05

 敵に関する分析議論から気が抜けないまま翌日を迎え、そこからさらに半日の時間が経過した。

 時刻は再び夕方。

 何事もなく時間は過ぎ、襲撃の気配が現れることは一度もなかった。

 一か所にずっと留まり続けるのも危険だ、という判断から一度宿を変更し、少しばかり遠いマンションの空き部屋――エドワードが有事の際に、と確保していた隠れ家――に移動したものの、それでも音沙汰はなし。数時間が経過した今も周囲にあからさまな変化はない。

 そんな状況下で、エドワードは僅かに開けたカーテンから外を見張りながら、意識をそれとなく内側の部屋に向ける。

 備え付けのベッドに横たわるのは、王女ではなくカレン。その近くのソファにはリックが横になっており、二人は現在仮眠中だった。

 夜中にたっぷりの睡眠をとった王女は椅子に腰かけて、何も考えていないのかぼんやりとリックの寝姿を眺めている。その傍ではアーサーがいつでも動けるように静かに待機しているが、どこか退屈そうだ。

 そして、ジェイミィは手持無沙汰なのか、この面子では比較的相手のしやすそうなエドワードの傍で時折会話を交わしていた。

 どこか寡黙な印象のあった彼女だが、どうやらそれはエドワードら二人を警戒していただけのようで、丸一日を共に過ごした現在、気を許したのかそれなりに話す仲になっていた。

 どちらかといえばよく話す性質のようで、王女の世話係を任されて長いだのよくお話し相手を務めるだの、様々な話題を振っては談話に興じている。

 この状況で呑気に思えるかもしれないが、その実、彼女の表情は真逆。どこか緊張した表情は弛緩することはなく、それも、このいつ襲われるかわからない現状へのストレスに、押し潰されないよう気を張っているためだろう。

 だからこそ、比較的現状に慣れてきたエドワードはその相手をしてやるのだった。年齢がカレンと同じだ、というのもどこか同情を覚えるので、理由の一つにしていた。

「帝国の料理は王国と比べて、スパイスをきかせたものが多くて、水を用意しなければ舌がおかしくなっちゃいそうでしたね」

「向こうは香辛料の特産地だからな。こっちじゃできないような、豪勢な使い方が金持ちの遊び方らしいぞ」

「そうなんですか。従者に過ぎない私たちの料理にもあんなに使うだなんて、本当に富める国は違いますね」

 帝国での出来事を話題にして、たまに笑いを交えながら話す二人。時折王女が彼らに視線をくれるが、話に参加する気はないのか耳を傾けるだけのようだ。

 しばらく帝国の文化について文句を垂れるジェイミィに相槌を打つエドワードだが、やがて言葉少なになっていく彼女に彼は碧眼を向ける。

 項垂れるジェイミィの肩はかすかに震えており、組み合わせた両手は落ち着かなげに指を動かしていた。そして、遠い過去を思い出すように顔を上げ、天井の一角を見つめる。

「その、わたしには、兄がいまして、王女様のお世話係になってからしばらく会ってないんです。王都の鍛冶師に弟子入りしてて、使節団として帝国に行く直前にもらった手紙には、ようやく一人前として剣を打たせてもらえるようになったそうなんです。それで、その、あの」

 落ち着かなげに紡がれる言葉に、エドワードは黙って耳を傾ける。彼女が不安で不安で仕方ない気持ちを、言葉を発することで誤魔化しているのをわかっているからだ。

「兄は、父と母が病気で亡くなってから、私が王城の勤め人になるまでずっと世話をしてくれたんです。『妹を守るのは兄の勤めだ』っていつも言ってて、それで……あれ、私、なんでこんな話してるんだろ……」

 必死に兄のことを喋るも、だんだん頭の中で現状との齟齬にこんがらがってきたのか、混乱したように視線を落とす。王女もアーサーも心配したように彼女を見ているのにも気づかないようで、今度は縋るようにエドワードを見上げた。

