09

 エドワードら三人が<ユグリー通り>に急行したその直後。

 警察本部には、それとは別の通報が入り、その重大性と崩壊の羅針盤コラプスゲートとの関連性の高さから対策本部による対応が決定されていた。

 通報の内容は、『<ブリンク通り>で長刀を持った男と半裸の男が辻斬りを行っている』というもの。さらなる通報で内容が充実すると、その辻斬り犯の見た目が、名前などの詳細が判明している『シノノメ』と『ギディオン』であることが確定された。

 被害者はまだ数名。相手も動き始めたばかりであることから、こちらも初動の素早さを優先し、付近をちょうど巡回していた二人組の警官たちへと即座に連絡、彼らが急行することになる。

 その警官たちとは、赤銅色の髪を持つ双剣を携えた若き男性警官と茶髪をたなびかせて短槍を構える女性警官の二人組。

 ハーヴィーとイレインだった。









 狭く暗い路地裏、赤銅と茶色の髪が宙を踊り、駆け馳せる。抜き払われた双剣に一瞬日の光が差し込んで煌いて、即座に陰に入って色を失った。

 それを視界の端に捉えながら、イレインが呟く。

「辻斬り、ねぇ。崩壊の羅針盤コラプスゲートって連中の仕業なんでしょ? なんでそんなまわりくどい真似するのかしらねぇ?」

「知らねーよ! 話聞く限りじゃ、ただのイカレ頭の集団なんだろ? 計画性もクソもねえんだろうさ!」

 イレインの疑問に、ハーヴィーは吐き捨てるように言葉を返した。

 彼の鳶色の瞳には怒りが湛えられており、連中の所業に相当腹に据えかねているようだった。何の罪もない人々を突発的に襲うなど、彼にとってクズ以下の所業でしかない。

 そんな彼に対し、イレインは冷静そのもの。表情はいつも通り変化せず、自らの内にある疑問の為に眉間に渓谷を生んでいる。

「そうかもしれないけど、何か意味深なこと宣告したんでしょ? ついこの間もフェリックスおじさんが『重々気を付けろ、思考することを怠るなよ』って言ってたじゃないの」

「そっ……れはそうだが!」

 つい先日言われたばかりのことを思い出して、ハーヴィーはしまったとばかりに表情を歪める。尊敬する男の言葉を蔑ろにできるほど馬鹿ではないのだ。

 二人が今回の件に関わることになったのは、エドワードが最初に狂人に襲われた翌日のことだ。飲み会で潰れていた為に即日からこの件に対応することができず、ハーヴィーが「俺も一緒に抜け出させてくれればよかったのに」と子供のように口を尖らせてぼやいていたのをイレインは未だに覚えている。

 そこでマイルズからの説明を受け、今までトゥリエスの街の巡回という形で対策に貢献していた。

 これまで三日間、一度も崩壊の羅針盤コラプスゲートの人間と遭遇することはなかったが、ついに先刻、近辺での事件通報を受け、こうして急行している状況に至る。

 折悪く、現場の近くにいたのは二人だけ。増援を求めるには犯人との距離が近すぎて、さっさと向かって二人で抑えた方がいいと判断した。


 そうした二人への信頼を形にしたフェリックスの指示を受け、路地裏を走り、角を曲がった二人はついに<ブリンク通り>を前にする。

 そして同時に、狭い視界の先に長身瘦躯の男の姿が現れていた。長刀を構え、キモノを纏った姿は通報通り――つまり、犯人だ。

 それを認識するのと同時に、ハーヴィーと並走していたイレインは急加速。一息吸うのと同時に力強く大地を蹴り、跳躍する。

 斜め前方へ跳躍したイレインは、続けてすぐ真横に迫った壁面を蹴飛ばして空中機動へ。反対側の壁に到達するのと同じように壁面を蹴り、それを繰り返して前方へ加速しながら高度を徐々に高くする。

