03

 慮外の男の声と出現に、その場にいた猛者たちの思考が一瞬、驚愕に停止せしめられた。

 たかが一瞬だが、されど一瞬。暗殺者にとっては千金の価値であり、勝利の時間だった。

 ぬるり、と滑らかな動きでエドワードの足下から立ち上がった男は、その勢いのまま右足を跳ね上げてエドワードの顎を強襲。反射で首を捻ってギリギリのところで回避するエドワードだが、それでもう、他の行動をする猶予を殺された。

 跳ね上げた足の勢いを利用して身体を半回転させたその男は、右手に持っていた短剣を振り上げ、投擲。狙いは当然、この場で最も守られなければならない人物――王女だった。

 驚愕に銀の瞳を見開くマリア王女に、無慈悲な鋼の輝きが迫り――しかし、次の瞬間には展開された『障壁シールド』の半透明の薄膜によって遮られていた。

 誰が発動したのかと問われれば、誰でもなく。王女の首もとに下がる宝石の散りばめられたネックレスが淡い光と魔術式を放って、その問いに解答していた。

 カツン、と『障壁シールド』に妨げられた短剣が硬質な音を立てて床に落ち、同時に魔術発動の負荷に耐えきれなかったネックレスが崩壊して半透明の薄膜が消失する。

 その音によってどうにか驚愕から復帰したカレンとアーサーが、柄に手をやると同時に抜き打ちの斬撃を眼前の暗殺者に向けて放った。前方と斜め後方からの挟撃に対し、男はその場から跳躍。

 驚異的な跳躍力で跳ねた男は空中でくるりと身体を逆さに反転させ、天井に足から着地・・した。

 いかなる妙技か、そのまま落下することなく停止した男はその体勢のまま左手の短剣を再度、投擲。二度目の刃を阻む魔具を持たない王女にそれを防ぐ術はなく、苦し紛れの回避行動を試みるもそれすら想定内なのか、短剣はあやまたず王女の頭部に向かっていく。

 しかし、まだ一人残っている。

 魔術式を紡ぐ時間はないと判断したか、リックが杖を振り上げそして旋回。武術の心得ありと見える巧みな杖捌きで、薄い鳶色の杖先が確かに短剣を捉え、弾き飛ばした。

 それを見た暗殺者は、ここで顔を歪めて舌打ちする。

「流石に四人居ちゃぁ無理かぁ」

 残念そうにそう呟くと、天井にぶらさがったまま懐に手を突っ込み、三本目の短剣を抜いて、そして投擲。今度は王女ではなく男の真下の机に浅く突き刺さる。

 それを一瞬ちらと見て、一気に顔を青ざめさせるエドワード。刃の表面に刻まれるよく見知った魔術式が、僅かに燐光を放っていた。

「――ッ、伏せろォ!」

「ぶっ飛びなぁ!」

 エドワードの絶叫と男の哄笑が重なり、それを更に塗りつぶすかのように、部屋を丸ごと吹き飛ばす爆発が巻き起こった。









 耳鳴りのする耳を押さえながら、エドワードは伏せた体勢から立ち上がった。

 顔を上げれば、目の前には仁王立ちするカレンが、大剣を突き出した状態で肩で息している。

 明らかに部屋を微塵に消し飛ばすであろう『大爆裂エクスプロード・マキシマム』が短剣には刻まれていた。伏せただけではどうしようもなかっただろうに、こうして生きているのは彼女のおかげか、と胸をなで下ろす。彼女の大剣が魔術をかき消したのだ。

 しかし、それでも一瞬遅かったのか、爆心地の机は粉微塵になり、天井には大穴があいている。

 続いて視線をおろすと、王女に覆い被さるリックと、従者のジェイミィを助け起こしているアーサーの姿が見えた。リックと王女を丸ごと覆う紺色のマントには幾何学模様が浮かび上がっており、咄嗟に発動したものと見えた。