「あの、大丈夫ですよね? 王女様も、リックさんも、アーサーさんも、カレンさんも……エドワードさんも、無事に生きて帰れますよね?」

 ついに不安の根本を言葉にしてしまい、それで不安を押しとどめる心が決壊したのか、はらはらと両目から涙をこぼすジェイミィ。

 王女が彼女に対して口を開こうとするのを、エドワードは視線で押しとどめて、ジェイミィの肩に優しく、しかし力強く手を置いた。

「大丈夫だ。俺たちは強い、王女殿下も、ジェイミィも、そして自分自身も守ってみせるさ」

「……エドワードさん」

「なに、俺は恐ろしく悪運が強いんだ。ドラゴンと戦ったって生き延びたんだぞ? 心配するなよ」

 おどけたように肩を竦めて言えば、その姿に安心を覚えたのか僅かに微笑むジェイミィ。

 そして、ふと周囲を見渡して、王女とアーサー、そしていつの間にか起き出していたカレンに微笑ましげに見られていることに気づき、サッと顔を真っ赤に染める。

 すると、黒髪を翻してタタタッと玄関まで走っていってしまうと、外套掛けに掛けられていた先日買ったばかりの変装用の鳶色のコートを羽織ると、「お茶買ってきます!」と飛び出してしまう。