 そしてついに左右の壁が消え、通りの上空にイレインの身体が飛び出た。十分に加速した身体は勢いよく通りを横切り、道の中央に陣取るシノノメに向けて弾丸の如く迫る。

 当然、その段になればシノノメも気づき、面食らった表情しながら長刀を防御に構えるのと、イレインの短槍がすくい上げるように円弧を描いて斬撃を放つのは同時だった。

 刃と刃が激突し、火花を散らす。

 男の痩躯から筋力はないように思えたが、その実、細い体は引き締まり捩じりあげられた針金の如き筋肉で覆われている。故に、イレインの加速した一撃をシノノメは両の足で踏ん張って確固と受け止め、むしろ攻めた側のイレインの身体が空中で静止した。

 そのまま慣性に従って前方に傾く身体を利用し、イレインは一回転しながらイレインはコンパクトに畳んでいた右脚を満月を描く軌道でシノノメの頭に向けて一閃。

 何らかの行動を起こそうとしていたシノノメはそれを中断し、頭をひねって無理やり蹴りを回避する。その隙にシノノメの背後に降り立ったイレインは、振り返り様の一撃を加えんと短槍を振り上げた。

 が、ガクンと腕が停止。何か突き刺さった感触を覚え、慌てて穂先に視線を向ければ、分厚く大きな手のひらに穂先を握りしめられていた。

 その腕をたどれば、半裸で真鍮色の髪をぼさぼさにした、いかにも野蛮人といった風体の男がニヤリと笑みを浮かべている。穂先の刃を握る手からボタボタと血が流れ落ちているというのに、まったく気にした様子もなく、それどころか反対側の拳を握りしめた。

 イレインが短槍を手放して離脱しようとした瞬間、シノノメの脇をすり抜け、飛来する青白い閃光。

 それは一直線に半裸の男――ギディオンの脇腹に激突した。瞬間、背筋を弓なりに反らしあげて硬直する男。電撃がギディオンの全身を駆け回り、短槍が手放される。

 その瞬間に大きく跳躍して後退したイレインの流れる前髪を、横合いから振り下ろされた長刀が僅かにさらっていった。

 さらにステップして後退するイレインは声を張り上げて窮地を救った相棒に言葉を投げる。

「助かったわ!」

「いい加減お前も猪はやめろってんだよ、馬鹿女」

 イレインに遅れて路地裏から出てきたハーヴィーは、魔術式を両手の剣の切っ先に浮かべながら悪態を吐く。

 彼の絶妙な支援がなければ一撃を受けていたであろうに、イレインはそんな忠告などどこ吹く風で笑みを浮かべていた。元より相棒の支援を期待していたのであろうが、そんな信頼を察せない男は不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 その間に、電撃の麻痺から早くも脱したギディオンは、悠然と立つシノノメの横に並び立つ。首をゴキゴキと鳴らしながら、「あー、あー」と気持ち悪げに声を発した。

「久々にビリビリ来ちまった。あー、内臓が気持ちわりぃな」

「それでも平気なのがうぬであろう。甘んじて受けておくがいい」

「るせえ、俺にも好き嫌いがあんだよ」

 呑気にそんなやりとりを交わす男たちに、イレインはやや不可解そうな表情を浮かべながら、一応とばかりに問う。

「あなたたちには傷害及び殺人の容疑がかかってるわ。投降するならこちらも手荒なまねはしないのだけれど」

「ふむ。汝も、女子おなごの割になかなかの腕前と見る。これは、退屈せずに済みそうだ」

「応じる気はなし、でいいわねぇ」

 イレインの呼びかけに、完全に無視してシノノメは笑みを浮かべて呟く。切れ長で落ち窪んだ瞳と濃い隈の浮かぶ顔に浮かぶ笑みは、薄気味悪いと言って過言ではなく、あまり見受けられない平たい顔も相俟ってイレインは実に嫌そうな顔してため息を吐いた。

