第8話 変革への道標

 あれは、夢だったのだろうか。

 ぼくは、あるさびれた駅のホームのベンチに腰かけ、曖昧模糊とする記憶の糸をたどるように考え込んでいた。

 時間は夕方である。

 眼前遥かに見える切り立ったリアス式海岸の向こうに、真っ赤な夕日が沈んでいく。

 夕日の映える海が、白い波頭を上げている。

 心地よい波の音と潮風の匂いが、ぼくの全身を包み、洗い上げていく。

 あのとき、確かにぼくの眼の前にライトの強烈なビームが迫って来ていた。

 それなのに……。

 光に包まれて死を予感したとき、ぼくは、仙台行きの列車の座席で目を覚ましたのだった。まったくどういうことなのか見当もつかない。

 ただ言えることは、向かいの席に座る、赤ん坊づれの若い母親が、怪訝そうにぼくの顔を覗き込んでいた、それだけだ。

 どうやら、声を上げて眼を覚ましたらしい。

 赤ん坊が、きゃっきゃっと笑い声を上げて、母親の袖を引いていたのを覚えている。

ぼくは何が何だか理解できないまま荷物をまとめ、そそくさと席を立った。

 そして、次に停車した駅で、飛び出すように列車から降りたのである。

 記憶が混乱を来たしていた。

 夢を見ていたのだろうか。

 いや、夢だと思いたい。しかし、本当に夢だったのだろうか。

 ぼくは瞑目し、記憶の混乱の中に精神を飛ばし、真実を探って行った。

 と、怒濤のような勢いで何かが迫って来るのがわかった。


 なんだ、これは…!

 夜の街。人喰い虫。なんだ、知らんぞ!

 夜、異次元、時空、崩壊…知らん、知らんぞ! 心のうちで叫んでも、その記憶は留まることなく僕の精神を打ちのめしていく。

 侵攻防人男境界闇破滅闇うんめいヤミ真実やみヤミ闇暗黒……死、ヒカリ、よう…。

なんだ…どういうんだ?

 ぼくの精神が、砕けていく。その内側から、何かがあふれて来る…。

 あれは、なんだ。

 光? 闇?

 そのとき、駅のホームにある大きな古時計が、午後七時をさして鐘を鳴らし始めた。

 もう七時か…。

 ぼくは何気なく腕時計を見て愕然となった。

 腕時計の針は、十時をさしていたのだ!

 それを見た途端、ぼくの脳裡で閃光が弾けた。三時間だと! 三時間のズレだと!?

 ぼくは、あの街に、あの夜が支配する街に、確かに三時間いた!

 前後も左右もない全き漆黒の闇。

 飛び交う幾条もの閃光。

 光と闇とが交錯する絶対無音の世界。

 あの街で、ぼくは異様な姿の〝夜の生物〟に遭遇し、美貌の戦士〝防人〟の妖に出会い、世界の真実を知った。

 急速に記憶の混乱が収まり、意識野が拡大していく。ぼくは、神の意思により時間と空間を越えて真実を見聞きし、またこの地へと戻って来たのだ。

 夢ではなかった。

 ぼくだけが空白の三時間を体験したために、その時間の分だけ時計の針が進んでいたのだ。

「よし!」

 と立ち上がったとき、ぼくの心はすでに決まっていた。誰が何と言おうと、もはやぼくの心を搖れ動かすことなど出来はしない。

 人に真実を伝えること。

 これが、ぼくの使命だ。神より与えられた至上命令だ。これを成し遂げるまで、ぼくは死にはしない。

 ぼくは荷物を海へ捨てるつもりだった。

 これからのぼくの生活に、カメラもVTRも不要だった。必要なのは、この身体、この言葉のみだ。

 ぼくは歩き始めた。

 自分の、今生での役目を見出だした人間の精神は、これほどまでに清浄で、明るく、軽やかになるものなのか。

 ぼくは今にも舞い上がってしまいそうになる精神をおさえつけ、一歩一歩、着実に歩き始めた。

 そのとき、ぼくはふと思った。

 彼は、今この瞬間にも〝夜〟と戦っているのだろうか。

 ぼくは振り返って背後を見た。

 東の空から夜闇が迫りつつある。あれは夜だろうか。それとも〝夜〟だろうか。

 妖たち防人の戦いを少しでも楽なものにするために、ぼくは人を導かなければならない。

 ぼくは、再び歩き始めた。

 歩みゆく先に広がるは光か、それとも絶対無音の夜か。

 だが、恐れることはない。

 今はただ、己が役目を果たすのみだ。

 きっと、今のぼくの顔は、晴やかに輝いていることだろう。



 その翌日、山本清一郎は東京に姿を現した。

 不安はあった。

 人々の吐き出す無限の想念がどぶどろのように混じりあう都会にあって、自分の〝声〟が何処まで届くのか。

 自分の意識が捻じ曲げられ、狂ってしまうのではないか。そうも思った。

 だが、逃げるわけには行かなかった。

 彼がここで退けば、人類の未来は永劫に闇に沈んでしまうだろう。だから、敢えて彼は欲望の坩堝に身を投じたのだ。

 そして、いま、彼は俗世界とのつながりを断ち、世の気の流れを感じ取ろうとしていた。

 自分の体験して来たことを語り、今、この世界の裏側で着々と進行しつつある忌まわしき真実を呈示し、人々に進むべき道を差し示さんがために。

 人が、生かされていることを知り、有難き生の尊さを悟ったとき、人の変革は始まる。

 今こそが、その夜明けの秋(とき)なのだ。

 山本清一郎は、そう信じていた。


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遥かなる「夜」の都 神月裕二 @kamiduki

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