14

 時は少し遡り、エドワードらが合流して再びメレディスの居所を探し始めた頃。


 <アンプル通り>を、悠然と歩く二人組がいた。

 一方は長い黒髪を一括りにした長身痩躯の奇妙な装束を羽織る男。もう一方は、この寒い時期に半裸で堂々と闊歩する野蛮人だ。

 シノノメとギディオンが、再びこのトゥリエスに姿を現していた。

 このようなよくわからない二人組が居ようと、トゥリエス最大の人通りである<アンプル通り>の人々はほんの少しの懐疑的な視線をくれるだけで、それ以上気にもとめない。刃物を抜いていない限り、明らかな害意を感じられない限り、誰も彼らがこの街を恐怖に陥れている存在であると気付くことはないだろう。

 そんな、言うなれば呑気な通りの様子を眺めながら、シノノメは口元に笑みを忍ばせてギディオンに話しかける。

「いやはや、なかなかに良き街よ。人々がこうも平穏に過ごしておる。某の故郷では誰もが懐に刃を忍ばせて道の端を歩いておったものだが」

「てめえの故郷が物騒なだけだろうが。だいたい、こんだけオレらが騒がしてるってのにこいつらの『私は巻き込まれません』って面ァ、気に入らねえな。平穏なんかじゃねえ、ただの平和ボケってんだよ」

 シノノメの感嘆すら帯びた呟きに対し、ギディオンは真逆の感情を抱いた言葉を吐き捨てる。相棒同士であれ、その感性は真逆らしい。このまま小一時間は歩き続けそうなシノノメとは対照的に、野蛮人は退屈と鬱屈を総身に溜め込んで今にも爆発しそうだった。

 舌打ちを零す相棒に対し、東方の剣士は苦笑を口元に湛えながら「まあ待て」と制止を呼び掛ける。

「長きに亘り戦いに身を投じてきた我らだが、たまにはこうした生ぬるい湯に浸かるのも一興であろう? かの『先生』の悲願が為された後、このような時間と空間に身を置く暇はない――いや、それどころか、これが最後となるはずだ。そう思えば、今この瞬間が愛おしく思えんか?」

「いとおしい、ねぇ……」

「ああ、そうだとも」

 はらはらと降る雪に手をかざし、滔々とシノノメはギディオンに語る。一考の余地ありと見たか、目を細めて周囲の人間まぬけを眺めはじめる野蛮人に、剣士は同じく鷹のように鋭い目をさらに細くして、告げる。

「考えてもみろ。この有様、まるで――部屋の外で死んだ・・・親に気付かない、幼子のようではないか」

 隈の濃い凶相に、亀裂が入ったかのように酷薄な笑みが口元で咲いた。

 結局のところ、その感性は風流を愛する武人ではなく、殺人鬼の異常なソレ。大事なものを、守ってくれる存在を、当の昔に失っているのに気づかない人々を愛でる心は、矯正不可能の歪み切った刃そのものであったのだ。切りつけた傷口をむやみに引き裂き拡げる形状は、シノノメの在り方そのものだろう。

 「なんだ、そういうことかよ」と同じように口元を凶悪な笑みに変える隣の野蛮人もまた、相棒足るに相応しい犯罪者はたんしゃである。同意を示し、喉の奥でくつくつと嗤って目の前の安穏たる通りの様子を侮蔑の視点で眺めはじめた瞳は、最初から最後まで濁り切っていた。

 そんな、どうしようもない異常者二人が、無意味な散歩をしているはずがなく。

 遥か遠く、北にトゥリエス警察署を見据えながら、悠然と肩を並べて歩いていた二人は通りの真ん中で足を止める。そこは偶然か否か、トゥリエスの中心。地理的な意味での心臓部だった。

 そうして立ち止まったシノノメの背中に、歩いていた不注意な若者がぶつかりたたらを踏む。突然立ち止まった目の前の男へ、若者は己の不注意を棚に上げて怒気を孕んだ舌打ちした。