 そうして起きあがるリックだが、その口元からは一筋の血が流れていく。

「大丈夫か!?」

「暗殺者風情が、やってくれる……腹の立つ置き土産だ」

 慌てるエドワードにそう呟いて、マントの下から晒した右胸には短剣が突き立っていた。あの爆発の一瞬前に、投擲されていたのであろう。

 苦悶の表情を押し隠そうとしているリックに、王女が静かに言葉をかける。命を狙われた直後だというのに驚くほど落ち着き払っているのは、王族たる宿命故か、それとも既に慣れてしまったのか。

「リック」

「ご安心を、殿下。肺をやられただけです。それに、奴め、詰めが甘いようですな。毒の類は塗ってないようで」

 王女の呼びかけに、不敵な笑みを浮かべて大丈夫だと言う。呼吸するのも苦しいだろうに、その堂々とした振る舞いは全く揺らいでいない。

 そんな彼に、アーサーは無理矢理腕をとって首の後ろに回し、肩を貸す。

「そう強がるもんじゃないぜ旦那。遅効性のやつかもしれねえ、早く治療と解毒しねえとネ。だからまあ、俺たちゃさっさと隠れ家の宿に行かせてもらうぜ。っつーわけで」

 僅かに抗議の声を上げるリックを無視し、アーサーは顎をしゃくってエドワードらに扉の向こうを指し示す。

 開いた扉の向こう、廊下の先には、不敵な笑みを浮かべて仁王立ちする、先ほどの暗殺者が居た。

「あっちは頼んだ、早速お仕事してくれよ?」

「……わかった。位置がばれてるんだ、一人しか来ないとは限らない、そっちも気をつけてくれ」

 アーサーに首肯を返し、エドワードは抜いていた長剣の切っ先に紡いでいた魔術式を発動。

 『爆裂エクスプロード』の爆破が応接室の壁をぶち抜き、即席の出口を作る。

 そこから出て行く王女らを見届けながら、油断なく暗殺者を警戒していたものの、暗殺者は動きを見せず。完全に行ってしまったことを確認してから二人は部屋を出る。

 それを何故か律儀にも待つ暗殺者の風体は、改めてみれば異様であった。

 まず目に付くのは、彼の浅黒い肌の上を縦横無尽に駆け回る刺青だ。指先、つま先、頭頂部までを覆っているであろうソレは、見た者に威圧感を与えるには十分すぎる。

 短く刈り込んだ黒の頭髪をかき回しながら、袖のない妙なコートを羽織るその男は凶悪な顔面に笑みを浮かべる。

「その大剣、厄介だねぇ。今のでキメちまうつもりだったのによぉ」

「そいつは残念だったな。今ので殺せなかったのが運の尽きだ、ここで死んでおけ」

 言い捨てるが早いか、エドワードは左手に紡いでいた魔術式を発動する。

 向けた左手から放たれるは、廊下を丸ごと埋め尽くす巨大な閃光。

 上位魔術『巨光閃レディエイトレイ・マキシマム』の一本の野太い閃光が、避ける隙間を与えずに男へと光速で接近。ひきつった笑みを浮かべた男を飲み込み、教会を真横に貫いたところで魔術を停止する。

 消えた閃光の向こう側、日の沈んだトゥリエスが僅かに見えた。

 そして、その円形にくり抜かれた穴の縁からのっそりと姿を現す刺青の男。当然のように無傷であり、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべたまま、その左右の手に短剣を構えた。

