第8話

「ちょっと待って!」

「何だよ?俺はトイレに行きたいんだ」

「私、さっきはいきなりのことで驚いちゃったけど、もう大丈夫だから」

「無理して嘘つかなくていいから。ばいばい」

「待てって言ってるでしょ!」

 俺は背後からの声を無視してトイレに向けて歩を進める。

 今日、名前を覚えていないクラスメイトを無視した時と同じように。

「おい!」

 後頭部に突然の衝撃。

「いてっ。何すんだ!誰だよ!」

 後ろを振り返ると右足は白いソックス、左足には黒の革靴の彼女が右手を上げて立っていた。

 目の前に落ちているのはそれほど汚れていない右足用の革靴。

 俺は事態を理解して、すぐに取るべき行動を開始した。

 コンクリートの上の革靴を拾い上げ、彼女に投げつけようと投球モーションに入る。

 右手を高く振り上げ、左足を大きく踏み込んで、腰を回転させる。

 手から革靴を離そうとして、

 ――やめた。

 なにムキになってんだ。バカバカしい。

 俺は口を開いて呆気にとられる彼女の許に歩いて行って革靴を差し出した。

「ほら、お前のなんだろ。大事にしろよ」

「う、うん」

 気をそがれたような顔をした彼女は素直に俺の差し出した革靴を受け取った。

 履きながら彼女は言う。

「あ、あれっ?何で投げなかったの?」

「女の子に物を投げるなんて出来る訳ないじゃないか。じゃあ、俺はトイレに行くから。ばいばい」

「えっ、あ、ばいばい」

 よし、しっかり別れられた。

 安心した俺が後ろを振り返ると目の前に、灰島がいた。ミミーの姿は見えない。散歩にでも行ったんだろう。

「おっ、西寺君。その子は誰?」

 西寺が後ろの彼女を指差す。

 しまった。これじゃ、逃げられないじゃないか。

「彼女は……」

「私、刀条ひさなって言います。刀でとう、条約の条に平仮名でひさなです」

 俺が言葉を出すよりも早く、元気な声で刀条は言った。

 刀条ひさなっていうのか。確かにそんな感じだったかもしれない。

「へえ、格好いい名字だね。名乗られたからには僕も名乗るよ。僕の名は、灰島だ。グレーの灰に、厳島の島だ」

「素敵な名前ですね」

 刀条はにっこりと微笑んで言った。

 確かに間違ってはいないけれども、普通、灰島は名字を指すと思うんじゃないか?

「そうだろ?なかなか気に入っているんだ、この名前」

 ただの社交辞令なのに、灰島は本気で褒められていると思っているみたいだ。

「あのう、灰島さんは西寺君とはどういった関係なんですか?」

「知り合い以上家族未満の関係かな」

「やっぱり、そうなんですか。私、応援しているんでぜひ幸せになってください」

 ん?おかしい。

 いや、おかしくないか。

 灰島と俺は恋人同士という設定なのだから。

「ねえ、応援って何のこと?」

 灰島が素直な疑問を口にしたように言った。

「それはね……」

 刀条が口を開いた。

 このままだと、嘘がばれる。

 そうなったら俺の平穏な高校生活は終わりだ!

 迷う暇はない。

「俺に答えさせてくれっ!」

 俺の勢いに弾かれたように灰島と刀条が僕を見る。

「刀条は、友達のいない俺が灰島と仲良くしようとしているの応援してくれているんだ。教室では誰とも喋らない俺が、一緒に話したり笑ったり心を通わせたりする友人を作ろうとしているのを暖かく見守ってくれてるんだよ」

 灰島は納得したような表情をしたが、刀条は違った。

 刀条はどこまでも正直な奴だった。

「うーん。まあ確かにそういう意味でも応援しているんだけど。私は二人の恋を応援しているんです」

「えっ?」

 灰島があんぐりと口を開ける。

「私、西寺君と灰島さんが恋仲だと聞きました。男同士の恋って、なかなか難しいところもあると思いますけど、苦難を乗り越えて幸せになってください。ほら、困難な恋ほど燃え上がるものだと言うじゃないですか。頑張ってください。私、応援していますから」

 刀条、お前が燃え上がってくれ。

「へぇー。西寺君、僕らのことそんな風に説明したんだ。それにしても恋人なんてもっとマシな説明してくれても良かったじゃないか。君は本当にアドリブに弱いねぇ。っていうか、僕がずいぶん前に設定を考えたじゃないか。僕は、君の従妹のおばあちゃんのそのまた従弟である誠司おじさんの娘のはとこのはとこで豆腐屋を営んでいる清子おばさんのひ孫の従弟だって。要するに僕らは遠い親戚でもなんでもない赤の他人だって」

「そんな、ただ長いだけの設定なんて意味ないだろ!他人です、でいいじゃないか!」

「どういうこと?」

 刀条が訳がわからないといった視線を俺に向ける。

 さて、本当に俺たちの関係はどう説明すればいいんだ。まるでいい案が思い浮かばない。俺には、アドリブ力が皆無みたいだ。

「冗談はさておいてさ。ひさなちゃんだっけ?僕らの関係は口で言うと難しいんだよ。もちろん恋人ではないし、かと言って親子という訳でもない。友達でもないし、親戚でもない。互いに多少、依存してはいるけど四六始終くっつきあっている訳でもない、そんな関係なんだよ。と言われてもよくわからないだろ?だから西寺君も上手く説明出来なかったんじゃないかな。そうだな、僕のことは世話焼きのお兄さんぐらいに思ってくれればいいよ」

「何か誤魔化されている気がするんですが?」

「刀条、灰島は本当にただの世話好きのおっさんなんだ。まあ、ただのって訳じゃない。灰島は俺の恩人なんだ。赤の他人といっても俺らの仲が良いのはそういう理由だ。あと、灰島が俺の恩人である訳は訊かないでくれ。そのことについては話したくないんだ」

 嘘は言ってない。

 釈然としない様子だった刀条も俺の真剣な目を見ると俺の話を信用したのか小さくうなずいた。

「わかった。西寺君は人には言えない過去があって、灰島さんはそんな過去の恩人なんでしょ」

 結構するどいな。大体合ってるよ。

「そんなところかな」

「ふーん。まあ、西寺君がどんな暗い過去を持っているかなんて訊かないけど、なんか困ったことあったら私に言ってね。相談くらいは乗ってあげられるから」

「ああ、わかったよ」

「それじゃあ、また学校でね」

 刀条は俺たちに手を振って駅の方に駆け出して行った。

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