「おい、いきなり立ち止まんなよ」

「さて、ここらでよかろうな。いくら手足となることを承諾したとはいえ、こうもこき使われると少々疲れる。手早く済ませよう」

「あ? なにを――」

 背後の若者を無視してぶつぶつと呟く風変わりな装束の男に苛立ちを覚えたのか、彼はシノノメのむき出しの肩を掴む。無理やり振り向かせようと力を込めた、その瞬間だった。

 刹那、若者の腕が、血の軌跡を描いて宙を舞う。くうに赤い弧を描いた腕は無造作にコンクリートに叩きつけられ、赤い色を灰色の地面に広げた。

 気づけば、刀を薙ぎ払った姿勢のシノノメが目の前にいる。そして、握りなおした刀を、振り上げていた。

 なにが起きたか理解できぬままに、その男性の首は腕と同じ運命を辿っていた。

 目の前で倒れ伏す首なし胴体を眺めながら、シノノメはため息と共に呟く。

「故に致し方なし、手早く百人斬り達成でも目指すとするか」

「おっ? ならオレは百五十人殺すぜ」

「ほう、某と競うと? 無謀は止すのだな、ギディオン」

 そんな、ゲームでもするかのような軽い会話の間にも、事態を理解し始めた周囲がにわかに騒ぎ始める。しかし、それすら二人にはあまりにも遅く思えた。

 明確な危機を感じ取る能力が低い、逃げ出す判断力が低い、通報するなら刃の圏内から逃げてからにしろ。

 全てがこの街に訪れている脅威を明確に理解していなかった怠惰の代償であり、それを理解させきれなかった警察と特殊部隊の落ち度の結果でもあるのだ。

 逃げることも覚束ない手近な女性の首を刎ねながら、シノノメは大仰な動作で肩を竦め、呟く。

「まったく、一日に二度も刻印作業をせねばならんとはな。しかも三百人分の魂とは」

 物憂げにそう言うと、再び逃げる背中に刃を振り下ろした。









 イレインに国立病院の治癒魔術が発揮されたのと、悲鳴のような通報が届くのはほとんど同時だっただろう。

 包帯の下の傷が薄皮を張って治っていく中、ハーヴィーとイレインが通信魔具越しに聞いたのは、折り重なる死体の下で息を潜めて通報をかけた男性の悲痛な声だった。

『な、長い刀を持ってる男と、半裸の、金髪の男が、あ、アンプル通りで暴れてます……! も、もう何人も殺されてる、誰も逃がす気はないって、言ってて、お、お願いします、助けて……!』

 悲鳴交じりの心からの訴えは、しかし直後に途絶える。それが男性が近づく気配に慌てて切ったのか、それとも殺人鬼たちに居所がばれた末の悲劇のせいであるのかはわからない。とにかく、二人が傍らの武器を手に取って立ち上がるのは当然のことで、必死に制止する医者を振り切って二人は窓から身を投げ出していた。

 高さは二階、受け身を取って無傷で着地し、ハーヴィーとイレインは<アンプル通り>へ向けて全力で駆け馳せる。

 傷はまだ痛む、血は足りなくてフラフラする。だが、それがなんだという。自分たちが力及ばず敗北した犯罪者が、その為に今こうしてのさばっている現状に、大人しく病室で待機していられるはずがない。

 通りを駆け、路地裏を抜け、<アンプル通り>から逃げてくる人々をかき分けて先を急ぐ。懐の通信魔具から制止する声が聞こえた気もするが、聞き分けるつもりは毛頭ない。

 痛む体を押して進んだ先、ついに到着した中央通りたる<アンプル通り>の様相は、平時のソレとあまりにもかけ離れていた。

 灰色の地面を隙間なく埋める血の海と、その上に折り重なるかつてヒトだった物の群れ。ぶちまけられた臓物は無造作に踏みにじられ、転がる頭部はどれも恐怖の色を湛えたまま虚空を睨んで二度と動くことはない。

 一体何人が死んだのか。どういう精神を持っていればこのような狂った所業が行えるのか。

 絶句しながら二人はそれでも通りを見渡せば、五体満足に存在する生物を見つけることはあまりにも容易かった。

 折り重なる死体の上に尻を載せて座り込み、己の得物、長刀から血を丁寧に拭う長身痩躯の東洋人。そして、その隣で肩を大きく回し、ウォーミングアップでも済ませたかのように体を動かす半裸の男。

 動く人影はその二つだけ。あとは全てが死に絶え、命の気配は全く感じられない。それだけのことを為した二人ばけものたちはあまりにも気楽な空気でそこに存在していた。

 腹の底から憤怒が沸き上がる。

 ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるな! 一体何の為に、どういうつもりで、どうして――!