 対して油断なく剣を構える二人。じりじりと近づいて礼拝堂に入りながら、エドワードは思考する。

 如何なる方法で魔術を回避したかが全く分からない。部屋を爆破したときも、自身も確実に巻き込まれていたはずだ。大穴の開いた天井がその証拠。しかし、無傷。

 なにかタネがあるはずだ、と警戒を強めた瞬間、男が動いた。

 なんと、するりと身を翻してまた穴の縁に隠れてしまう。

 まさか王女たちを追うつもりか、と慌てて追撃しようとした瞬間、エドワードの背筋に極大の悪寒が迸った。

 走り出そうとした足から力を抜いて、落ちるように倒れ伏せる。次の瞬間、右後方から風切り音。目の前の穴の縁に短剣が突き立ち、風切り音の正体を把握した。

 どういうことだ、と振り返りつつ起き上がれば、そこにはつい先ほどまで前方にいたはずの刺青の男が投擲の姿勢で立っていた。

「勘がいいねぇ、あんた」

「……何をした?」

「素直に答えるわけないじゃんか、よぉ!」

 エドワードの問いに答えるわけもなく、再び両の手に短剣を構え、男は一息に大地を蹴った。突進する先は油断なく大剣を構えるカレン。インファイトに持ち込めばエドワードの援護を封じ、同時に取り回しの利く短剣の方が有利と考えたのだろうが、相手はこの国にて重要な任を任されていた特殊部隊である。

 接近する男に向けて、カレンは高速の無拍子の突きを放つ。予備動作ゼロの迎撃に泡を食ったのか、慌てて真横に回避する男に向けて連綿と流れるように続く追撃の薙ぎ払い。

 胴体を真っ二つにせんとする斬撃に対し、男はその跳躍力を如何なく発揮。天高く飛び上がり、応接室の二倍はあろう礼拝堂の天井にまたも足から着地する。そのまま脚をたわめ――そして天から大地へと跳躍・・した。

 頭上から高速で飛びかかってくる男に対し、回避行動は間に合わないと判断して咄嗟に黄金の大剣を頭上に構えるカレン。

 刹那、激突。黄金の刀身に男の短剣が喰らいついた。

 全体重と重力加速の勢いがカレンの細腕にのしかかる。しかし、直後激しい火花を散らして、斜めにずらされた大剣の刀身の上を短剣の刃が滑っていく。受けきれないと見るや否や、その技巧を以て受け流したのだ。

 勢いのまま大地に叩きつけられた男に、追撃を加えんと大剣を振り上げたカレンは――しかし停止する。せざるを得なかった。

 男の姿が、目の前から消えていた。

 逃がす時間は与えなかったはず、と理解不能の状況に一瞬停止してしまったカレンに、全てを見ていたエドワードから檄が飛ぶ。

「後ろだカレン!」

「――っ!?」

 振り返って構えた大剣に、衝撃。幅広の刀身のど真ん中に、突き出された短剣がキチキチと苦鳴をあげて阻まれている。

 当然短剣をつきだしているのは、刺青の男。「おお残念」と口笛を吹きながら、背後から切りかかるエドワードを跳躍して回避していた。

 エドワードの頭を飛び越えて祭壇に着地した男は、油断なく短剣を構えながら舌なめずりをしている。

 それを見据えながら肩を並べ、カレンは疑問を口にした。

「あいつ、何したの? 全く見えなかった」

「……訳が分からんと思うが」

 と前置きして、エドワードは自分でも戸惑ったようにしながら言葉を続ける。

「奴は、地面の中に消えて、そして地面の中から飛び出てきていた」

「……なに、それ」

 冗談ではなさそうな口調に、思わずカレンも驚いて呆然となる。それほどに、訳の分からない説明だった。

 しかし、エドワードが見た事実はその通りで、大地に叩きつけられた男はそのまま大地に吸い込まれるように消えて、そしてカレンの背後からぬるりと生えるように地面から飛び出してきたのだ。

 自身の正気を疑いたくもなるが、同時にいろいろと納得のできる光景だった。あの訳の分からない移動方法があれば、応接室に音もなく侵入できるし、爆発も光線も回避できるだろう。