 慌ててカレンが追いかけようとしたところで、飛び出したばかりの扉が少し開いて、ジェイミィが僅かばかり顔を出して一言。

「エドワードさんって、その、私の兄とそっくりですねっ」

 と、伏し目がちに言い放ち、今度こそ出て行ってしまう。

 それに、カレンが「あらあら」とでも言いたげな視線をエドワードに投げる。

「お兄さん、ですってね」

「……なんだよ」

「別にぃ?」

 茶化すようなカレンに「はやく追いかけろ」と追い払うようにジェスチャーを送ると、やれやれと言いたげに首を振ってジェイミィを追って行ってしまった。

 彼女と同じように首を振ると、再び視線を窓の外に戻そうとしたところで、実に面白そうな顔をしているアーサーと目が合う。

 口元にこれでもかとニヤニヤを浮かべている男に気味悪さを覚えながら、思わず問いかけた。

「なんだ」

「……オニイチャンっ」

「死ね」

 ノータイムで『爆裂エクスプロード』を構築しそうになるのを堪え、エドワードは殺意マシマシの視線をぶつけるにとどまる。

 そんなやり取りを見てくすくすと笑う王女にばつが悪くなり、居心地まで悪くなってきたエドワードは、ようやく窓の外に意識を避難させるのだった。









 時刻は少しすぎて、窓の外の太陽は地平線の建物群の向こうにほとんど隠れていた。

 街の中もぽつぽつと明かりが灯り、見張ることも難しくなってきている。

 夜中に仮眠を十分とったエドワードは起きたまま、今度は王女の傍に控え、アーサーが仮眠。起きたリックは窓の外を眺めている。

 カレンとジェイミィが出かけて一時間、お茶を買うには少し長い気もするが、緊急の連絡が来ないことから大丈夫だろう、と特に心配することもなく待機していた。

 どこかで女同士の道草を食ってるんだろうな、と少し羨ましく思いながら、エドワードはなんとなく王女との会話に興じていた。

「それで、兄様ったら山に行ってしまわれると、半日もしないうちに猪を狩って帰っていらしたのです。その時のダリル大臣の顔といったら……」

「それ、御歳十一のときのお話ですよね……?」

 王女が笑みを浮かべながら話すのは――ジェイミィの兄の話に感化されたのか――彼女の兄である第二王子の幼少時代のこと。

 第二王子とは、エドワードの耳にも入るようなトンデモ逸話を数多く残す謎の人物であり、その一端は先ほどの発言に含まれている。

 曰く、齢十二にもならぬうちに王都近辺の山の獣を制覇しただの。

 曰く、齢二十にてあらゆる剣技を修得し、王国最強の騎士団長を一撃で伸しただの。

 根も葉もないと思われるような凄まじい列伝がまことしやかに語られているのである。

 実際エドワードも信じてはいなかったが、この王女の話を聞いて嘘とも断じることができなくなっていた。

 第三王女いもうとの誕生日に、自ら猪を狩ってプレゼントする野生派の王子がどこにいるというのか。当時の教育係も兼任していたというダリル大臣の胃痛や如何に。

 視界の端で苦笑するリックを見れば、どうにも本当なのだろう。

 王族どうなってるんだ、と初代の竜人殺しの逸話も思い出し、げんなりとするエドワード。確かに、あれだけ強力な竜人を打倒する王様の子孫なのだから、武の強さが振り切れてたりしていてもおかしくはないのかもしれない。

 驚くというよりも呆れ果てるエドワードに、王女はくすくすと笑いながら続ける。

「兄様は他人にそんな顔をさせるのが得意でした。他にもたくさんあるのですよ? 例えば、そうね、兄様が十七で、私が十一の頃なんかは凄いものでした」

「いえ、あの、もう結構です……」

 聞くだけで疲れる、と首を振るエドワードに、「あら残念」とやはり王女は笑う。エドワードの反応も分かっていたようだ。


 意外と茶目っ気のある王女様だ、と緩く首を振ったところで、懐が振動する。何事かと見れば、通信魔具が受信を知らせていた。つまり、カレンからの連絡である。

 急ぎ手に取り「どうした」と応えれば、彼女の焦った声が鼓膜を震わせる。

『え、エド! そっちにジェイミィは居る!?』

「なに? 一緒にいるんじゃなかったのか?」

『それが、少し目を離した隙にいつの間にか居なくなってて……さっきまで探してたんだけど、見つからないの。何かあったときはすぐに隠れ家に戻るよう言っておいたから、戻ってないかと思って』

 焦るカレンの言葉に、エドワードは顔色をサッと青ざめる。

 彼女が自分から居なくなるなど、まずありえない。そして、こちらを狙う敵には、小娘一人をさらうことなど造作もない能力を持つ輩が居る。

 しまった、と思わず歯噛みする。一日襲撃がない程度のことで、かなり油断していた。

 標的ではない従者一人の外出、バレることなどないと高を括っていたが、相手ていこくは使節団百人を躊躇なく殺しているのである。従者とて例外ではないだろう。

 なんて情けない。久しぶりの護衛任務だが、これまでに受けたどの依頼よりも重要度や危険性は段違いに高いのだ。意識が余りに甘かった。

 今にも部屋を飛び出して探しに行きたい気持ちを、ぐっと堪える。もう手遅れ・・・だろう。それより、彼女が敵に隠れ家の位置を漏らしてしまう可能性を考えなくてはならない。

