第5話

 でなきゃ、還怪師である灰島の協力者なんかなれない。

 俺が怪異を見ることの出来るようになったのは三年前。

 それはただの気まぐれだったのかもしれないし、ずいぶん前から決められていたことだったのかもしれない。

 当時の俺は無責任にも、学校からの帰り道に突如として現れた屋台でソレを買って食べた。ちょっとした好奇心だった。

 見慣れない屋台、お面をつけた店主、一つだけしかないメニューに俺は惹かれた。友達と別れた直後で一人だけだったのもあるのかもしれない。好奇心だけで行動してしまったのは若者特有の無謀さだったのだろう。とにかく俺はソレを食べ、食べた後、俺は突然の高熱に襲われ道端で気を失った。

 その後、通りすがりの主婦が倒れている俺に気付いて、救急車を呼んでくれて、俺は病院に連れていかれたらしい。気付いた時には見慣れない病室にいて、両親が、涙を浮かべながら目を覚ました俺の手を握りしめていた。

 力強く――何度も何度も。

 当時の普通の俺だったらそこで声を震わせ泣いていただろう。

 俺は涙脆かったから。

 でも、その時の俺は普通じゃなかった。

 いや、その時から俺は普通でなくなった。

 視界がおかしかった。見えてはいるんだけど、まるでレンズ越しに違う世界を見ているような感覚。俺は両親に対して、「俺は大丈夫だよ」と繰り返すしかなかった。

 狂った気持ちの悪い感覚は退院して家に戻ってからも続いた。見慣れたはずの自分の部屋も食卓に出てくる母の料理も両親の顔も映画の世界にあるような感覚。何もかもがそこにあるけれどここにはない感覚。

 怖かった。今まで生きてきた当たり前の世界から何の前触れもなく自分だけがつまみだされたように感じた。食卓での父の冗談を聞いても、いつもなら大爆笑していたお笑い番組を見ても笑えなくなっていた。

 そして退院して二日経った夜、異様な感覚にとうとう耐えられなくなった俺は両親に気付かれないよう家を飛び出した。その時の状況から逃げ出したかった。とにかくおかしくなってしまった異常な家から逃げ出したかった。

 特に行く当てもなかったので、おかしくなってしまった目について何か手がかりがあるかもしれないと思って、俺は屋台のあった場所に向かった。

 その場所に着くと屋台は既になくなっていて、代わりにボロボロになった屋台らしきものといまと変わらないアロハシャツに短パン、下駄の灰島がいた。灰島は俺に気付くと、こう言った。

 ――少年、大丈夫かい?とりあえず涙でも拭けよ。

 灰島は、今では到底言わないようなセリフを吐いて俺にハンカチを差し出した。優しい言葉が嬉しくて素直に俺はハンカチを受け取った。そのハンカチで目元をごしごし拭き終わった時、俺の目を覆っていたレンズは消えていた。

 手品のように悩みの種が消え、驚いた顔をして目の前に現れた救世主を見つめていた俺に灰島は言った。諭すように、真剣な眼差しで。

 ――少年、君はもう普通の人間じゃない。そのハンカチを使っても僕のことが未だに見えているってことはそういうことなんだ。

 続けて灰島は言った。

 ――君は、化け物になってしまった。

 いきなり化け物と言われて困惑していた俺に灰島は分かりやすく説明をしてくれた。

 俺は、人間とは決して相容れない存在である怪異に、関わってしまったということ。

 俺に手渡したハンカチは怪異への拒否反応から起こる視界の歪みを修復するもので、本来なら歪みと共に怪異も見えなくなること。

 でも、俺は怪異となった自分自身に適応しすぎていた為に、歪みが消えただけで怪異は未だに見えたままであること。

 俺の前に現れた屋台は怪異によるもので人間がソレを食べて生き残るかどうかの賭けをしていたということ。俺は怪異の遊びの対象に偶然なってしまったこと。

 俺の食べたソレは人魚の肉だということ。人間にとって人魚の肉は猛毒だが、もし生き残れば肉体の老化が止まり永遠に等しい長寿と驚異的な治癒能力を手に入れること。

 そうなった者は、もはや人間というより怪異の一種――八尾比丘尼と呼ばれる存在だということ。

 怪異というものについては当時の俺も多少は知っていた。アニメとかドラマとか小説とかに妖怪を題材にした作品は多くあったし、怪異が出てくる民話や怪談なんかが好きだった。

 でも、怪異なんてものは人間の想像のものに過ぎなくて、現実ではお話に出てくるようなことは起こりっこないのだと考えていた。

 まさか実際に自分が怪異と関わるなんて全く想像もしていなかった。

 それでも俺はそんな嘘みたいな話を信じた。自分を助けてくれた男が嘘をつくとは、思わなかったのだろう。

 そして、灰島は続けて言った。

 ――いいか、よく聞いて。よく考えるんだ。君には選択肢が二つある。

 ――家族から離れこの町から出ていくか、それとも。

 ――怪異であることを隠し、家族と暮らし続けるか。

 怪異は決して人間とは相容れない。

 当時の俺は十七歳になったばかりの高校二年生。

 そんな重大な決断をするには足りないものがあり過ぎた。

 人生経験が、論理的思考が、大切なものへの自覚が。

 もっと深く考えておけばよかったんじゃないかって、一人で結論を出すものじゃなかったんじゃないかって俺はいまでも時々思う。でも後悔はしていない。決断の結果を受け入れて、他の可能性を考えているだけだ。

 俺は数分考えて言った。

 ――お前が一緒なら俺はこの町を出ていく。

 と。

 当時の俺としては、食べ物に釣られて、怪しい屋台で人魚の肉を食べてしまったという自分の過ちのせいで怪異というものになった以上、怪異であることを隠して家族とこれまで通りに暮らすことは無責任のような気がしていた。

 それでも、一人っきりでどこか知らない土地で生きていくことはあまりにも心細かった。だが、灰島という自分を助けてくれた人となら知らない土地でもやっていけると思った。

 全面的に灰島を信用し、信頼していたのだ。

 お前がそう言うなら家族になってやるよ、と灰島は答え、付け加えた。

 高校には行け、そして僕のことを忘れるな、この二つが僕の条件だ、と。

 俺は高校に行くことは不老不死に近い存在になったいま、大事なことじゃないと思ったけれど、暇潰しにはなるし高校卒業くらいはしたいと思っていたし、二つ目の条件は当たり前のことに思われたから俺はすぐに頷いた。

 それから俺は町を出て灰島とミミーと一緒に町を転々としている。怪異が同じ場所に留まり続けるのは良くないと言って、最長でも一年以内に次の町に行くのが俺たちの慣習だった。

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