 エドワードらが混乱しながらも把握したのを見て、男はニヤリと笑みを浮かべる。

「ばれちゃぁしょうがねぇなぁ。こいつを知っちまった奴は漏れなく死んでもらうことにしてるんだ、というわけでさっさと死ね」

「どこかで聞いたような台詞だなっ!」

 ずるりと男の脚が沈んだ瞬間、エドワードは紡いでいた魔術を発動。祭壇ごと『爆裂エクスプロード』が吹き飛ばすも、次の瞬間にはエドワードは足元から強襲してくる短剣に気づいて咄嗟に後方へと飛び退った。

 そのまま地面から起き上がった暗殺者は大地を蹴り、前方に向けて跳躍。弾丸のような勢いで飛び込んでくる男に向けて、回避行動中のエドワードが取れた行動はどうにか剣を縦に構えることのみだった。

 直後、長剣を握る手にもぎとられるような衝撃、続いて脇腹に走る灼熱と異物感。同時に長剣ごと体を弾き飛ばされ、長椅子の一つに頭から突っ込んでどうにか停止する。

 慌てて起き上がろうとすれば、先程の脇腹に思わず声を漏らしてしまうほどの痛みが奔った。見れば、短剣の柄が脇腹から生えている。あの一瞬の交錯でやられたか、と痛みに錯乱しそうになる思考を抑えつけて把握した。

 素早く、しかし丁寧に短剣を引き抜いた直後、カレンの「エド!」という警告の声が耳に届く。

 顔を上げれば、またも弾丸のように飛びかかってくる男の凶相が目に入った。

 咄嗟に長剣を振り上げれば、殴りつけるように放たれた短剣の一撃と衝突。一撃と男の慣性による重さに痛みを忘れて踏ん張って耐えれば、暗殺者が空中で静止し、エドワードの眼前で目を見開く。

 そのまま短剣を弾こうとするエドワードの動きに合わせて腕を引き戻し、暗殺者は器用に身体を捻って右足でエドワードの肩を踏みつける。そして蹴飛ばして再度空中へ。

 体勢を崩されながらもエドワードは長剣の切っ先を空中へと逃れた暗殺者に向け、そこに展開していた魔術式を発動する。

 『光弾レディエイトバレット』による光の球が光速で男に飛来。切っ先を向けられた瞬間に体を無理に捻っていた暗殺者の右肩を抉り、天井を貫通し夜闇に呑まれて消えた。

 無理に空中で体を動かしたことで着地もままならなくなった男が床に叩きつけられ、そこへカレンの追撃が迫る。

 それを飛び上がるように跳ね起きて、寸でのところで回避。バックステップで壁際に飛び込んだかと思えば、またしても背中から壁に飲み込まれて消えてしまう。

 エドワードは何か違和感を覚えるも、考える時間は与えられない。

 背後で何かが蹴飛ばされる音を聞いて、振り返ると同時に長剣を薙ぎ払う。直後、同時に振り返って短剣を薙いだ暗殺者と刃で激突。同時に切っ先に紡いでいた魔術式を発動する。

 『凍結フリージング』が長剣と噛み合う刃を凍らせていき、短剣を握る指を氷が覆ったところで男は長剣を振り払い、後方へ飛び退った。同時、エドワードは左腕を振りかぶる。

「忘れ物だ!」

 脇腹から引き抜いていた短剣を、持ち主に向けて全力で投擲した。咄嗟に短剣で弾こうとした暗殺者だが、凍った指先で上手く得物を操れず、結果として防御に失敗。短剣は庇った左腕に深々と突き立った。