 言葉にならない怒りが腹の中で煮え滾る。いますぐ連中をぶちのめし、ここで死んだ人々以上の無惨な死にざまを与えてやらねば気が済まない。

 二人の思いは声を合わさずともまったくの同一と化し、目を合わさずとも駆けだすのは同時だった。

 そして、その憤怒を抱えていたのは、全く別の方角から姿を現した巨躯も同じだったのである。

 若き警官二人が大地を蹴るのと同時、崩壊の羅針盤コラプスゲート幹部二名の傍にある建物の屋上から、巨躯が彼らに向けて跳んでいた。

 シノノメとギディオンが顔を跳ね上げ、回避行動をとるのと同時、全体重を乗せた斧槍ハルバードの一撃が二人の居た大地を砕き割る。破片が舞い、粉塵が散る中を斧槍を振り回してかき分けた巨躯――フェリックスは怒りのままに咆哮した。

「貴ッッッ様らァァァーッ!」

 猛獣の如き猛りに対し、相対する幹部二名の口元には残虐な笑み。待っていたぞと言わんばかりに構える。

 しかし、単独で突撃するほどフェリックスは短慮ではない。

 ギディオンの回避した先、その脇にある路地裏から、弾丸の如き勢いでもう一人の巨躯が戦槌ウォーハンマーを振り上げて姿を現す。虚を突かれたギディオンの胸板へ、強化魔術が施されたマシューによるフルスイングの一撃。肉を轢き潰す鈍い音と共に、野蛮人の身体は薙ぎ払った方向へ殴り飛ばされた。

 その隣で、相方が豪快に吹き飛んだのを気にも留めず、シノノメは冷静に挟撃されない間合いを取る。急速に動いていた戦場が一旦停止し、睨み合う静寂の時間に切り替わる。そこへ、怒りと驚きを同時に腹に抱えたハーヴィーとイレインが到着した。

「オヤっさん!」

「ハーヴィーか。まったく、帰れという指示は……聞こえていなかったようだな」

「こんなの見て、今更帰れるわけないじゃない。こいつらは、ここで仕留めなくちゃいけないわ。足は引っ張らないから、らせて」

 呆れ交じりのフェリックスの言葉に、イレインは確固たる意志を空色の瞳に宿しながら参戦を訴える。横のハーヴィーも赤銅の髪を揺らして同意を示し、それを横目で確認したフェリックスは重いため息と共に頷きを返した。これ以上帰れと言葉を重ねても無意味なのは、経験がはっきりと伝えてきているからだ。

 それならば、と部下の覚悟を信じ、短く指示を与える。

「あと五分強で警官と特殊部隊の混合部隊が到着する。あの刀使いは任せるから、それまで逃がさないようにもたせろ。無茶はするなよ」

「任せてくれッ!」

 『帯電刃チャージブレード』を展開しながら、フェリックスの指示にハーヴィーは力強く応えつつ大地を蹴って吶喊。その横を、それ以上の速度でイレインが駆け抜ける。

 姿勢を低くし、魔術式を展開しながら疾走。発動した魔術、『追風ブーストウィンド』の竜巻のような風がイレインの背中を力強く押し、同時に前面に展開された風の結界が空気抵抗をゼロとして彼女の加速を手助けする。

 より早く、より速く、より迅く!

 予想外の加速を前に僅かに目を見開くシノノメに対し、一瞬にして肉薄。コンクリートに罅を刻むほどの力強い踏み込みから、これまでの加速全てを乗せた雷速の刺突が放たれる。

 しかし、対する相手は無双の武人。正眼に構えられた長刀の切っ先が、迫る穂先に触れた瞬間、手繰られた長刀が絡まり、軌道の逸れた短槍がシノノメの僅か数ミリ横を貫いていった。その下をひとりでに動くかのような挙動で長刀が突き上げる刺突を放つ。

 顎下を貫く軌道の刃を、イレインが踏み込みの足でさらに大地を蹴り、自身の身体を加速させることで回避。耳朶を切り裂かれながらもシノノメの真横を通り過ぎ、遮二無二に加速した影響で体勢を崩して地面を転がっていく。

 それに追撃を仕掛けんとしたシノノメだが、一拍遅れて接敵するハーヴィーを無視できない。二対一という不利な状況下で、それでも戦を嗜む東方の剣士は凄絶な笑みを浮かべる。

 対する決死の表情のハーヴィーは右の剣を鋭く薙ぎ払った。その刃を長刀で受けたシノノメに、『帯電刃チャージブレード』の高圧電流が流れ込み、電熱がその痩躯を焼か――ない。

 確かに魔術は発動したまま、電撃が刃に流れたはず。しかし、驚愕するハーヴィーに対して小細工一つしていないシノノメは涼しい顔で剣を弾く。次いで、連撃の薙ぎ払いを左の剣でどうにか受け止める。

