第2話

「やあやあ、西寺君じゃないですか。そんなに息を切らしてどうしたんですか?珍しい」

 高校を出てから二百メートルほどのところで、クラスメイトを置いて逃げ出した俺に声をかけてきたのは、灰島だった。

 よれよれのアロハシャツにボサボサ天然パーマの白髪頭。短パンに下駄を履いた、一度見たら一生忘れられないような、奇想天外な見た目のおっさん。見ている分には面白そうだけど、決して関わりたくないタイプのおっさん。

 俺の目の前にいるそんなおっさんこそが灰島だった。灰島は俺にとって、残念ながら知り合いというより相棒的な存在だった。

「たまにはそんな日もあるだろ」

 俺はわざとぶっきらぼうな口調で言った。

「ふうん。今日は僕に少しでも早く会いたい日だと」

「違えよ!」

「では、何のために急いでいたのかな?」

 灰島は含むような笑いを浮かべた。

 ――助けを求めていたクラスメイトの顔が思い浮かぶ。

 急いでいた理由なんてわかっている。自己嫌悪だ。

 クラスメイト一人を助けられない、いや助けたいとも思えない自分自身に対する自己嫌悪から逃れたくて俺は走っていたのだ。あの道場から逃げた後、灰島の姿を見るまで。

 でもそれを言うのは、自分が余計に惨めになる気がして、俺は誤魔化した。

「それは……あれだ。つまりな、溜まりに溜まった青春特有のパワーを吐き出したくなって走っていただけだ」

 灰島がにやりとする。

「――青春ねえ。あなたがそれを言いますか」

「誰にだって青春する権利はあるだろ」

「ふうん。権利って響きが嫌だねえ。他人に動いてもらうことが前提みたいで。権利っていうより自由と言いなさい」

 灰島はこのように時々言葉遣いにいちゃもんをつける。本人なりのこだわりがあるらしいのだが、いちいち突っかかられる身としては迷惑だ。

「じゃあ、青春する自由で」

「流されやすいなあ、相変わらず」

「お前の言った通りにしただけだろうが!」

「えっ、そうだったけ?そんなことより、どうして走っていたの?まあ、別に言いたくなければ言わなくてもいいんだけどね」

 それを聞いて心臓がドクンと跳ねたが、最後の言葉で心臓は元に戻った。

「ああ、そうしてくれ」

 灰島は俺の急いでいた理由にそれ以上頓着することなく黙った。きっと俺が言いたくないことを察したのだ。

 こんな風に灰島は時々優しい。大人ぶっていて癪に障るところもあるが、どこか憎めない奴なのだ。

 灰島と一緒にいるはずの彼女が見当たらないことに気付いて、キョロキョロと辺りを見渡す。だが、どこにも彼女の姿はなかった。

「灰島、今日は、ミミーはいないのか?」

「いるぞ。僕の後ろに」

 灰島が背中の後ろを指差す。

 ……ミャー。

 すこし間が空いて灰島の後ろから一匹の黒猫が現れた。黄色の瞳以外は全身真っ黒だ。灰島の隣で優雅に毛づくろいしている。彼女とは、この猫のことだ。

 こうして見ると人間と散歩をしているのは別として、普通の猫と変わりない。だがミミーは全く普通の猫ではない。猫と呼んでいいかどうかも怪しいぐらいだった。

 少なくとも普通でない点が二つある。一つ目は耳が欠けていることだ。初めて遭った時からミミーは、両方の耳が見事に欠けていた。初めて見た時は、俺も驚いたが、今となってはすっかり慣れた。これがミミーなんだと思っている。耳のない理由はわからなかった。灰島に訊いても元からだと言う。だから元からのことなのだろう。

 ミミーという名は灰島がつけた。耳が無いからせめて名前だけでも耳を贈ってあげようと思って名付けたらしい。悔しいが、良い名前だ。

 灰島の飼うペットであるミミーが普通ではない二つ目かつ最大の点は、彼女が灰島の使い魔であることだ。

 使い魔とはそう、人間が使役し、様々な雑用を主人の代わりに行うものである。名前の由来だけは、この軽薄そうな男と不釣り合いにやけに感動的だが、ミミーが使い魔であることは忘れてはいけない。ミミーは、ただの猫ではないのだ。ひょっとしたら知性だって人間並みに持っているかもしれない。

 といっても、ミミーが人間の言葉をしゃべっているところを目撃したことはないが。

 そして使い魔を使う者は、使い魔以上にただ者ではない。

 ミミーが使い魔なら、灰島は人ならざる者だった。

 なんだかいい加減なネーミングセンスだと思われるかもしれないが、わかっているのは人ではないということだけの正体不明の存在を他に何と呼べばいいのだろう。

 見た目は少し変ではあるけれども普通の人間と変わらない。触り心地も血の色も人間と変わらない。どこをどうとっても完璧に人間だ。食事も睡眠もとる。四六始終、灰島の行動を観察していないと誰も灰島が人間でないとはわかるまい。

 だからこそ、正体不明な存在なのだ。

 ――還怪師。

 灰島は自分のことをそう称した。

 この世の理から外れた怪異から人間を守る為に遣わされた者、生み出された者。人に悪意を持って仇をなす怪異を取り締まり、元の世界へとあるべき場所へと還す者、それが還怪師。

 灰島の話によると、還怪師という存在は不気味なものから自分を守ってくれる存在が欲しいという人間の願いによって生み出されたものらしく、その願いが消えると還怪師自体も徐々に消えてしまうらしい。

 不確かで、不明瞭な存在。

 儚げで、朧げな存在。

 還怪師は原則として、怪異管理局――通称、管理局に登録し、管理局から斡旋された仕事を受けることになっている。何度か灰島が管理局の関係者らしき人と話していることを見たことがある。

 そして俺はそんな灰島の協力者だ。

 協力者も、還怪師によって管理局に登録される。

 ちなみに俺自身は管理局の人と話したことはないが、俺のことは灰島の協力者として管理局も把握していると灰島は言っていた。

 協力者の役割は主に二つ。

 一つ目は、いるものとして還怪師の存在を認識することで還怪師の消滅を防ぐこと。認識さえしていればいいのだから、簡単な仕事だが、もし認識を誤れば還怪師がこの世からいなくなってしまうことを考えれば重要な役割だと言える。

 二つ目は、還怪師の手足となって怪異の返還をサポートすること。こっちはなかなか大変だ。文字通り還怪師の手足となって、働かなくてはならない。主にやることは、情報収集に、一般人との交渉、そして還怪師の戦闘補助。

 戦闘補助だけはやりたくない。まあ、戦闘が必要な仕事なんて複数の還怪師がチームを組むのが常識らしいから、灰島みたいに単独行動ばかりしている還怪師には、ほとんど回ってこないんだけど。

 それでも何の間違いか知らないが、一度だけ戦闘が必要な仕事が回ってきた。その仕事で俺は灰島の盾代わりにボコボコにされ、とにかく痛みに耐えることだけに全力を捧げたという二度と体験したくない思い出しかない。あの時の絶望感といったら、もう言葉にできない。もはや、トラウマものだ。

 さてさて、思い出したくもないトラウマの話なんてこの辺でいいだろう。

 これもまた灰島によると俺みたいな協力者は表面上現れていないだけで、全国津々浦々に存在しているらしいが、俺は他の還怪師や協力者に出会ったことはない。まあ、それは灰島が単独行動を望み、他の還怪師との連絡を一切取らないからだ。

 とにもかくにも、俺は灰島にとって、命の恩人のような存在といっても過言ではない。

 なのに灰島ときたら――

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