 そのまま壁に吸い込まれた男は、今度は砕けた祭壇の上に姿を現す。

 抉れた右肩からは血が滔々と流れ、短剣を握る右手は氷で拘束されている。左腕には自身の短剣が貫通し、まさに満身創痍の装いだった。

 対する二人は、エドワードが重傷を負っているものの、カレンは全くの無傷。どちらが優位か、言うまでもない。

「チッ。イケると思ったんだが、思ったよりもヤるねぇ、アンタら。王女様も逃しちまったし、あぁ、死神部隊デッドマンズの名折れだこりゃぁ」

「死神部隊、ですって?」

 問うカレンに答えず、男はずぶずぶと足から沈んでいく。エドワードが追撃せんと式を紡いだ瞬間、暗殺者はニヤリと笑みを浮かべる。

「俺の短剣には全部、遅効性の毒が塗ってあるんだなぁ、これが。さっさと解毒したほうがいいぜぇ?」

 その直後、エドワードの視界がぐにゃりと歪む。足から力が抜け、思わず崩れ落ちたエドワードに驚いてカレンが彼の方向を向いた瞬間、暗殺者は完全に姿を消した。

「ここでは引いといてやるよぉ。だが、次は必ず殺す」

 そんな言葉が礼拝堂に響き渡り、そして完全な沈黙のとばりが落ちる。

 エドワードに駆け寄りながらも警戒するカレンをよそに、その日は何も起こらず。

 護衛開始直後の最初の襲撃は、こうして幕を下ろした。









 人通りのない西区画に、二つの明かりが揺れ動く。日が落ち、街灯も機能しなくなったこの区域では、騒がしくも明るいトゥリエスの普段の顔とは全く違う様子が存在していた。

 揺れ動く明かりは小型の魔具による照明だ。それを持つのは青い制服に身を包むトゥリエス警察の老練の二人組。

 人間が寄り付かなくなったここは、犯罪者の隠れ家にはもってこいであり、また、ともすれば街に侵入した獣や魔物の巣窟にもなりかねない。故に、警察による定期的な巡回が行われており、この二人はその夜の部の人員だった。

 秋の口であるこの季節は、さすがに夜ともなれば大きく冷え込んでおり、厚手のコートを羽織った初老の二人はそれでも寒そうにポケットに手を突っ込んでいる。

「ああ、まったく、寒いったらねぇや。早く帰って女房のスープが飲みたいもんだね」

「確かにそうだが、お前が飲みたいのはスープよりも熱々の熱燗だろう? 呑兵衛が珍しいこと言うもんじゃないな」

「おいおい、俺をなんだと思ってやがんだ。たまにはアルコールよりも塩味の効いたもんが飲みてえ時もあんだよ」

 無人の夜の不気味さを紛らわすためか、初老たちはぼそぼそとくだらないやり取りをしながら、それでも油断なく周囲を見回しつつ足を止めない。

 明かりを時々路地裏などに向けながら、アルコール好きの相棒がふと思い出したように話題を振る。

「そういや、魔術犯罪課の連中、殺気立ってやがったな。なんか知ってるか?」

「ああ、あれか。よく知らんが、街の出入りで派手に交戦した奴らがいるみたいでな。死人は出てないようだが、巻き込まれて軽傷を負った一般人がいる上、それを庇おうとして重症になった身内もいるらしい」

「誰だ? 重症ってのは」

「確か若い奴だったな、名前は、ハーヴィー、だったか?」

「ほー、最近の若い奴にも気骨のあるのがいるもんだな。医療魔術の発展で怪我はすぐ治るようになったが、それでも前に出ることを怖がるガキの多いこと。怪我しなきゃ覚えられねえことも多いってのによ」

「まったくだな。俺たちは人々の――ん?」

 寒さを紛らわせる会話の最中、二人組の一人が何かに気づいたように顔を跳ね上げた。

 その唐突な動きに、相方が「どうした」と少しの緊張感を漂わせながら問う。

「いや、何か音が――いや、爆発音がしたぞ」

「なに? どっちだ」

 尋常ならざるその言葉に、相方は緊張感を高めて腰の短剣に手をやる。

 その彼に「静かにしろ」というジェスチャーを送った男は、魔術式を展開。『鋭敏感センシティヴ』が発動され、男の五感が強化される。さらに目を閉じ、情報を聴覚のみに絞った男は、やがて路地裏を小さく反響しながら聞こえてくる剣戟の音を耳にした。同時、その方角と距離も察知する。