 二度の接触、しかし、それでも電撃を受けた様子は微塵もない。何らかの対策をされていると見るべきか、と即座に長刀を弾き返し、ハーヴィーは腹部を切り裂かんと旋回した刃をバックステップで回避した。

 そこでシノノメは一歩真横へステップしながら反転。魔術式を展開して迫るイレインの半月を描く振り上げを、生物めいた動きで長刀が受ける。直後、式が発光。魔術が発動され、刃と噛み合う穂先から『風砲ウィンドシェル』がゼロ距離で放たれる。

 ギリギリの瞬間で顔色を変えたシノノメが片膝をつくように身体を急速落下させたことで、斜めに構えられた長刀の鎬を削るように風の砲弾が受け流される。そのまま腰を捻りながら放たれる薙ぎ払いをイレインが大きく跳び退って回避するも、切っ先が腹部の衣服をわずかに切り裂いた。

 その成果を確認する暇もなく、シノノメは再度反転。今度は中距離から、ハーヴィーによる上位魔術『天雷槍ライトニングジャベリン・マキシマム』の二槍が放たれていた。刀に通電を遮断する機能を有していようと、大規模な雷撃の槍を防ぐには面積は足りず、回避には既に遅い。

 直撃を確信したハーヴィーはしかし、次の瞬間には驚愕に目を見開くことになる。

 確かに直撃はした。シノノメが足掻きのように突き出した長刀に吸い込まれるようにして二槍は直撃し、そして――そのまま本当に吸い込まれた・・・・・・

 ギョッとするハーヴィーの目の前で、眩い閃光全てを喰らいつくした長刀は青白い電撃を纏って炸裂音を鳴り響かせる。その刀身は淡く光り、まるで息を吹き返したようにハーヴィーに存在感を叩きつけていた。

 思わず挙動を停止させた彼の前で、ニヤリと笑みを浮かべた剣士はまたも体を反転させる。異常現象にも気圧されずに果敢に攻めんとしていたイレインの方向、その虚空へ斬撃を放った。

 刹那、長刀に帯電する電気が爆発するように発光。同時、斬撃に合わせて刀身から波涛のような青白い光が放たれ、その全てがイレインに殺到した。

 光速一歩手前のそれに、為す術もなくイレインが飲み込まれる。そして、刹那の判断力で後退しようとした体が、中途半端に後方へ流れ、そのまま力なく倒れこんだ。大地に横たわり、天を仰ぐイレインの身体は所々が焦げ付き、痙攣を起こしている。明らかに電撃の直撃を受けた痕跡があった。

 どういうことだ、と魔術式の発露を確認できなかったことに混乱するハーヴィーだが、対するシノノメは悠然と彼に振り返り、血糊を払うように刀を一閃する。その軌跡に合わせて、僅かに青白い電光が迸った。

「ふむ、今日こんにちの『雷切らいきり』も調子がいいと見える」

 ひとりごちる剣士に、ハーヴィーはわざわざ問う愚行はできない。今も、隙さえあれば踏み込む気配を見せているからだ。

 しかし、言動から察するに、あの一撃は『雷切』という銘の刀による特殊能力ということだろう。これまで利用してこなかったこと、電撃が通じず、雷撃の槍が吸い込まれたことなど、これらを考えれば、吸収した電気を放出する力があると考えるべきだ。

 非常に希少だが、確かにこの世にはそういう魔術式に拠らない魔剣の類があるのを知っている。それを、よりにもよってこんな犯罪者が握っているとは、最悪にもほどがあるが。

 シノノメの後方で倒れ伏すイレインに、復帰の様子は見られない。当然だ、上位魔術二発級の雷撃を一身に受けたのだから、死んでいてもおかしくない。

 非常に心配だが、助け起こす余裕はなし。むしろハーヴィーはどうにか起きて助勢してほしいくらいだった。なにせ、相手は己の得意魔術である雷撃が通じない上に、圧倒的な技量を持つ剣士なのだから。

