怪適な青春

早瀬渡

第1話

 ――夕方。

 私立稲庭高校の校内は、授業を終え家に帰る生徒や部活動を行う生徒の姿がちらほらと目につき始めていた。

 そして、稲庭高校の高等部二年三組に所属する俺、西寺久にしでらひさしもそんな生徒の一人として帰る途中だった。

 桜の花びらの残る校内を歩いていた時、ちらりと道場に目をやると空手の胴着を着たクラスメイトの男子の姿が見えた。その男子は、体格の良い上級生に向かって必死に土下座をしていた。その上級生は顔を紅潮させて、目をつり上げて、口を大きく動かしていた。

 練習をさぼって怒られているのだろうか。さすがに土下座はやりすぎだと思うが。

 可哀想に。

 確か、名前は……と脳味噌をフル稼働させる。

 だが、思い出せない。同じクラスメイトであるのに、一文字も思い出せなかった。

 俺は記憶を辿ることを二秒で打ち切り、再び足を前に進めようとした。

 その時、説教をしていた上級生が土下座をしていたクラスメイトを殴るのが目に映った。

 一度でなく、二度三度と。

 クラスメイトは殴られる度にすいません、すいませんと口を動かしていた。

 その様子は不様で、不憫だった。

 説教というのには、あまりに酷い光景だった。土下座どころではない。

 嫌なものを見させられた。どっかでパフェでも食べて今見たことを忘れたい気分だ。

 だが、すぐには目を離せない。

 見たところ、胴着を着た生徒はクラスメイトと彼を殴る上級生以外にも十人ぐらいいる。

 しかし、その生徒達はただ目の前の明らかにやり過ぎな指導を止めようとすることなく、青ざめた顔で、うつむいて、唇を噛みしめながらじっとしていた。

 まるで嵐が通り過ぎるのを待つように。下手に動けば自分も嵐に巻き込まれることを恐れているようだった。まあ、止めに入ったら実際にそうなるのだろうが、なんとも情けない。

 でもそれが間違っているとは思えない。自分を守りたいならひたすら見て見ぬ振りをするしかないのだ。人は誰でも我が身が一番なのだから。

 俺もあんな暴君みたいな嵐には関わりたくない。そう思って、やっとのこと道場から目を離そうとした。

 その時。

 ――に、し、で、ら、助けて。

 俺を見つけたクラスメイトの唇がそんな風に動いたのを目で捉えた。

 ドクン。毒針に刺されたみたいに心臓が一瞬止まる。

 助けを求めて、必死に声を絞り出すような顔だった。

 俺は、胸の痛みを無視して、慌てて目をそらした。

 ――俺には関係のないことだ。

 道場から一歩ずつ歩を進める。

 体がずきずきと痛い。後ろを振り返るのが恐い。

 でも、俺には関係ない。関係しちゃいけない。

 それに、俺が彼の為に動いたとして、俺にいったい何が出来るのだろうか。万年帰宅部の俺に空手部の奴らでも立ち向かわない体格の良い空手部の上級生に殴り合いで勝てる訳がないし、先生を呼びに行ったところでほとぼりが冷めた頃に報復されるのがオチだ。

 彼に変に好意を持たれても困る。俺は誰とも親しくなりたくない。

 ――ごめん。

 俺は下を向いて小走りに帰路を急いだ。

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