 横のギディオンが笑みを浮かべ、シノノメに問いかける。

「なんだぁ、てめえ珍しく女が気に入ったのか? いいぜ、そっちはくれてやるよ。オレはさっきの礼をしなくちゃなんねえからな。男の方を相手してやる」

「かたじけない。久々の女傑を相手にできるとあらば、血がたぎって仕方ないのでな」

 シノノメは静かに頷き、両者は立ち位置をゆっくりと変える。

 ギディオンはハーヴィーの前に立ち、シノノメはイレインの前に進み出た。

「名乗りもなしに果たし合いするのは実に無粋。先日はそれができなかったので非常に無念であった故、汝にはそれがしの名を是非にも胸に刻んでもらいたい」

「先日、っていうと、エドワードさん達が散々にやられたアレかしら。あなたも居たのねぇ」

「左様。ザカライア殿の為とはいえ、奇襲は好きではないのでな。この胸のわだかまり、その槍にて晴らしていただこう。期待をたがえてくれるなよ」

「勝手なひとねぇ。でも、いいわ、本気で相手したげる」

 お互いに笑みを浮かべ、得物を構える。

 そして、シノノメは表情を切り替え、笑みの消えた無の色を湛えて呟いた。

それがしの名は東雲シノノメ清十郎セージューロー。我が幽柳ユウヤナギ一刀流の秘剣、存分に馳走するが良い」

 そう言って構えたその構えは、一言で言って異様だった。

 左手は手のひらの上に長刀を置くかのように鍔の根本を下から支え、右手はまるでつまむように柄を指先で掴んでいる。無論、きちんと握られているわけではないので、切っ先はぷらぷらと左右に揺れていた。

 置く位置は上段だが、あんな構えでまともな斬撃が放てるわけがない。

 イレインが短槍を下段に構えながら訝しむ中、一呼吸の静寂を保った痩躯の男は、動いた。

 即ち、前進であるが――それすら異様。足を前後に動かし、地面の上を滑るように高速でイレインに迫るのだ。

 それを東方では『摺り足』と呼ばれるモノであるが、それを知らぬイレインは思わず虚を突かれて意識に驚愕を生む。

 この一瞬の間にシノノメは長刀の間合いにイレインを収めていた。

 慌てて対応せんとするイレインだが、放たれた袈裟切りに対して血相を変えて後退するしかできなかった。

 続けて放たれる何の変哲もない逆袈裟の斬撃にも、後退しかできない。

 何故かと問われれば、イレインの目には、シノノメの長刀がひとりでに・・・・・切りかかっているように見えたからだ。

 無論、長刀の後ろにはシノノメが居り、その両手は長刀を掴んでいる。しかし、それでも、刀がひとりでに襲いかかってくるようにしか見えない。

 引き戻され、放たれる刺突。それを短槍を立てて受け流すイレインだが、次の瞬間には、短槍を滑りながら長刀がイレインの顔めがけて軌道を変えて迫る。

 首を振って回避するも、首筋を浅く裂いて刃が戻っていった。

 滲む痛みを無視して放った切り上げは、下降した長刀に阻まれ、次の瞬間には短槍に絡みついて手元に切っ先が迫る。

 長刀を握っていては明らかにできない動きに、イレインは動揺しながらも短槍を旋回して振り払う。その勢いすら利用して、長刀はコンパクトに回転、切っ先をイレインの顔面に向け、鋭い突きを放った。

 しゃがみこんでそれを回避し、右足を薙ぎ払って足払いをかけるも、空振り。いつの間にかシノノメの足は間合いの外に出ていた。

 地面に手を突いて後方へ跳び退るイレインの首のあった場所を、即座に長刀が通り過ぎる。

 またも髪の毛が数本持って行かれた事実に血を凍らせながら、体勢を立て直すイレインの前には、笑みを浮かべる東洋人の姿。

 最初と同じような奇妙な構えの長刀は、いまやひとりでに揺らめいているようにすら見えた。実際にはシノノメが操っているのであれど、もはやイレインには長刀が何か特殊な魔術がかかって動く魔剣にしか見えない。