 魔術を停止し、腰の剣を引き抜いた警官は相棒に声をかける。

「よし、行くぞ。……おい?」

 走り出そうとした彼は、いつもなら聞こえてくる威勢のいい返事がないことに疑問に思い、斜め後方にいる相方に振り返る。

 そこに、相方は居なかった――否、居た。先ほどまで立っていた場所に、うつ伏せで倒れ込んでいる。

 「どうした!?」と思わず駆け寄って助け起こし――悲鳴を上げそうになるのを必死で堪えた。アルコール好きの相方の姿は、それほどまでに大きく変わり果てていたのだ。

 目、鼻、口、耳――顔中の穴という穴から血液を垂れ流し、見開いた目は虚空を睨んで二度と動くことはない。口は何かを叫ぼうとしていたのか、大きく開いたまま無言だ。

 尋常な死に方ではない。どんな攻撃を受ければ、声も出せずに熟練の相方が命を奪われ得るのか。いや、そもそも聴覚を強化していた先ほどまでの状況で、どうやって自分に気づかれずに死ぬことができる?

 数々の疑問を前に、思考をフル回転させて固まる警官。そんな彼の耳に、息がかかるほどの距離で何者かが、そっと、囁いた。

「今行かれちゃ、困るんだよな」

 言葉と共に、さらり、と首筋を優しく撫でられる。

 同時、警官の背筋を駆け落ちる悪寒。

 反射的に握っていた長剣を薙ぎ払い、相方の死体を置いて声の方向とは離れるように全力で跳躍。同時に魔術式を紡ぎ、発動、『光弾レディエイトバレット』が射出される。

 声の主に向かって飛んだ光の弾丸は跳び退ることによって回避されるも、夜の闇の中で煌々と光る球は相手の姿を鮮明に照らし出した。

 ぼさぼさの黒い髪、闇の中で映えた浅葱色の瞳。刺青に覆われた両手が何故か強く印象に残った。

 しかし、それを認識した直後、突如として耐え難い激痛が警官の胸を襲う。まるで不可視の刃に貫かれたかのような冷たい痛みに、熟練の戦士でもある男から悲痛な声が漏れた。

「ぁ……が、ああ……っ!?」

 警官の視界が真っ赤に染まり、立っていることもできずに膝から崩れ落ちる。馬鹿な、目の前の男は何もしていなかったはずなのに、と理解不能の事象に男の思考が無意味に回転した。

 うずくまる彼の目の前の地面にはポタポタと血の点が落ち、自身の顔面から血が流れ出ていることをようやく警官は理解する。

 そして、そう理解したのを最後に、彼の四十数年の人生は、呆気なく幕を閉じたのだった。

 その死に様が彼の相方と全く同じものであることに、最後まで警官自身が気付くことはなかっただろう。

 崩れ落ちた警官を見下ろして、瞬く間に二人の警官を殺した犯人はすぐに興味を失って天を仰ぐ。否、それは明らかにある方角を見つめていた。

 それは、今しがた絶命した警官が異常を認識していた、今も戦いが行われている方向。そこには大穴の開いた廃教会があり、二人と一人が命の削り合いをしている。

 しばらくその場に佇んでいたその男は、不意に口を開く。

「へぇ、カワードが殺り切れなかったか」

 呟いた言葉の意味は如何なるものか。偶然か否か、彼の言葉の直前、廃教会の戦いは終幕を迎えていた。

 くつくつと男は笑いながら、落ちていた照明魔具を踏みつぶす。

「開幕はこんなものか、まあいいだろう」

 そして、路地裏に向けて足を運び、夜陰に紛れてその姿を隠しながら、静かに宣告する。

「王女よ、どうせ逃げられはしないんだ。今日のところは引いてやるよ……今のうちに、精々足掻くがいいさ」

 声だけが人の居ないトゥリエスに響く。男の姿は完全に闇に消えていた。

 後に残ったのは、無惨な骸を晒す警官たちだけだった。

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