第7話 戦い その3
「う、うわあああ!?」
そこから少しの間だけ、実は記憶がないのだ。叫んでいたことも、自分が取った奇跡的な行動も。
どうも、ぼくは、辺りに散らばっていたガレキの一つを手に取り、男の後頭部に向けて投げつけていたらしいのだ。
子供の頭くらいあるブロックの破片を!
ごつん、と音がして破片は砕け散った。そして、男の後頭部が明らかに陥没しているのが眼に入った。
大剣の切っ先は、若者の美貌を汚すことなく、ほんの数十ミリ離れたところで停止していた。間一髪だった。
ぼくは、ふうと安堵の溜め息をついた。
「――!?」
そして、ぼくに向かってもの凄い殺気が放射されていることに気づいた。
男が、凄絶な相貌をぼくに向けて、こっちに近づいて来ていた。
眼が赤光を帯びていた。
血の気が顔から退いていくのがわかる。
ぼくは、そのとき死を覚悟した。
男の剣を掲げるしぐさが、やけにゆっくりに感じられた。まるでスローモーションにかかったかのように。
そのときだ!
「待てよ」
「――!?」
「おまえの相手は俺だろう?」
男が風のように振り向いた。
「貴様――」
男は愕然と眼を剥いていた。
そこに彼がいた。
若者は、半ば死相を呈していた。白い顔が、さらに青白くなり幽鬼のような美しさを醸し出している。
しかし、彼は生きていた。
「こ、この…死にぞこないがぁ!」
努号を放ち、男は若者の顔を横殴りに剣で打った。
彼の姿が、ふっと消える。剣が唸りをあげて虚空をすり抜けていく。
「――!?」
思わず男はたたらを踏んでいた。
何処だ!?
男が彼の姿を捜すうちに、その隙をついて、彼がぼくと男の間に割り込んできた。
それに気づいて、男が喚いた。
「この、鼠どもがぁ!」
ゴオ、と妖気を巻いて暗黒の剣が天より迫る。どうする?
そのとき、彼の口が素早く動いた。
また、魔法のエネルギーが動き出す。
刹那、男に向けて伸ばした右手から、青白い光が発生した。
稲妻にも似たその光は、その幾つもの触手を男に伸ばす。
光は剣に集中した。まるで剣が避雷針となって、男に電撃が命中するのを回避したかのようだ。だが、それで、男は剣を手放さざるを得なくなった。
そこが狙い目だった。
彼の長い脚が一瞬かすんだ。男の側頭部目がけて跳ね上がっていたのである。
ヒット!
男がたまらずたたらを踏む。そこへ、その間隙を突いて、彼は地を蹴り、左手に持っていた折れた剣で男の首をはねた。そして、とどめを刺すように再び呪文を唱える。
「――退け、〝夜〟よ!」
そう叫んで、彼が右の掌を突き出したとき、掌から無数の、蒼い光の矢が放たれた。
まさに月光の如き清浄な光。
〝夜〟の生物の身体が、限りない光の矢に貫かれていく。
死してなお痛みを感じるのか、それともまだ息絶えていないのか、ともかく、そいつは異様な絶叫を続けていた。
徐々に男の、人間としての輪郭が失われていく。混沌とした、夜の生物の本当の姿に戻って行くのだ。そう、その姿はまさしく混沌そのものであった。アメーバのように不定形で、一瞬として形が同じになることはない。
そんな奴が、光矢に射たれて小さくなっていく。浄化されつつあるのだ。
やがてその姿は消滅した。
男が、完全にぼくらの前から消え去るのに、おそらく十秒とかかってはいまい。
ぼくは、彼の美貌にうっすらと汗が浮いているのを見て、戦いの苦しさを悟った。
「き、傷は、大丈夫かい?」
「ああ。傷口は塞がったからね」
若者は平然として言った。だから、
「あ、そ、そう」
ぼくは、どう反応して良いのかわからなかった。こんな短時間で、あの傷がどうして塞がるんだ。そう思う反面、何故か、本当に治っているのではないかと思う自分もいた。
「――山本さん」
呼びかけられて、ぼくは何故かドキッとした。
その美貌の所為か、それともあの笑みの所為か、ぼくにはわからなかった。
「〝夜〟が差し向けてきた尖兵がやられたので、〝夜〟がこの街から退却を始めたよ」
「この…さっきから感じている微妙な振動はそれかい?」
彼が頷く。
これは〝夜〟の、声なき声――怨嗟の声だと彼は言う。ぼくはその向こうに、闇に呑まれた人々の悲哀の声を聞いていた。
「じきに、この境界の街と地上との間に張られた闇の結界が消える」
「地上に戻れると?」
「ああ。そこからは、きみの役目だ」
「うん。わかっている。やれるだけやってみるよ。〝夜〟に呑まれた街や、境界になった街の人々のためにもね」
彼は、薄く笑ったようだった。もう、戦いの時にみせた邪悪さは片鱗とて残っていない。
いったい、どちらの彼が本物なのだろうか。
ぼくは、右手を差し出した。
「――また、会えるかな」
彼は答えず、肩をすくめただけだった。
ぼくは、握手してもらえなかった手を、ズボンのポケットに突っ込んだ。
そうだな。もう会えることはなかろう。これで、永遠の別れだ。結局、人と防人とは相容れぬ関係なのだ。
「――なあ、最後に一つ聞いてもいいかな?」
「答えられるものであれば」
「名前さ、君の。まだ聞いてなかったね」
彼は、くすっと笑った。
そして、少し考えてから、
「えっと。――あ、じゃあ、
あ、じゃあって。
明らかに今思いついた名前だよな、それ。
思わず、半眼で彼を見てしまう。
ぼくの視線に気づいたのか、彼が眼をそらす。
口笛まで吹いてるし。
まぁいい、さ。
でも、妖か。なるほど、彼にぴったりの名だ。
妖は折れた長剣を捨て、未だ暗黒が空を支配する彼方へ、ゆっくりと歩き始めた。
ぼくは、佇んで、彼の背中が夜闇にまぎれて見えなくなるまで、凝っと見つめていた。
孤独な、戦士の背中だった。
そのときぼくは、この静寂と夜が支配する街で、初めて現実味のある音を聞いた。
列車の音だ!
ぼくは、その聞き覚えのある音を背中に聞いて、背後を振り返った。
「あ――」
光――列車のライトが、すぐ眼の前にまで迫ってきていた。ぼくは絶叫していた。
その声が光と音に呑まれ――一瞬後、ぼくは光の中にいた。
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