15.5
そこは、やはりどこともしれぬ廃ビルの一室だった。
人々の営みの音は全く聞こえず、季節故に虫の鳴き声さえしない。トゥリエスが静かになってしまったのは、ここ最近の事件の数々のせいであろうが、それにしてもこのビル周辺には何の音もしていなかった。もしかしたら、ここは完全に人の出入りを失っている西区画のどこかなのかもしれない。
この部屋の主のように物一つなく無表情な空間に居るのは、当然その主ただひとり。ウェーブのかかった長い黒髪を揺らし、この夜闇に包まれた中でも爛々と光る黄金の瞳を持つ、女だ。
部下であろう幹部をその手で殺し、そしてその後、シノノメとギディオンが討ち取られたことは聞き及んでいる。それでも、彼女の表情に何かが浮かぶことはなかった。焦りも、怒りも、恐れも、悲しみも。
ただ、「そうか」と呟き、次の瞬間には彼らのことを忘れていたのだから。
彼女の思考を決める行動原理はただひとつ。その為だけに生き、その為だけに自らの下に集ってきた
雑な結論をつけ、女はすぐに思考を切り替える。為すべき事は、あと一つ。
「『刻印』は――あと、ひとつだけ」
呟いた言葉は夜闇に消える。受け取る者は誰も居ない。しかして、それはこの街にとって異様なほど恐ろしい響きを漂わせていた。
言葉にし、実感する。本当にあと少しなのだ。
「あぁ――」
美しい女の顔に、季節外れの大輪の花が咲き誇る。吐息と共に吐き出された言葉は、それまでの面貌からは想像もつかないほど熱がこもっており、まるで、恋する乙女のため息だった。
否、まるで、ではない。まさにその通りだった。女は、恋していた。長い長い、八百年の恋心。それがもう少しで叶うというのだから、その胸を焦がす期待の炎はいかなるものか。
白哲の頬を赤く上気させ、右手で玩んでいた羅針盤を両手で包み込み、己の豊かな胸に押し付ける。形を柔らかく変えるそれはあらゆる男を魅了するのであろうが、女はそれを晒す相手は一人だけと決めていた。
「ああっ、ああっ――我は、ヴラディミーラはお迎えに参ります。もうすぐです、もうすぐ、会える……」
灼熱の温度と共に吐き出される愛の言葉。
「――クヴェトスラフ様」
熱と共に放たれたその名は、恋する乙女にとっては己の声であっても甘美な響きを有していたのであろうが。
しかし、聞く者が聞けば、それは根源的恐怖を呼び起こすほどの不穏な空気を感じさせるような、そんな響きだった。
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