 この異様な剣術だけではない。先ほどの接近の歩法といい、間合いの外し方といい、体術も異様なレベルで完成されている。

 そう、この男は、いずれもイレインを超える戦士であると、認めざるを得ないのだ。

 現状、警察組織において、近接戦に限って言えばイレインは最強の座に君臨している。それほどまでの技量を誇る彼女を以てして、シノノメの剣術、体術は数歩先を行っているだろう。

 冷や汗が額から流れ落ちる。それでも、イレインの戦意は衰えることを知らず、短槍の柄を握る手は最適の力で柔らかく保たれていた。

 不思議と、彼女の頬にも笑みが浮かぶ。僅か一瞬のやりとりで彼我の戦力差を把握したが、それでも死合ころしあうことに否はなかった。

 それを読み取ったのだろう。シノノメの表情に、凶相ともとれる壮絶な笑みが浮かぶ。

 本気で悦びあう二人の再激突は、間もなくだった。



 一方で、ギディオンとハーヴィーの戦いは一言もないまま始まり、一方の優勢で進んでいた。

 凄まじい速度で放たれる二閃。十字を描く斬撃は、防御もままならずに魔術式の刻印された半裸の胸板に×印を刻み込んだ。

 同時、刃から放たれた電流が男の動きを麻痺せしめ、完全に動きの止まった顔面へと翻った刃が突き込まれる。

 それを無理に動かした首でどうにか回避するも、それでも刃はこめかみを深く抉っていった。

 反撃に放たれる拳を、赤銅の髪を踊らせて青年は回避。返す太刀で二条の赤い線が男の右腕に刻まれた。

 またも痺れて動きを止める男の腹に回し蹴りを放ち、強引に後退させる。さらに自身も跳び退って距離をあけ、双剣の切っ先に魔術式を浮かべて即座に撃ち放った。

 二つの雷撃の槍に、半裸の男は両手を交差させて受け止める。激突、電熱が両腕を焼き、迸る電撃が男の内部を蹂躙していった。

 しかし、それでも男は倒れない。全身に裂傷を刻み、火傷を負い、内蔵を電撃に狂わされながらも――倒れない。

 両腕をだらりと垂らし、顔を露わにしたギディオンは、好戦的な笑みを浮かべた。

 対し、ひたすら優勢に事を進めるハーヴィーは、表情を歪めて双剣を構える。

「なんだテメェ、きもっちわりぃな! そんだけ切られて平気って、マゾ野郎か!?」

「だーれがマゾだってんだ、ボケ。オレは誰よりも頑丈にできてんだ。てめえの剣なんざ、猫に引っかかれたようなもんだ」

「んだとォ!?」

 ハーヴィーの悪態に、ギディオンは余裕の笑みで大げさに肩を竦める。そして挑発するように両手を広げて手首を「こいこい」と動かした。

 そんないかにも馬鹿にした動きに、ハーヴィーは容易く激昂する。

 再び『帯電刃チャージブレード』を発動し、双剣を脇に構えて大地を蹴る。一歩で最高速に至ったハーヴィーの体は、両手を広げたままのギディオンに弾丸の如く迫り、一瞬にして懐に入り込んでいた。

