第五章 トゥリエスを二人は駆け巡る

プロローグ

 視界を横切る白い何かを見て、<ユグリー通り>を歩くエドワードは思わずそれを目で追った。

 綿のようなその小さな白は、アスファルトにぶつかると透明色に溶けて消えてなくなる。

 天を仰げば、曇天の空から無数の白が舞い降り始めていた。頬に落ちて水滴に変わった様子を感じ取って、ようやくこの白が雪だと分かる。

 気づけば吐く息も白くなり、視界の中で風景に溶けて消えていった。それを眺めながら、ついにトゥリエスにも冬がやってきたのだとしみじみと実感する。

 そう、王女の護衛という大任を完了してから、もう三か月も経っていた。


 相変わらず一年中羽織っている浅葱色のジャケットでは、この刺すように冷たい寒気を遮るにはあまりにも力不足だった。

 そのため、ぶるりと身体を震わせながら、エドワードは荷物を抱えていない方の手をズボンのポケットに突っ込んで早足に目的地に向かう。

 目的のアパートに到着したころにはエドワードの耳と頬、そして鼻は真っ赤になっており、足元の水たまりでそれを確認して思わずしかめ面を作った。

 白い息を吐きながら階段を上り、記憶にある部屋の番号を確認しながら扉を順にみていけば、やがて合致する番号が目に入る。その扉に三度ノックすれば、奥からくぐもったよくわからない声が僅かに聞こえた。

 事務所を出る時に既に連絡はしてあるため、それが入室許可の言葉だと信じてドアノブを回す。事前に鍵を開けていたであろう扉は難なく開き、次の瞬間には暖房器具によって暖められた室内の暖気が全身をもわりと包んだ。

 その温かさに生き返る思いをしながら、いそいそと中に入ってさっさと扉を閉める。

 特に芳香剤など置いていないのだが、甘い花のような香りがした。自室とは明らかに違う空気感や香りに少しだけ浮足立ちながら、玄関すぐのダイニングキッチンを横切り、一番奥の寝室の扉を再度ノック。

 今度は「はぁい」という鼻がかった声がちゃんと聞こえ、「入るぞー」と声をかけながら扉を開いた。

 中に入ると、より一層の甘い香りが脳髄を刺激する。中には本棚とクローゼット、箪笥が置いてあり、入って右側に膨らんだベッドがあった。

 ベッドの中の人物は頭の上までベッドカバーを被って丸まっているようだ。

「……何してるんだ」

「…………風邪、移しちゃいけないと思って」

 呆れたように言えば、ベッドからはくぐもった声が返ってくる。

 それでも今の自分は少々間抜けだと自覚したのか、そっと頭の上からベッドカバーを首まで下げた。

 現れたのは、マスクをしていながらわかるほど、頬と耳を紅潮させたカレンである。恥ずかしさもあろうが、今の彼女は完全に風邪引きだった。

 その一報をエドワードが受けたのは十分ほど前で、「体がだるい」「咳が出る」「どうしたんだろう」とカレンは自身の状態を理解していないようにのたまって、「遅れて事務所に行く」などと連絡してきたのだ。

 当然、エドワードはそれが風邪であると見抜き、「そのままベッドに入ってろ」と有無を言わさず指示し、簡単な買い物をしてからカレンの住む部屋にやってきたのである。

 通信魔具で言い訳してたところによれば、今まで一度も風邪を引いたことがないとのことだったので、「どうせ持ってないだろうからな」とエドワードは買い物袋から買ってきた風邪薬を引っ張り出して近くのサイドテーブルに置いておく。

 頷きながら物珍しげにそれを見るカレンに、エドワードは問いかけた。

「それで、何か食べたか?」

「ううん、まだ」

「だろうな。ちょっと待ってな。キッチン借りるぞ」

「えっ」

 首を振るカレンに頷きを返すと、エドワードはさらりと言って背中を向ける。驚くカレンに何か言わせる暇を与えずに、買い物袋を提げて前の部屋に戻った。そして備え付けの台所に立って、買い物袋の中身を適当に広げながら鍋を出し、水を貯めてコンロに火をつけようとする。