 その焦燥を見抜いたか否か、シノノメは悠然と構えながら言葉を続ける。

「ふむ、汝もひとかどの武士もののふであるようだが、些か某と相性が悪いと言わざるを得んな。どれ、向こうのどちらかで交代してきても構わんが?」

 笑みを浮かべて言い放つその言葉に、様子見と称して臆していたハーヴィーの心胆が激震に揺れる。具体的に言えば、こめかみの血管がブチ切れる勢いで激怒した。

「ッの――! ざっけんじゃ、ねェッ!」

 わかりやすい挑発とわかりながら、ハーヴィーは雷速の如き勢いでシノノメに双刃を突き放った。


 若き警官二人と東方の剣士が鎬を削っていた間、対する野蛮人と熟練の警官二人の戦いも熾烈を極めていた。

 曰く、泥沼の殴打の応酬である。

 マシューの戦槌がギディオンを打ち据え、フェリックスの斧槍がギディオンを切り裂く。致命的な一撃以外を全て受けるギディオンは、僅か数秒で血塗れになりながらも壮絶な笑みを顔面に浮かべて拳を薙ぎ払っていた。

 それは一撃ごとに重くなり、避けきれずに一度胸板に受けたフェリックスは、肋骨の一本を折られたことを確信し、どういう身体をしているのだ、と疑念と脅威を強く抱く。

 首筋、心臓、頭部を狙う一撃だけは庇ったり身体をそらすことで回避している様子から、そこをやられれば流石に死ぬらしいのはわかっている。らしい、と微妙に確信できないでいるのは、それ以外への攻撃なら全く避ける様子もなく甘んじて受け止め、そしてその怪我を全く意に介さないように殴り返してくるからだ。

 肩口に裂傷を刻まれ、胸板がへこみ、わき腹に穴を開け、右上腕を深く切り裂かれて尚、全く鈍らない動きで応戦してくる。流す血の量は、元々赤かった地面を更に血の海に沈めるほどで、明らかに致死量であるはずなのに微塵も倒れる様子がないのだ。

 今も、太ももを狙った斧槍の振り下ろしを避けず、反対側からのマシューの頭部へ向けた全力の槌を右腕を掲げることで受け止めている。肉に突き立つ感触と共に、槌の鈍い音が響く。

 反撃に放たれたギディオンの拳を、マシューは後退しながら回避。その隙に、己の肩口に魔術式を形成したフェリックスは、『炎砲フレイムシェル』を隙だらけのギディオンに撃ち放った。

 至近距離で一抱えもある炎の砲弾の直撃を喰らい、ギディオンは勢いよく吹き飛ぶ――かと思いきや、僅かにたたらを踏むのみ。慌ててフェリックスが斧槍を太ももから抜き、構えた瞬間、体勢を立て直したギディオンの拳が長柄に直撃する。

 己の技量で一撃を受け流すフェリックスだが、伝わってきた衝撃が明らかに先ほどより重くなっている事実に眉を顰めた。その上、フェリックスですら直撃をもらえば吹き飛ぶ魔術を喰らって、大した被害を受けないというのもおかしい。最初はマシューの一撃で勢いよく殴り飛ばされていたというのに。

 続けて放たれる左の拳を、右足を大きく引くことで身体をずらして掠めるように回避。がら空きになった脇へ斧槍を叩きこめば、得物を握る手に伝わる手応えが、さっきと明らかに違うことに驚愕する。

 硬い。肉に突き立つ感触が明らかに硬く、浅いのだ。いくらなんでも人体のソレにしては固すぎる。何らかの強化魔術が働いているのは明らかで、その魔術式は胸と背中に刻まれているモノだった。

 考察を止めないながら素早く刃を抜き、長柄を構えてギディオンが放つ前蹴りを受け止めんとする、が。蹴りを受け止めた長柄に罅が入り、踏ん張った足腰が衝撃に耐えきれずにフェリックスの身体が宙に浮く。斧槍をへし折られる前にどうにか得物を手繰って衝撃を受け流し、そのままフェリックスは蹴り飛ばされた。

 彼がギディオンから離されるのと同時、マシューが再び『剛力腕ストレングスアーム』を展開して、背中を向けるギディオンに突撃。

 今度こそこれで仕留める、という気迫と共に放たれた振り下ろしは、やはり避ける様子のない男の後頭部に直撃。並の人間ならそれだけで頭蓋の半分に埋まるであろう戦槌は、しかしギディオンという男には半分以下の威力しか発揮せしめられなかった。わずかに皮膚が張り裂け、また新しく鮮血が流れ出ただけなのである。

 マシューが驚愕と気味悪さを抱きながら一歩後退するのと同時、振り返ったギディオンが彼に向けて一歩踏み込む。震脚が大地を蜘蛛の巣状に割り砕き、颶風を纏った拳の一撃が先ほど以上の鋭さと速度でマシューに迫る。

 想定外の速度に反応しきれなかったマシューの肩口へ殴打が命中。肉を潰し、骨を折り砕く鈍い音を響かせて、たった一撃が頑丈なマシューをトラックではねたかのように吹き飛ばした。