 そして、裂帛の踏み込みと共に両手を心臓に向けて突き出す。

 僅かに身をそらすギディオン。しかし、距離が近すぎて回避には至らず。

 結果、魔術式の刻印された胸板の中央、心臓の真横に双刃が突き立ち、同時に流し込まれた電撃にギディオンの体が反らしあがった。

 いくら心臓を外したとはいえ、電撃を流し込まれた上にほとんど急所への一撃だ。人体の構造上、重傷どころか致命傷である。

 ニヤリとほくそ笑むハーヴィー。

 しかし、その頭を、鷲掴む手があった。

 力強くガッチリと固定され、驚きのあまり視線だけ上げたハーヴィーの視界に、口から血をこぼしながらもニヤリと笑うギディオンの顔が映る。

 血反吐を吐きながらも、確固と意識を保つ琥珀色の瞳でハーヴィーを睨みつけ、言い放った。

「そうら、お返しくれてやるよォ!」

 握られた右拳。逃げようとしても逃げられないハーヴィーの顔面に、勢いよく振りかぶられたソレが叩きつけられた。

 瞬間、首がねじ切れるかと思うほどの負荷が首にかかったかと思えば、ハーヴィーの身体は遙か後方に吹き飛ぶ。突き刺さっていた双剣も強引に引き抜かれて両手に握ったまま、ハーヴィーは建物の壁に背中から叩きつけられた。

 口から血反吐と肺の中の空気全てが吐き出される。砕けた奥歯が血反吐に混じってこぼれ落ち、それを感じながら彼の意識は明滅していた。

 なんという膂力か、否、それ以前に頑丈すぎる。ありえない。

 そんな愚にもつかない思考がハーヴィーの頭を回転し、しかしそれでも警官としての矜持が意識を明瞭にしていく。

 こんなところで倒れるわけにはいかぬとばかりに、力の入らない手足に渇を入れ、震えながらも無理矢理立ち上がった。

 殴られた左顔面が晴れ上がり、左の視界が不明瞭だ。それでも、こちらへ悠然と向かってくる半裸男の姿は捉えている。

 式を紡ぐ。それでも男はゆっくりと歩いてくる。

 どこまでバカにしているのか、と怒りを覚えながらも、その時間を活用して二つの魔術を紡ぎ上げた。

 そして、両手の双剣を差し向け、その切っ先の魔術を解放する。

 放たれるは二つの上位魔術。『天雷槍ライトニングジャベリン・マキシマム』の人間一人を丸呑みにできるほどの巨大な雷撃の槍が形成され、雷速でギディオンへと撃ち放たれた。

 それを琥珀色の瞳で確かに捉えながら、ギディオンは笑みを浮かべて両手を広げた。

 その大きな魔術式の刻まれている胸板へ、巨大な雷撃の槍は直進し――激突。

 青白い閃光が背中を突き抜けてあらゆる方向に放電し、『帯電刃チャージブレード』とは比にならない電流、電圧が熱となって男の体内を蹂躙。まき散らされた光の中に、男の姿が消える。