 しかし、いくらつまみを回してもつかない。どうしたことかとコンロを持ち上げて下からのぞき込めば、刻まれた魔術式とその中央に埋め込まれた暗い青色の丸い石があった。

 その様子を見て眉を顰めると、声を張り上げてカレンに問う。

「おい、魔力切れてるじゃないか。魔力石の交換してないのか?」

 コンロの裏からその青い石を取り外しながら言うと、咳交じりの返答が聞こえてきた。

「その、ここ最近忙しくて、自炊してなかったから気づかなかった、の」

「ああ、なら、仕方ないか……」

 カレンの言葉の意味を理解し、魔力石を指でもてあそびながらため息をつく。

 つい先日まで、警察の手伝いとして新たに発足したらしい麻薬組織の駆逐運動を行っていたのだ。それは一週間に及び、そして最後の最後に追い詰められた魔術師が無茶苦茶に『水弾ウォーターバレット』を発射。

 本来なら、カレンが魔術殺しマジックキラーで打ち消してしまうところなのだが、凍っていた足元に気づかず、滑って転倒してしまったのだ。そこへ運悪く水の弾丸が直撃。不幸中の幸いというべきか、防具に激突したため打撲以下の怪我ですんだものの、形の崩れた水の塊を頭から被ってしまった。

 それから事件解決まで半日かかったため、風呂にも入れなかったカレンはこうして風邪をひいてしまったのである。

 警察の手伝いをしていた一週間はずっと外食で通していたため、魔力石の不備にも気づかなかったのだろう。

 仕方ないか、と息を吐くと、ぐっ、と石を握りしめる。そして、魔力を練り上げて握った拳に集中。仄かに石が発光し、指の間から淡い光が漏れた。

 そして手を開くと、暗い青色は微妙に発光する水色になっていた。魔力が充填されたのだ。

 魔力の表出が可能な魔術師はこういうとき新品の石をわざわざ買わなくてもいいから楽だよな、とものぐさしつつ、石を元の場所に埋め込みなおす。

 そしてコンロを置きなおしてつまみを捻れば、魔術式に魔力が通り、火がついた。

 正常稼働に満足げに笑みを浮かべると、エドワードはそのまま調理を始める。

 普段聞きなれない調理の音に、カレンがベッドの中でそわそわしながら待っていれば、やがて火の切られる音がした。そして向かってくるエドワードの手には大ぶりのお椀があり、暖かそうな湯気が立ち上っている。

 サイドテーブルに置かれたそれを見れば、野菜がたっぷり入った卵スープのようだった。

 起き上がって恐る恐る手に取り、一匙すくって口をつけると、眉が跳ね上がって驚きのままにエドワードの顔を見た。

「おいしい。意外と料理上手なの?」

「これくらい、一人暮らししてればできるようになるさ」

 苦笑しながら食べろと促すと、カレンも嬉しそうにスプーンを動かしだす。

 そのまましばらく、カレンの食事の音だけが寝室に響いた。エドワードは何となくすることもないのでおいしそうにスープを飲む彼女をぼんやり見つめる。

 それに気づいたのか、カレンは視線から逃れるように身をよじるも、ベッドの上ではあまり動けないので意味はなく、結局恥ずかしそうに俯くだけになる。しかし食べるのはやめない。