 内心で不甲斐ない己をなじりながら、表面にはおくびにも出さずにカレンへ「至急戻ってきてくれ」と端的に告げ、通信を切る。

 そして、アーサーの眠るソファを蹴飛ばして叩き起こし、怪訝な顔をするリックと王女に説明しようと口を開いたところで――ガチャ、と扉のノブが回る音。

 剣を抜き払って全力で振り返るエドワードに反応して、アーサーが跳ね起きリックが杖を構える。

 全員が緊張のまま見守る中、ゆっくりと開いた扉から現れたのは――ジェイミィだった。

 武器を向けられている現状に、ぽかんと口を開けている。

「ど、どうしたんですか?」

「……いやぁ」

 アーサーが誤魔化しながら、視線でエドワードに問う。

 一方でエドワードも脱力しながら、困惑していた。自分の考え過ぎだろうか、と特に問題の見受けられないジェイミィを見つつ剣を下ろす。

 そして、ジェイミィに近寄って、「カレンはどうした?」と問う。

「その、初めての街だったので迷子になりまして、どうにか見覚えのある景色が見つかったので、慌ててここに戻ってきたんです」

 困ったように眉をハの字にして、申し訳なさそうに俯く。

 その様子にようやく安堵を覚えて、エドワードは大きくため息を吐いた。

「おいおい、あんまり心配させるんじゃない。カレンから連絡を受けたときはどうしようかと――」

「……エドワード」

 胸をなで下ろすエドワードに、絶対零度の声でリックが呼びかける。

 緊張を孕んだ声に、思わず振り返れば、彼はまだ杖を構えて魔術式を紡いでいた。

「おい、何をして」

「至急離れろ。いますぐだ。……ジェイミィ、その手に持ったものは、なんだ」

 強い言葉に混乱するエドワードを通り越して、リックが詰問するような口調で問う。

 エドワードが振り返って見下ろせば、ジェイミィの手には多少小綺麗な細長い長方形の箱が握られていた。

 ジェイミィはそれを持ち上げて、皆に見えるようにする。

「これですか? これは、お茶の葉で」

「そうか。キッチンも何もないここで、茶葉でお茶ができないと嘆いていたのはお前のはずだがな」

 鋭い指摘。確かに、隠れ家に到着した当初にそんなことを言っていた記憶がある。

 しかし、そんな指摘にも、ジェイミィが笑みを浮かべて困ったように答えた。

「その、うっかり間違えちゃって。カレンさんと改めて買おう、って話していたんデす」

「ならば、問うぞ――その、首に刺さる・・・・・短剣は、なんだッ!」

 リックの視線は、ジェイミィを見てはいなかった。その後ろ、玄関の扉に貼り付けられた鏡に映る、彼女の後頭部。

 そのうなじに、深々と突き立つ、黒塗りの短剣。

 それを視界に収めた瞬間、エドワードの全身が粟立つ。骨にまで達しているであろうそれを、そのままにしたまま、今まで平然と話していたのだ。

 思わず後退しそうになるエドワードの腕を、ジェイミィの華奢な腕が優しく掴む。

 エドワードが見たジェイミィの表情は、未だ笑みを浮かべているが、しかし、その目には昏々こんこんと渦巻く恐怖の色があった。

「これはデすね、お茶を探シてたら、後ろから、イきナりりりりりりっりりっりりりり」

 問われたことに答えようとしたジェイミィが異音を奏でる。

 細い首をカクカクと揺らし、口の端から涎がこぼれ落ちて、歯の隙間から見える舌は口内で異常に乱舞していた。

 そのおぞましさに逃げようとするエドワードだが、掴まれた腕がそれを許さない。少女のものとは思えない異様な握力と腕力が、エドワードをその場に釘付けにしていた。

 逃れようともがくエドワードに、困惑するアーサー、味方が近すぎて魔術を放てないリックと立ち上がったまま固まる王女。

 混迷を極める部屋で、ジェイミィは片手で器用に箱を開ける。そして、開いた箱からこぼれ落ちたのは、またも黒塗りの短剣だった。

 一つ違うのは、その柄と刀身に、びっしりと幾何学模様が描かれていることか。

 そしてそれは、燐光を放ち、今にも宿した魔力を炸裂させんとしていた。

 同時、リックが防御の式を紡ぎ、アーサーが王女を引き倒す。

 そして逃げるべく、ジェイミィの手首を切り落とそうとするエドワードの眼前で、異音を停止させたジェイミィの瞳から、涙がこぼれ落ちる。

 思わず動きを止めてしまったエドワードの前で、ジェイミィの唇が言葉を紡いだ。否、紡ごうとして、音にならなかった。

 だが、誰の目にも、何を言おうとしたのか、わかっただろう。わかってしまっただろう。


 たすけて、と。


 目を見開くエドワードの、その真下で――巨大な爆裂が、全てを白く染め上げた。









 視界がぼやけている。音が遠い。熱い。

 なんとなくそれらを認識したエドワードは、不意に意識を取り戻した。

 同時、全身を襲う烈火の痛み。激痛などという生易しいものではない、まるで神経に直接燃えさかる棒を押しつけられ、抉られているかのような感覚。特に右足の側から送られてくる情報量がひどかった。