 どれほど頑丈であろうと、電撃に脳をやられてはどうしようもない。

 今度こそ殺した、と確信するハーヴィーに――絶望が舞い降りた。

 消え行く閃光の中に、しっかりと両足でこちらへと歩いてくる男の姿。

 胸を黒こげにしながら、それどころか筋肉を露出させながら、悠然と歩いている。

 その光景に呆然とするハーヴィーに対し、男は笑みを浮かべると、一息に大地を蹴って距離を詰めた。

 あっという間に眼前に至るギディオンに、ハーヴィーは全力で片手の剣を薙ぎ払うも、立てた左腕に裂傷を刻んで停止させられる。

 同時、ギディオンの右拳が唸りを上げてハーヴィーの腹に叩きつけられた。

 瞬間、ハーヴィーの視界が爆発するように火花が散る。先ほど顔面を殴られたときより明らかにパワーアップした膂力に、拳が背中まで突き抜けた錯覚を覚えた。

 実際にその一撃だけで内蔵を破裂させられたハーヴィーの身体は、即座に背中の壁に激突。

 視界が真っ赤になるほどの激痛が脳髄にたたき込まれたかと思えば、その瞬間にハーヴィーは意識の手綱を手放していた。


 それとおよそ同時、シノノメに喰らいつくイレインの槍術も限界が訪れ始めていた。

 跳ね上げ振り下ろし薙ぎ払う。イレインが短槍を巧みに回転させながら連撃を放つ隙間を縫って、無造作に突き込まれ、放たれる長刀の斬撃が彼女の肢体を徐々に傷つけていた。

 涼しい顔で短槍を躱し、長刀で受け流すシノノメとは対照的に、必死の形相で得物を振るうイレインの全身は血に塗れ、零れ落ちる命の液体は地面に海を作り始めている。

 幽玄と宙に漂うようにゆらめいて構えられる長刀。ひとりでに動くかのようにすら思えるほどの技巧を以てして振るわれる刃は、変幻自在の軌道を描いて必ずイレインの柔肌に一筋の赤い線を刻む。

 魔術を使う暇も隙もない。例えあったとして、高速戦闘の最中に式を紡ぐ訓練を怠けてきたイレインでは、ただ敵に隙を与えるだけとなるだろう。戦闘に関して絶対の自信を持っていたことがここで仇となる。

 それでも、とイレインは覚悟を決めて意識を式の構築に傾けた。結果、鈍った穂先の一閃は容易くいなされ、反撃の刃が彼女の胴体を袈裟に切り裂く。

 迸る激痛、式が霧散しそうになるのを必死で押しとどめ、強引に左手から魔術を放った。

 『風衝ウィンドストライク』が真正面からシノノメの胴体を捉えた。苦悶の声を上げてシノノメの身体が後方に吹き飛び、強引に距離を開けたイレインは――その場から一歩も動けずに、膝をついてくずおれた。

 限界が訪れてしまったのだ。短槍を杖代わりにしてどうにか体を支えるも、既に一撃を放つこともできない身体だ。

 対するシノノメは、吹き飛ばされながらも体勢を整え、華麗に着地して改めて長刀を構える。しかし、イレインの現状を見て、ゆっくりと刀を下ろした。

「ふむ、仕舞いか」

「……っ、……っ」

 浅い呼吸を繰り返すイレインに、シノノメの言葉に返答する力はない。魔術式を紡ごうと手のひらに魔力が表出するも、激痛に意識を阻害されて何度も散っていた。

 それを見て、続いてシノノメはこちらにやってくるギディオンの方に視線を向ける。

 彼の右手にはハーヴィーの首根っこが掴まれており、意識のない警官はただ引きずられるのみだった。

 そして、シノノメの隣までやってきたギディオンは無造作に彼をイレインの横にまで放り投げる。数度転がり、イレインの血の海に沈んだハーヴィーを心配げに見やる彼女だが、駆け寄る気力すら失われていた。

「なかなか威力だけは立派だったぜ。ま、俺を殺すにはまだ足りなかったがな」

「相も変わらず野蛮な戦い方よ。治癒するザカライア殿が大変であろうに」

「るせえなぁ。てめえこそ嬲るような真似してんじゃねえか」

「一刻でも長く果し合いを続けたかったまでのこと。某にそのような趣味はない」

 すでに勝者の余裕か、くだらないやり取りを交わす二人を、イレインは強く睨み付ける。そして、なけなしの体力を振り絞り、震える両足を叱咤して立ち上がった。

 それを見て、口をつぐんで面白そうな笑みを浮かべるシノノメ。「そうかそうか」と嬉しそうに呟くと、ゆるりと長刀を構えた。

 切っ先をイレインの心臓にピタリと向け、そして一歩踏み出し――即座に後退した。

 ギディオンも遅れて後退したその瞬間、イレインの頭の上を飛び越えて何か長い物が亜音速で飛来。二人の立っていた場所に爆発音とすら取れる破砕音を響かせて突き立ったソレは、斧槍ハルバードだった。