 その一連の動きに、小動物めいた愛らしさをつい感じてしまって、エドワードは思わず笑みを浮かべた。

 改めて見れば、淡い水色の寝間着を着ているカレンは、鎧を各部に装着した勇猛な普段の格好とは打って変わって、年齢相応で女の子らしい。

 無論、仕事のない日などは服装を変えて街の散策などしているのだが、それをエドワードが目にするのは、ここ最近はあまりなかった。

 思えば、今のカレンは普段のカレンとは真逆の印象だ。

 赤らんだ頬や耳、熱のだるさから眦の下がった意志の弱い薔薇色の目。常の自信ありげな相貌が、今はどこか不安げに見えるのである。

 風邪という存在が、『特殊部隊の女』という鎧を引き剥がし、その内側にある『普通の女の子』を浮き彫りにしているかのようだ。

 それを改めて認識すると、エドワードは何やら妙な気分になってきた。

 仕事の相棒の部屋に居るのではなく、女の子の部屋に居るのである。

 そう思うと、急に落ち着かなくなる。何やら部屋に入ったときからする甘い香りもその意識を助長して、急速に恥ずかしくなってきた。

 目の前にいるのも、自分より色々と強い相棒ではなく、弱った異性という認識になってくるのだから不思議なもの。

 一口一口スープを味わう薄桃色の唇に視線が吸い寄せられるのは、果たしてなにゆえか。

 何やらそわそわし始めたエドワードに流石のカレンも気づいたのか、食事の手を止めて小首を傾げながら問う。

「どうしたの?」

「……いや、別に」

 そこはエドワードも二十五歳のいい大人である。さらりと何でもないように答えて見せた。ただし視線は合わせない。

 しかし女性の妙なる勘か、片眉を下げて不思議そうな表情をして、サイドテーブルに椀を置くと、ぐいとベッドの上で身を乗り出して、エドワードに顔を近づける。

 そっと身体を引いて仰け反るエドワードに、カレンは心配そうに尋ねた。

「どうしたのよ、何か変よ。まさか、移った?」

「いやそんなまさか、ははは」

 「接触して五分も経ってないだろ」と苦し紛れに苦笑いを浮かべて、それでも視線は合わすまいとあらぬ方向へ逸らした。それがまずかった。

 身を乗り出すカレンは寝間着である。寝苦しくないように比較的ゆったりした着心地を求められるもので、カレンもそれを望んだのか少し大きめのサイズのものだ。

 乗り出した体勢では、胸元の布地は重力に引かれて下に落ち、たまたまそこに目線を移してしまったエドワードは豊かに膨らむ肌色の谷を垣間見てしまった。

 おお、と絶景に思わず固まれば、戦士として、そして同時に女性として割と視線に敏感なカレンも何を見ているかに気づく。心配そうにしていた目がゆっくりと細まった。

「エド?」

「なん……あ」

 カレンがにっこり笑って名前を呼びかければ、それにつられてつい視線を上げて合わせてしまったエドワードも、自分が何をじっくり見ていて、そしてそれを勘づかれたのに気づいてしまった。

 戦場で感じる、背筋をはしる悪寒。冷や汗が背中をじっとりと濡らし、「これはまずいやつだ」と脳内が警鐘を鳴らしだした。そしてそれは少し遅かった。

 振りかぶられるカレンの腕。

 大剣を振り回す膂力が遺憾なく発揮された上、スナップを利かせたビンタは、愛想笑いを浮かべる助平エドワードの頬に吸い込まれるように叩きつけられたのであった。









 時は少し進み、エドワードはもう己の牙城たる探偵事務所に帰ってきていた。

 帰り道は視線が痛かった。というよりいたたまれなかった。

 道行く人がエドワードの顔をみてくすくすと笑っていたのは、彼の顔立ちが笑いを誘引する形状をしているせいではなく、十中八九頬に張り付いた美しい手形紅葉のせいだろう。

 脳裏によみがえるのは、ぶれる視界の中で林檎のように真っ赤にしたカレンの顔である。そして、柔らかそうな肌色。

 いいものを見たかなぁ、などと口の端がつり上がるのは、悲しきかな男の性である。女性の部屋に居ると言うだけで落ち着かなげにしていた初心さはどこへやら。

 それはともかく、視線を合わせようとせず、布団の中にすっかり潜り込んでしまったカレンには薬をしっかり飲むよう言い渡してきたので、風邪は数日もすれば大丈夫のはずだ。こっくりと頭を動かしていたことだし、律儀な彼女は残りのスープを飲んだ後でちゃんと言いつけを守ることだろう。

 何はともあれ、数日は一人でこの事務所を運営せねばならなくなった。いつもは事務仕事をやってくれる彼女は居ないため、仕事の選別や連絡などは自分でやる必要がある。

 彼女が来る前までは一人でやれていたことも、今となっては実に面倒だ。すっかり頼り切っている自分に呆れの笑いをくれてやりながら、エドワードはひとまず中身の入っている透明な郵便受けを開いた。

 数枚の手紙と、何やら膨らんだ封筒。

 気になるので、手紙を後回しにして膨らんだ封筒を開く。

 すると、転がり出てきたのは、手の平サイズの黄金色の丸い円盤である。縁には東西南北を表す記号が刻まれ、その中央には針が北の記号を指している。

 円盤と言うよりは、コンパス。コンパスと言うよりは、羅針盤か。どちらもほとんど同じようなものだが、直感的に羅針盤だと思った。

 黄金色とは随分派手な趣味だな、とキラキラ輝くそれを手の平の上で転がすエドワードだが、その針がちっとも動かないのに気づく。北の記号を指したまま、どう円盤を動かしても針は動かないのだ。

 壊れたものを送りつけるとはどういうつもりだ、とますます不可解に思いながら、封筒の口を下にして揺らせばメモ書き程度の大きさの紙片が落ちてきた。

 そこには、殴り書きかと思えるような汚い自体で短く書かれている。


 『復活前夜祭へ招待しよう』、と。

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