」

「僕は嘘なんてついてない。ここに運び込まれた時、既にそうなっていたんだ」

「それってつまり――」

「部長が嘘をついたんだよ。僕を保健室まで運ぶ前にね。大方、他の空手部員を先に保健室に行かせて、そう言わせたんだろうね。まあ、その嘘を否定しなかった僕にも責任はあるけど。でも僕が悪いんだから仕方ないさ」

 梅村は苦笑した。

 なんで否定しなかったんだよ、とは言えなかった

 理由は分からないけど、梅村は殴られることを自分のせいだと考え、殴られることを受け入れている。

 明らかに歪な状況だけど、当人が納得しているものに他人が首を突っ込むのは、要らぬおせっかいだ。梅村は覚悟を決めているし、俺の助けなどいらないと言ったのだから。迷いのない真っ直ぐな目で。

「……なあ、このままここにいたら、また馬場に殴られんじゃないのか?」

「その心配はないよ。馬場先輩は今頃、バイトさ。家族の家計を助けるために、週三で働いているんだよ。確か今日はバイトの日だから、ここまでやって来る心配はないよ」

 梅村が言っていることが本当なら、今日のところは大丈夫なんだろう。

 それにしても梅村は、いまの状況を受け入れているのだろうか?

 一貫して自分が悪いみたいに言っているところが気になる。

 でも、俺も似たようなもんか。

 こういう場合、俺に出来ることは無いに等しい。あるとすれば笑って別れることだけだ。

「……そうか。なら安心だ。梅村、俺はそろそろ家に帰るよ。色々、訊いちゃって悪いな」

「ああ。お見舞いに来てくれてありがとう。僕はもうちょっと休んでから帰るよ」

「じゃあな」

「じゃあな」

 俺は手を振って保健室を出た。

 保健室のドアを閉めると、近くに昨日見た空手部員が数人いることに気付いた。彼らはそわそわした不安そうな表情を浮かべている。

「あ、もう保健室の中は梅村だけだから。入ったら?」

「は、はい」

 そう言うと、金縛りが急に解けたように彼らは保健室の中に入っていった。中からは、彼らの話し声が聞こえる。

 心にもやもやしたものを抱えながら、俺はその場を後にした。

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