 ここに来て更に威力が上がった一撃に、体勢を立て直したフェリックスは攻めるべきかを逡巡してしまう。

 いくら攻撃を仕掛けても、どれだけ命中させても、まったく弱る気配はなし。それどころかどんどん拳の威力は倍増し、攻めているこちら側がなぜか不利になっていく現状がある。

 あまりの気味の悪さに距離を開けたままのフェリックスに、ギディオンは油断なく構えながら獰猛な笑みを浮かべる。

「どうしたどうしたァ! 俺はまだまだいけるぜ、手ェ止めてる暇あんのかぁ!?」

「……どうなっているのだ、こいつは」

 威勢よく吼える野蛮人に、フェリックスは戦慄したように呟く。まったく生気の衰える様子がない。もはや血が流れていない場所を探す方が難しそうなのに、血みどろの男はピンピンして立っていた。

 どうしようもなく警戒させるその様子を見て迷うフェリックスに、ギディオンは仕掛けてこないことを悟ったのか、小さく舌打ちする。

「チッ、もう終わりかよ、つまらねえな……仕方ねえ、大サービスをくれてやるよ」

 全身から流れる血液をものともせず、大きくため息を零したギディオンは胸の前で両手の拳を突き合わせた。何かする、とフェリックスは理解するも、仕掛けるにはあまりにも不確定要素が多すぎる。結果として見逃すこととなる。

 そして油断なく構えるフェリックスの前で、拳を突き合わせたギディオンの胸に刻まれた魔術式が発光。淡い緑青色の光が漏れだし、それは背中からも顕れる。光はあっという間に男の全身を包み、その意味を魔術斧槍士たるフェリックスは即座に理解した。

 あの光は魔力だ。そして全身を包むのは、強化魔術における魔力の特徴である。やはり強化魔術が使われていたが、それ以上にフェリックスは異様な魔力の動きが見えていることのほうが気になっていた。

 ギディオンが負う全身の傷口、そこから緑青色の魔力がじわじわと漏れ出しているのである。よくよく見れば、漏れ出すのに合わせて傷は遅々としてだが、薄皮を張り始めている。

「回復作用……? いや、違う、これは……!」

「わかったか? なら、続きをやろうぜェ!」

 フェリックスがギディオンに刻まれた魔術式の意味を断片的に理解した瞬間、獰猛な笑みを深くした野蛮人が大地を踏み砕いてフェリックスに肉薄する。

 一瞬にして接近されても慌てることなく、フェリックスは大振りの拳を回避。隙だらけの身体へ一撃を叩きこもうとして、しかし斧槍を握りなおして中止。大きく後方へ跳び退る巨躯を追いかけて、緑青色の魔力を帯びた拳が空を切る。

 攻撃できるのにしない、否、攻撃することで己が不利になるカラクリを見抜いてしまったが為に、フェリックスは迂闊に手を出せなくなっていた。

 熟練の戦士が察するに、あの胸に刻まれた魔術式は、確かに強化魔術だ。しかし、それはただの現代魔術ではなく、古代魔術。

 その発動条件は、驚くべきことに、恐らく『傷』だろう。傷口から漏れ出す魔力をよく見れば、その傷が細かな粒子と化しているのが見てとれたからだ。そして、その傷を条件として発生させる事象は、『魔力の生成』。そうして生成された魔力を強化に用いるという、実に恐ろしい機構を発生させているのだ。

 簡単に言えば、怪我すればするほど強くなるのである。大怪我をすればその分身体が強化され、より強靭に、より頑丈になる。あの異様な死ににくさはこの魔術によって成り立っているのだろう。

 ギディオン自身のヒントによってようやく、その力を推測できるようになったわけだが、遅きに失した感じは否めない。もはや奴は致命傷クラスの攻撃を喰らっても平気なほど強化されており、それはマシューの一撃を頭部で耐えられるようになっている時点で明らかだ。

 やられた、と歯噛みする。もはや生半可な攻撃は相手の理となるだけ。どうにかして、頑丈になったあの身体を即死させるだけの一撃を叩きこまねば勝機はない。それはつまり、数を揃えて囲んでも無意味だということだ。

 あと数分で到着する増援の中に、それだけの攻撃力を備えた人物は果たしていただろうか。

 どうにかしなければならないが、どうにかする手段が取れない。

 詰みに近い状況で、しかし正義の執行者は、その瞳から戦意を失わないでいた。

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