 そして喉が震えていることに遅れて気づき、それが自分の悲鳴であるとエドワードのどこか冷静な部分が認識していた。

 歯を食いしばり、悲鳴を飲み込んでいると、やがて視界が回復し、左耳だけが音を認識し始める。

 最初に見えたのは、夕暮れに燃える赤い空。三階建ての最上階だったため、天井が吹き飛ばされたのだろう。

 そして次に、耳が何かの音を捉える。痛みを堪えていれば、やがてそれが誰かの笑い声だとわかった。

「ひ、ひぃーっひっひっひっ! くは、あぁーっはっはっはっはっ!」

 嘲り、愚弄し、馬鹿にする、哄笑。

 どうにか首を巡らせて音源を見れば、そこは真上。崩壊しかけの屋上の縁に立ち、こちらを見下ろすその人物は奇妙だった。

 紅いシルクハットに紅いスーツ。髑髏しゃれこうべの笑う杖を握り、腰にはずらりと短剣と長剣が並ぶ。そのどれもが黒塗りであった。

 そんな、どこか道化じみた雰囲気を醸し出す男は、ただひたすら、笑っていた。エドワードを見下ろし、指さし、腹を抱えて。

「ひ、ひひひひひひっ! 聞いたか? それとも聞こえなかったかなぁ? 最期の言葉が、『たすけて』だと、さ! アッッハハハハハハハハハハハハハッッ! もっとマシなこと言えないのかね、まったく! バッカみてえ!」

 その言葉を聞いて、直感的に理解する。

 この男が、ジェイミィを使って襲撃したのだと。

 この男が、ジェイミィを殺したのだと。

 この男が、ジェイミィの死を愚弄しているのだと――!

 瞬間的にエドワードの何かが沸騰し、すべての痛みが完全に吹き飛んだ。

「おまえェェェェェェェェェェッ!!!」

 無事だった腕を持ち上げ、握ったままだった長剣を突き出す。切っ先に紡がれる魔術式、過去最高の速度で構築されたソレは、怒りのまま極光の光線と成って放たれた。

 しかし、それは男の軽やかなステップで避けられる。そして、離れていても分かるニヤケ面のまま言い放った。

「そこで這い蹲ってな、負け犬。さっさと死んでさっさとあの世で後悔してろよ」

 そのまま、横合いから飛んできた光の砲弾を回避。紅い男は視界から消える。

 怒りのままに起き上がろうとしたエドワードだが、右足を踏み出そうとして――感覚がないことに、気づいた。

 同時、再来する痛み。右足の、膝のあたりが異様な熱を持っている。

 どうなっている、とようやく見下ろして、言葉を失った。

 なかった。

 右足の、膝から下が、なかった。

 自覚からくる喪失感、認識したことによる幻痛が、一気に押し寄せて、気がつけばエドワードは絶叫していた。

 爆心地とも言える場所にあった右足は、完全に消し飛んだことだろう。だが、何よりも、エドワードは見ていた。

 ジェイミィの首に刺さった短剣も、同じく爆発していたのだ。

 彼女の体が盾となり、身体の前面の火傷だけで済んだが、同時に同じく爆心地になった彼女の体はどうなったのか。考えるまでもない。近くにだれも転がっていないのがその証拠。