 イレインが慌てて振り返れば、そこには頼りの上司――フェリックスが厳めしい表情で二人のもとへと悠然と歩いてきている。

 思わず言葉を発そうとするイレインを手で押しとどめ、彼女と彼女の隣に転がるハーヴィーを見やった。

 そして、新たな闖入者を警戒してか、それとも余裕の表れか、様子を見守る敵二人組を見て、フェリックスは犬歯を剝き出しにして怒りをあらわにした。

「よくもやってくれたな、貴様ら……ッ!」

 叫ぶや否や、疾走。あっという間にハルバードに辿り着くと、引き抜くと同時に二人の前まで肉薄する。

 そして裂帛の踏み込みと共に薙ぎ払いの一閃。それをしゃがんで避けた二人の内、前進したギディオンに向けて体を回転させながら石突の刺突を放つ。

 それを身をひねって避けたギディオンに、手繰ったハルバードの斧を薙ぎ払うようにその胸板へ叩きつけた。

 斧身が胸の肉をえぐり取るのと同時にフェリックスの背中で魔術式が回転。膂力を強化する魔術が発動され、勢いのままに薙いだ。結果、後方へと殴り飛ばされるギディオン。そして同時に、薙ぎ払ったハルバードが音もなく接近していたシノノメの胸先を通り過ぎる。

 思わず停止する彼に向けて、再びアスファルトを叩き割るような勢いの踏み込み。長刀を構える時間すら与えない、速攻の体当たりが痩躯に激突した。

 吹き飛ぶシノノメだが、その手の長刀の切っ先から流れる血の軌跡が宙に刻まれる。体当たりされながらも突き出した切っ先が、フェリックスの肩口を抉っていた。

 吹き飛ばした二人に向けて追撃するような真似はせず、フェリックスは一旦停止する。

 対する崩壊の羅針盤コラプスゲートの幹部二人も、体勢を立て直しながら動きを止めていた。こちらは、どうやら何か様子がおかしい。

 訝しむフェリックスを前に、二人は懐とポケットからぞれぞれ何かを取り出した。

 それは、黄金色の羅針盤である。

 あの羅針盤には、膨大な魔力が秘められ、そして幹部連中はそれを利用することができる。それを思い出したフェリックスは思わず身体を硬直させるが――対する二人はなぜか、前進に満ち満ちていた戦意を突如霧散させていた。

 両手を下ろし、腰に手をやって大きなため息を吐くギディオンと手の中の羅針盤を見つめて緩く首を振るシノノメ。様子のおかしい二人に警戒を高めるフェリックスだが、シノノメが長刀を鞘に納めたことでますます不可思議に思う。

 そんな大男に、痩躯のシノノメはため息を吐きながら言った。

「死合いを続けたいところだが、残念なことにこちらは『時間切れ』のようだ。これにて退散させてもらうとしようか」

「ったく、あの魔女にも参ったもんだぜ」

 そう意味不明な勝手なことをのたまう二人。

 こめかみに青筋を浮かべ、フェリックスが挑発的に問う。

「ほう、逃げるのか? 情けない」

「逃げてもらって助かるのはそっちだろ? おっさん。後ろの二人をよーく見とけよ」

 しかし、ギディオンの返しにフェリックスは沈黙せざるを得ない。どうみても重傷の部下二人を抱えて、それを打倒した者共を相手にするのはあまりに不利だ。

 そう考え、表情を厳しくするフェリックスをギディオンはせせら笑うと、ポケットから小さな青い宝石を取り出す。その表面に魔術式が浮かび、発光する中で、彼は挑戦的に言い放った。

「また遊ぼうぜ、おっさん。そこの双剣使いにも伝えといてくれよ」

 そして、光の中に二人の影が消え、直後にその姿は消失した。おそらく転移魔術だろう。何らかの移動手段は有しているということだ。

 そんな分析をしながら、目の前で凶悪犯を取り逃したことに、フェリックスは落胆を覚えながら同時に安堵も覚える。

 あのままでは、三人諸共殺されていた可能性が高い。イレインとハーヴィーが容易くやられたことからも、そして一瞬やりあったことからも、そのことがよくわかる。

 緊張で構えたハルバードがおろせないまま、フェリックスは重く息を吐いた。

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