 死体すら残されなかった。

 ジェイミィは、骸すら害されたのだ。

 そして、己は、失った右足の為に、仇を取りに行くこともできない。

 その怒りが、その虚しさが、エドワードの喉を震わせていた。

 思わず、硬い床に拳を叩きつける。痛みなど慮外、ただただ、無力感にうち震えていた。

 そんな彼の肩を誰かが優しく掴む。

 咄嗟に振り返れば、煤だらけではあるものの、無事の王女の姿が。

 ほとんど忘れかけていたが、彼女の安否を確認できてほっと胸をなで下ろす。

「ご無事、でした、か。殿下」

「無理して喋らずとも結構です。リックが魔術で咄嗟に守ってくれましたから、私は無傷。今、アーサーと二人であの紅い襲撃者を追い払っています」

 そう言って、彼女は周囲を見渡してから、誰も居ないのを確認して突然靴を脱いだ。

 何を、と問う間もなく、靴の底から取り出したのは、折り畳まれた一枚の紙。それを広げると、そこにあったのは魔術式だった。

 小さい紙の面積の中に、恐ろしく緻密で繊細な式が所狭しと刻まれている。エドワードもあまり見たことないレベルの式に、何のつもりかと王女に視線を向けるが、それを無視。

 王女はその紙を失われた右足の下に敷き、そして落ちていた彼女のコートから一本の短剣を取り出す。鞘から引き抜き、そして意を決したように手の平を裂いた。

 思わず声を上げるエドワードを無視して、血がこぼれる手をそのまま式の上に。ぽたり、ぽたり、と式に血が落ちた次の瞬間、式が発光する。

 血液の一滴一滴が光の粒子となって式に吸い込まれていき、それが古代魔術式だと理解した瞬間、エドワードの右足に激痛。

 思わず声を上げたその直後、眩い光がその場を包んだ。

 そして、目も眩む光が収まったとき――エドワードは、我が目を疑った。

 失われたはずの右足が、むき出しの状態で右膝から生えていたのだ。思わず息を呑む。

 現代治癒魔術は、発展しているとはいっても、病院で受けられる治療はせいぜい、断裂した四肢をどうにかつなげる程度。失われたものを完全再生させるほどの効果を持つ魔術は未だできていないはずなのだ。

 それが、目の前で、体感で、確かに再生している。試しに動かしても、しっかりと反応はあり、感覚に遅延もない。

 言葉もなく王女を見つめれば、傷つけた手を抑えながら王女は答える。

「王族にのみ与えられている再生魔術です。王族の血を条件とするため、一般には出回ってはいないでしょう。ですが、その分効果は絶大です、あなたが体感したとおりに」

「ありがとう、ございます」

 説明にとりあえず納得し、礼を述べて立ち上がる。再び脚の感覚を確認してから剣を握り直した。

 その目には、迷いと殺意が入り交じっていた。

 実のところ、再生魔術にそれほどの関心はない。あるのは、あの紅い男を追いかけられるという殺意と王女を守らねばという義務感。

 現在王女を守れるのは自分だけ。アーサーとリックに襲撃者を任せなければならないが、しかし、どうしても、あの男だけは許せなかった。

 そうして迷うエドワードに、王女は決然と告げる。

「行きなさい」

「……しかし」

「もうすぐカレン・ブリストルが到着します。私の身なら、大丈夫。だから、早く、彼女の、ジェイミィの仇を」

 その言葉に、思わず王女を振り返れば、その銀の瞳には炎のような怒りが揺らめいていた。

 怒りに震えているのはエドワードだけではなかった。彼女もまた、せっかく帝国から生き残って逃げてきた仲間を失ったのだ。そして共に過ごした時間もまた、エドワードの比にならない。

 故に、エドワードに許可を出す。追え、と。殺せ、と。仇をとれ、と。

 それを理解し、僅かに逡巡して――頷いた。

 そして脇目もふらず走り出し、吹き飛んだ扉から外へ。そこでようやくやってきたカレンとぶつかりそうになるも、回避して抜き去る。

「王女を守れっ」

「エド!?」

 それだけを言い残し、困惑するカレンを置いて建物を駆け下りる。

 どこにいるかは、階段を駆け下りながら見下ろした街の風景から見当がついている。光の砲弾が時々天へ消えていくのが目印だ。

 そこへと向かいながら、エドワードは静かに殺意をたぎらせる。

 絶対に、許さない。

 絶対に、

「殺す」

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